31.やさしいこえの
扉が激しく開いたあとの空気は、まるで別物だった。
キャロルが飛び込んできて、息も絶え絶えに姉さまへ何かを伝えた。姉さまはすぐに立ち上がって、僕に「待っていてね」と言って、ほんの一瞬だけ頭を撫でてから部屋の外へ出ていった。
その時の声は、たしかにやさしかった。
やさしかったからこそ、逆に分かってしまった。
これは、ただ事じゃない。
「……フィオ」
僕が呼びかけると、すぐそばにいたフィオレッタがびくりと肩を震わせた。
顔色は青い。けれど彼女は、その小さな身体に似合わないくらい真っ直ぐな動きで剣を抜き、僕の前に立つ。
細く整った肩が、小さく震えていた。
怖いんだ、と思った。
当然だ。僕だって怖い。部屋の外から聞こえる音は、もう祝宴のものじゃない。重たい何かがぶつかる音。遠くで誰かが短く叫ぶ声。慌ただしく走る足音。扉の前を横切るメイドさんたちの影も、さっきまでの給仕の動きとは全然違っていた。
誰もが何かを決めた顔をしている。
僕はベッドの上で、無意識にシーツを握りしめた。ペンダントが胸元で小さく揺れる。心臓の音がうるさい。呼吸を整えようとしても、浅くなってしまう。
どうしよう。
何が起きてる。
姉さまは大丈夫なんだろうか。
ミレーユさんやキャロルさんは。
頭の中で不安がいくつも浮かんでは消え、まともに形になってくれない。
扉の向こうから、何かが砕けるような音がした。
びくりと身体が震える。
フィオが一歩前へ出る。剣を両手で構えるその姿は、空中庭園で見た時みたいに綺麗だった。けれど今は、あの時みたいな見惚れる余裕なんてない。細い指先にまで力が入っていて、白くなっているのが見えた。
「……リリス様」
フィオは前を見たまま言った。
「わたくしの後ろにいてくださいまし」
「う、うん……」
返事をしたけれど、自分の声が情けないくらいか細かった。
扉の外で、急に音が途切れた。
一瞬の静寂。
ぞっとするような、嫌な沈黙だった。
何かが近づいてくる気配がする。
足音は、不思議なくらいゆっくりだった。慌てるでもなく、怒鳴るでもなく、ただ普通に歩いてくるような、落ち着いた足音。
こつ。
こつ。
その音だけで、部屋の空気が冷えていく気がした。
扉が、開く。
僕は息を呑んだ。
最初に目に入ったのは、黒だった。
長い黒髪。夜の色をそのまま織り上げたみたいな衣。血の匂いの混じる空気の中に立っているのに、その人は妙に整って見えた。顔立ちは綺麗で、大人の女の人という感じがする。年上のお姉さん。やわらかく笑ってさえいれば、親切そうにも見えてしまいそうな、そんな人だった。
でも、違う。
見た目が綺麗とか、そういう感想が浮かぶより先に、本能みたいなところが拒絶した。
怖い。
何が怖いのか、自分でもうまく言えない。ただ、この人は危ない、と身体が勝手に理解してしまう。氷みたいに冷たいのに、どこか濡れた土みたいな匂いがする。生きている人の熱が、うまく感じられない。なのに目だけが妙にやさしげで、そのちぐはぐさが余計に不気味だった。
その人は部屋へ入るなり、まっすぐこちらへ向かってきた。
まるで、最初から僕だけを見ていたみたいに。
フィオが、しゃっと一歩前へ出て剣を構える。
「……止まりなさい」
声が震えていた。
それでも逃げない。
僕の前からどかない。
その人――黒衣の女の人は、そこで初めて足を止めた。興味深そうに首を傾げると、今度は僕じゃなくてフィオの顔をじっと見つめる。
「……あらぁ」
やわらかく、間延びした声。
「そのお顔……グロズ君のお孫さんねぇ」
フィオの肩がびくりと震えた。
黒衣の女の人は、少しだけ懐かしそうに目を細めた。
「大きくなったのねぇ。昔はもっとちっちゃかったのにぃ」
まるで本当に知り合いに話しかけるみたいな口調だった。
でもフィオは何も答えない。
答えられない、のかもしれない。
剣を構えたまま、唇をきゅっと結んでいる。怖いのが伝わってくる。けれど、その足は下がらない。両腕は震えているのに、それでも剣先だけは僕を守る位置からずらさない。
僕はその背中を見て、胸の奥が苦しくなった。
たぶんフィオだって、こういうのは怖い。
まだ子どもだ。僕とそう変わらないくらいの年で、それでも今は令嬢とか友達とかじゃなくて、一人の剣士として立ってくれている。
黒衣の女の人は、そんなフィオを見ても、別に怒るわけでも、嘲るわけでもなかった。ただ困ったように笑って、肩をすくめる。
「うーん……でも、わたしぃ、子どもをいたぶる趣味はなくってぇ」
その言い方が、妙にやさしくて、ぞっとした。
次の瞬間、彼女がすっと片手を持ち上げる。
本当に、ただ手を上げただけに見えた。
それなのに。
フィオの身体から、急に力が抜けた。
「……え」
僕の口から、間の抜けた声が漏れる。
剣を握る手がかくんと下がり、膝から崩れ落ちるみたいに、そのまま床へ倒れ込んだ。
「フィオ!?」
思わず叫ぶ。
でも血は出ていない。斬られたわけでも、吹き飛ばされたわけでもない。ただ、糸が切れた人形みたいに、その場で眠るように倒れた。
黒衣の女の人は、淡々とした声で言う。
「心配しなくていいですよぉ。ちょっと寝てもらっただけですぅ」
フィオは床に横たわったまま動かない。
僕の頭の中で、何かがぶつぶつと切れたような気がした。
怖い。
怖いのに。
それ以上に、胸の奥から冷たいものが込み上げてくる。
この人は、やっぱりおかしい。
にこにこしている。
声もやさしい。
なのに、やっていることが全部、どうしようもなく怖い。
その人は、もうフィオに興味をなくしたように僕へ視線を戻した。
その視線は、敵を見る目というより、ずっと探していた何かをようやく見つけた時みたいだった。
「こんにちはぁ」
にっこりと微笑む。
その微笑みは、初対面の相手に向けるには妙に親しげだった。
「リリスちゃん」
ぞくりと背筋が粟立つ。
どうしてそんなふうに呼べるんだろう。
どうして僕の名前を、そんな親しいみたいな口調で言えるんだろう。
黒衣の女の人は、少しだけ首を傾げた。長い黒髪が、肩からさらりと滑る。整った顔立ち。柔らかな笑み。綺麗なお姉さん、と言ってしまえばそうなのかもしれない。
でも、その笑顔の奥には何もない。
少なくとも、僕にはそう見えた。
誰かを安心させるための笑顔じゃない。
誰かを思いやるための声でもない。
ただ、そういう形をしているだけだ。
「やっと会えましたねぇ」
その言葉に、胸がどくんと鳴った。
やっと?
会いに来た?
僕に?
意味が分からない。
分からないのに、その一言だけで、今まで胸の奥にぼんやり沈んでいた嫌な予感が、一気に輪郭を持ってしまった。
この人は、最初から僕を目指してここまで来たんだ。
僕の喉がひりつく。
「……だれ、ですか」
ようやくそれだけを絞り出す。
口から出たのは、たったそれだけだった。
黒衣の女の人は、嬉しそうに目を細めた。
「名乗ってませんでしたねぇ。失礼しましたぁ」
そう言って、スカートの裾をつまむみたいに、ほんの少しだけ上品に礼をする。こんな状況なのに、その仕草だけは妙に綺麗で、だから余計に現実味がなかった。
「わたしはリリセア・グリム」
僕はベッドの上から動けないまま、ただ彼女を見ていた。
逃げなきゃいけない。
危ない。
そう思っているのに、体が言うことを聞いてくれない。もともと強い身体じゃないのに、恐怖でさらに重くなっている。足に力が入らない。立てる気がしない。
リリセアはそんな僕の沈黙をどう受け取ったのか、またやわらかく笑った。
「そんなに怖がらなくても大丈夫ですよぉ」
大丈夫なわけがない。
心の中でそう叫ぶのに、声にはならない。
「今日はねぇ、あなたとお話ししたくて来たんですぅ」
話。
その言葉に、喉がからからになる。
この人が僕に話したいこと。
それはきっと、聞いたら終わりの何かだ。
今までの“何も知らない僕”ではいられなくなるような。
リリセアは一歩、また一歩と近づいてくる。
僕はベッドの上で、後ずさろうとして、でもうまく下がれなかった。
背中に冷たい壁が当たる。
逃げ場がない。
リリセアはそこでようやく歩みを止めた。
近い。
よく見ると、白い肌は病的なくらい滑らかで、睫毛も長い。頬にかすかに付いた赤黒い飛沫だけが、この人が今ここへ来るまでに何をしてきたのかを思い出させる。綺麗なのに、怖い。やさしそうなのに、何も信じられない。
彼女は僕を見て、嬉しそうに微笑んだ。
その人は、まるで昔からの知り合いにでも会いに来たみたいに笑っていた。
僕は喉の奥がからからになるのを感じながら、その黒衣の女の人――リリセア・グリムを見つめていた。逃げたい。怖い。姉さまのところへ行きたい。ミレーユを呼びたい。いろんな気持ちがぐちゃぐちゃに混ざっているのに、足は動かない。
リリセアはそんな僕を見て、ふふ、とやわらかく笑った。
「そんなに身構えないでくださいよぉ。いきなり襲ったりはしませんからぁ」
その言葉を信じられるわけがない。
フィオを眠らせたのは、たった今この人だ。
それでも彼女は、まるでこちらの警戒なんて気にもしていないみたいに、ゆっくりとした口調で続けた。
「……そうですねぇ。何から話しましょうかぁ」
その声音は妙にのんびりしていた。
だけど、そこに迷いはなかった。最初から決めていた台本をなぞるみたいに、彼女は言葉を選んでいく。
「まずは昔話でもしましょうかぁ」
昔話。
そんな言葉が、この状況に似合うはずがない。
でもリリセアは気にした様子もなく、どこか遠くを見るように目を細めた。
「わたしねぇ、もう自分がいつから生きてるのか、ちゃんと覚えてないんですよぉ」
その言葉に、僕は少しだけ眉をひそめた。
覚えていない?
いつから生きているのかを?
リリセアは肩をすくめる。
「昔すぎてぇ。気づいた時には、もうずいぶん長く生きてましたぁ。百年とか二百年とか、そういう数え方も、途中でどうでもよくなっちゃってぇ。だって、終わらないんですもん」
口調は軽い。
でも、その軽さが逆に妙だった。
「不老不死なんですよぉ、わたし」
不老不死。
その言葉の重さは、僕にも分かった。
死なない。
老いない。
終わらない。
それは普通なら、すごい力だとか、羨ましいものだとか、そういうふうに語られるのかもしれない。けれどリリセアの言い方には、そういう響きがまるでなかった。
「最初はねぇ、きっと楽しかったんだと思いますよぉ。いろんなものを見て、いろんな場所へ行ってぇ。でも、長すぎると飽きちゃうんですよねぇ。人が生まれて、育って、死んでいくのを何度も見てると、そのうちみんな同じに見えてくるんですぅ。国も、戦争も、平和も、結局くり返しでしかなくってぇ」
笑っている。
なのに、その笑い方はひどく空っぽだった。
「生きるのに疲れちゃった、って言えば分かりますかぁ?」
その問いに、僕は答えられなかった。
分からない。
分かるわけがない。
僕は一度死んでいる。
でもそれは、過労で倒れて、気づいたら別の世界で別の身体になっていた、というだけの話だ。死にたくて死んだわけじゃないし、不老不死で生き続けたこともない。終わらない時間に疲れる気持ちなんて、想像もつかない。
だけど、リリセアの声には嘘っぽさがなかった。
少なくともその部分だけは、本音なんだろうと思った。
「だからねぇ、わたしは昔から、いつか終わらせてくれる人を探してたんですぅ」
そこで彼女は、少しだけ楽しそうに目を細める。
「ヴァルザード君に会った時、ああ、この人かもしれないなぁって思ったんですよぉ」
リリセアは当然のように言った。
「ヴァルザード君はねぇ、魔王になる前からすごかったんですよぉ。強くて、頭も良くて、変に真面目でぇ。嫌になるくらいまっすぐな人でしたぁ。だから、わたし、あの人が魔王になる前から六魔柱として仕えてたんですよぉ」
六魔柱。
フィオが前に少し教えてくれた、魔王直属の六人。
この国を支えていた柱。
リリセアはその一人だった。
「……君のお父さんだよ〜」
やわらかく、けれど逃げ道を残さない声で、リリセアは言った。
「ヴァルザード・ヴァル=ネメシア。君のお父さん」
僕の喉がひゅっと鳴る。
やっぱりそうなんだ、と思った。
でも、そう思ったことと、真正面から言葉として突きつけられることは全然違った。
父。
僕の父。
いるはずなのに、いない人。
名前だけはあるのに、誰もはっきり話してくれなかった人。
前世の家族の記憶は、もうかなりぼやけている。
顔も、声も、生活も、薄い膜の向こうみたいだ。
なのに今の世界の父のことは、ぼやけているというより、最初から隠されていた。
その違いが、急に現実味を帯びて胸の奥へ落ちてきた。
リリセアは続ける。
「君のお父さんねぇ、昔わたしに言ってくれたんですよぉ。『いつかお前を殺してやる』ってぇ」
言い方はふざけているのに、その言葉自体は重かった。
「ひどい言い方でしょう? でも、わたしにはそれが、すごくうれしかったんですぅ。あの人なら、いつかほんとに終わらせてくれるかもしれないって思えたからぁ」
そこで彼女は、ほんの少しだけ目を伏せた。
「だから、仕えてたんですよぉ。六魔柱として。あの人が王座に座ってからも、そのずっと前から」
僕は何も言えなかった。
この人の言葉は、どれも奇妙だった。
父のことを語っているのに、懐かしそうで、少しだけ愛着みたいなものすら滲んでいるのに、最後には全部“死にたい”へ戻っていく。
そこがどうしようもなく怖い。
リリセアの中では、誰かを慕うことも、信じることも、たぶん“自分を殺してくれるかもしれない”って期待とつながってしまっているんだ。
それは、まともじゃない。
「でもねぇ」
彼女の笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。
「六年前に、人間と魔族の大きな戦争があったでしょう?」
知らない。
リリセアは当たり前みたいに言った。
「君のお父さん、死んじゃったんですよねぇ」
世界が一瞬、止まったみたいに感じた。
「……え」
声が漏れる。
自分でも信じられないくらい、小さい声だった。
頭が真っ白になる。
でも、その白さの中で、いくつもの違和感が一気に繋がっていく。
父の話が出ないこと。
魔王なのに一度も会っていないこと。
セレヴィアが魔王“代理”をしていること。
誰も両親のことを詳しく話したがらなかったこと。
僕は今まで、それを“何か事情があるんだろう”で済ませてきた。
知るのが怖かったのかもしれない。
考えるのを避けていたのかもしれない。
でも、言葉にされてしまった。
「知ってたかなぁ?」
やわらかい声で問われる。
僕は首を振ることもできなかった。
知らない。
知らなかった。
ただ、唇がわずかに震えるだけだった。
リリセアはそれを見て、ああやっぱり、みたいにうなずく。
「ですよねぇ。隠してたんでしょうねぇ、セレヴィアちゃんたち。やさしいからぁ」
やさしい。
その言葉が、胸に刺さる。
姉さまは、知っていて隠していた。
ミレーユさんも、知っていた。
みんな知っていて、僕にだけ教えなかった。
守るために。
傷つけないために。
たぶんそうなんだろう。
でも今、それをこんな人の口から聞かされていることが、どうしようもなくつらかった。
「それでねぇ」
リリセアは話を止めない。
僕がどんな顔をしていても、関係ないとでも言うみたいに。
「ヴァルザード君が死んじゃったから、わたしも魔王軍にいる意味があんまりなくなっちゃってぇ。ずっと部屋に籠って研究してたんですぅ。死ぬ方法、終わる方法、呪い、魂、器、いろいろねぇ」
研究。
その単語の不穏さに、背中が冷たくなる。
「でも、なかなか見つからなくてぇ。やっぱり不死って面倒なんですよぉ。殺されない。壊れない。終われない。何しても続いちゃう」
軽い言い方なのに、言葉の中身はひどく重い。
「そしたら最近になってぇ、教会側から交渉が来たんですぅ」
僕は顔を上げた。
「……きょうかい、がわ?」
「そうですよぉ」
にこりと笑う。
「わたしが向こうにつく代わりにぃ、死ぬことができる方法を教えてあげる、ってぇ」
息が詰まる。
その意味を理解したくなくて、なのに理解できてしまう。
「その方法っていうのがねぇ」
彼女は一歩だけ近づいた。
僕は反射的に身体を引こうとしたけれど、背中はもう壁に当たっている。逃げられない。
リリセアの瞳が、まっすぐ僕を覗き込む。
「戦争の最中、信託官セラ・ヴェルミエールによってかけられた禁呪系の呪いだったんですぅ」
セラ・ヴェルミエール。
その名前も、僕には初めてだった。
けれど“禁呪”という響きだけで、ろくでもない相手だと分かる。
リリセアは、歌うみたいにその名を告げた。
「《終焉呪詛》」
呪いの名前。
その響きは、意味が分からなくても嫌だった。
どれも、僕に触れてほしくない言葉だった。
「リアーナ――君のお母さんにかけられた呪いですよぉ」
母。
僕の知らない、もう一人の人。
リリセアは淡々と続ける。
「その呪いはねぇ、お母さんの命と魔力を苗床にしてぇ、次に生まれてくる子どもへ“終わり”を宿す禁呪だったんですねぇ。普通なら生まれる前に死ぬか、お母さんごと滅ぶか、どっちかでしょうねぇ」
頭の中で、音が遠くなる。
「でも君は生まれちゃった」
やさしい声。
残酷な内容。
「呪われた子としてぇ。お母さんの命と引き換えにねぇ」
僕の指先から、力が抜けていく。
虚弱な体質。
すぐ熱を出す身体。
ちょっと歩くだけで息が上がること。
みんなの表情が曇ること。
それが全部、一本の線で繋がっていく。
「君のその弱い身体もぉ」
リリセアの視線が、僕の胸元から指先へゆっくりと落ちる。
「魔力が身体を蝕む性質もぉ」
やめてほしい、と思った。
聞きたくない。
でも耳を塞げない。
「ぜーんぶ、その呪いのせいなんですよぉ」
胸が、きゅっと縮む。
僕は前世のことを思い出す。
弱くはなかった。
疲れてはいた。すり減っていた。けれど、少なくとも普通に働ける身体だった。無理をして、無理を重ねて、最後に壊れただけだ。
でも今の僕は違う。
最初から壊れかけている。
生きるだけで何かを削っているような感覚が、ずっとどこかにあった。
それが、呪い。
母の命と引き換えに生まれた、呪われた子。
ぞわ、と全身に悪寒が走る。
僕は、何なんだ。
生まれてきてよかった存在なのか。
姉さまが抱きしめてくれたあの温かさは、こんなものに向けられていいものだったのか。
母を殺して生まれたような僕が、誕生日なんて祝われてよかったのか。
そんな考えが、一瞬で胸の内を埋め尽くす。
苦しい。
息が吸えない。
リリセアはそんな僕を、興味深そうに見つめていた。
「すごいでしょう?」
何が、とは言わない。
でも彼女の中では、たぶん本当に“すごい”んだろう。
「その呪いはねぇ、不完全な形で君の中に宿ってるんですよぉ。だから君は死にきれないし、生ききれない。壊れそうで壊れない。魔力があるのに扱えば自分を蝕む。まるで“終わり”そのものを身体の中に抱えてるみたいにねぇ」
ぞっとした。
僕の中に、終わりがある。
そんな言い方、してほしくなかった。
でも、妙に納得してしまう部分があるのが嫌だった。
僕はこの世界に来てから、何度も思っていた。
自分の身体は普通じゃない、と。
弱いだけじゃない、何かがある、と。
それが今、こんな形で言葉になって突きつけられている。
「人間側はねぇ、その呪いに興味を持ってたんですぅ。というより、利用したがってたんですねぇ。君をどうこうするつもりなのかは、正直そこまで興味ないですけどぉ」
興味ない。
その一言が、ものすごく冷たかった。
この人にとって僕は、ひとりの子どもじゃない。
苦しんでいる誰かでもない。
ただ、呪いの器。
終わりの素材。
それだけなんだ。
リリセアは少しだけ頬を緩める。
「でも、わたしには関係ありますぅ」
そして、ゆっくりと言った。
「その呪いがねぇ、欲しいんです」
空気が止まったみたいだった。
欲しい。
呪いが。
僕の中にあるものを。
頭が理解するより先に、身体が強く拒絶する。寒い。気持ち悪い。逃げたい。心臓が暴れるみたいに打ち始める。
リリセアは一歩、さらに近づいた。
もうすぐ手が届きそうな距離。
綺麗な顔が、ぞっとするほど近い。
「終われないわたしに、“終わり”をちょうだい」
その言い方は、恋人にでも何かをねだるみたいに甘かった。
でも内容は、吐き気がするくらいおぞましい。
「だからぁ」
口元が、ゆっくりと吊り上がる。
今までの笑顔とは違った。
やわらかく親しげに見せていた仮面が、そこで初めてほんの少しだけずれる。
その下から覗いたのは、底のない執着だった。
「私のために死んで、リリス・ヴァル=ネメシア」
その瞬間、世界の色が抜けた気がした。
頭の中が真っ白になって、でも心臓だけがやけに大きく鳴っている。
死んで。
私のために。
そう言われた。
前世で死んだ時のことなんて、もうほとんど覚えていない。
雪の夜。
寒さ。
重い身体。
遠くなる意識。
それくらいしか残っていない。
でも今、目の前にある“死”は、あの時とはまるで違う。
事故でも過労でもない。
ただ、誰かの都合で、誰かの願いのために、“死んでほしい”と望まれている。
それがこんなにも怖いことなんだと、初めて知った。
僕は声を出そうとした。
嫌だと言いたかった。
助けてと叫びたかった。
でも喉はひゅうひゅうと音を立てるだけで、うまく声にならない。
リリセアの不気味な笑顔が、僕の視界いっぱいに広がっていく。
その笑みの奥には救いがない。
同情も、ためらいも、罪悪感もない。
あるのはただ、終わりたいという執着だけだ。
そのためなら、まわりの命なんて、本当に何でもないと思っている顔。
そのことが、何よりも恐ろしかった。
僕は震える指で、無意識に首元のペンダントを握りしめる。
姉さまがくれたもの。
今日、誕生日にくれたもの。
ついさっきまで、あんなに温かかったはずの日が、
今はもう、遠い昔みたいだった。




