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30.偽りの王揺らぐ刃


 黒を基調とした重厚な室内に、白銀の飾り布と淡い花々が添えられ、魔灯のやわらかな紫光がそのすべてを静かに照らしている。窓の外にはグラティオルの深い夜が広がり、魔力の霧がゆるやかに揺れていた。けれど室内には甘い菓子の香りと、祝いの席ならではのあたたかな空気が満ちている。


 その中心にいるのは、当然ながらリリスだった。


 特別に誂えたドレスに身を包み、丁寧に整えられた銀髪を揺らしながら、どこか落ち着かなさそうに身を縮めている。首元には、先ほど贈った月飾りのペンダント。小さな胸が呼吸に合わせて上下するたび、青い宝石がかすかに光を弾いた。


 リリスはまだ、自分がどれほど尊い存在なのか分かっていないのだろう。フィオレッタが必死に平静を装っていることも、部屋の隅で控えるメイドたちが息を呑むように見守っていることも、きっと完全には理解していない。ただ、皆に祝われて、戸惑って、恥ずかしがって、それでも困ったように微笑んでいる。


 その姿だけで、救われる者がいる。


 少なくとも、私がそうだった。


「ねえさま……?」


 不意に名を呼ばれ、セレヴィアは思考を現実へ引き戻した。いつの間にか、見つめすぎていたらしい。リリスが赤紫の瞳を少しだけ揺らし、不安そうにこちらを見上げている。


「……ごめんなさい。あまりにも可愛くて、見惚れてしまっていたわ」


「そ、その、あまり、みないでください……」


 恥ずかしそうに視線を逸らし、小さく肩をすくめる。その反応すら愛おしくてたまらない。抱きしめたい衝動を抑え込み、セレヴィアはわずかに口元を和らげた。


 バンッ!! と。


 静かな室内を引き裂くように、扉が激しく開かれる。


 蝶番が悲鳴を上げるようなその音に、部屋の空気が一瞬で凍りついた。メイドたちが息を呑み、フィオレッタが反射的に身をこわばらせる。リリスの肩もびくりと震えた。


「セレヴィア様!!」


 駆け込んできたのはキャロルだった。


 普段なら転びながら飛び込んでくるようなあの猫獣人のメイドが、今は転ぶことすら忘れたように息を切らしている。琥珀の瞳は大きく見開かれ、耳も尻尾も逆立つように張りつめていた。顔色は青ざめ、声は切迫し、そこに冗談や愛嬌の入る余地はひとかけらもない。


 それだけで、悟る。


 何かが起きたのだと。


 しかも、ただ事ではない。


 セレヴィアは椅子を引くことすらせず立ち上がった。すぐ傍のリリスへ身をかがめ、できる限りやわらかな声を作る。


「リリス。待っていてね」


 自分でも驚くほど穏やかな声だった。胸の内では、冷たいものがすでに広がり始めているというのに。


「ねえさま……?」


「大丈夫。すぐ戻るわ」


 その小さな頭をひと撫でしてから、セレヴィアは扉へ向かった。


 開かれた扉の陰。室内からは死角になっていた位置で、壁にもたれるようにしていたものを見た瞬間、セレヴィアは息を止めた。


「……ミレーユ」


 白いメイド服の腹部が、赤黒く染まっていた。


 いや、染まるなどという生易しいものではない。布は大きく裂け、そこから夥しい血が流れている。床にはすでに暗い血溜まりが広がり始め、魔灯の紫光がぬめるように反射していた。普段は寸分の乱れもなく整えられている銀白の髪も、今は汗と血で張りついている。


 それでもミレーユは倒れていなかった。片膝をつき、意識を失うまいとするように歯を食いしばっている。その双眸はまだ死んでいない。だが深手だ。明らかに致命傷に近い。


 胸の奥で、何かが冷たく軋んだ。


「何があった」


 問う声は、自分でも驚くほど低かった。


 キャロルが荒い息のまま、言葉を絞り出す。


「中央回廊が……おかしいんですニャ……! 人が、誰もいなくて……ミレーユ先輩が、敵を見つけて……! その、そいつは、死ななくて……腕を斬っても、すぐ……!」


「名前は」


 キャロルの瞳が震えた。


「《幽葬》……リリセア・グリム、ですニャ……!」


 その名が耳に入った瞬間、室内の温度がさらに数度下がったように感じた。


 リリセア・グリム。


 失踪した六魔柱第三席。死霊術師。幽葬。不死。六年前の戦ののち、忽然と姿を消した女。


 まさか――ではない。


 あり得る可能性として考えてはいた。だが、よりにもよって今日、この場所に来るとは。


 しかも、ここまでミレーユを追い込んで。


「城内の兵は」


「分かりませんニャ……でも、ミレーユ先輩が……もう、みんな……って……」


 全滅、あるいはそれに近い。


 最悪の想定が脳裏に並ぶ。フィリシアは配置についているはずだが、この異変にどこまで気づけている。シオンは調査中。カノーネは出撃中。グロズは――。


 思考を巡らせる、その一瞬。


 ぴたりと、空気が変わった。


 背筋を這うような死の気配。粘つくような魔力の波。それが廊下の奥からまっすぐこちらへ伸びてくるのを、セレヴィアは感じ取った。


 セレヴィアは右手を前へ突き出した。


 展開したのは防御魔法。透明な氷晶を幾重にも編み込んだような多重障壁が、扉の前方に瞬時に構築される。


 直後。


 ヒュン、と鋭く空気を裂いて飛来した深紅の刃が、その障壁に激突した。


 ガギィン!! と、甲高い音が廊下に響く。


 血で形成された刃だった。月光も届かぬ回廊の奥から、赤黒く光を反射しながら一直線に飛んできたそれは、一枚目の障壁を砕き、二枚目にひびを入れ、三枚目でようやく勢いを殺されて床へ落ちる。落ちた瞬間、刃は液体めいて崩れ、じわりと石床を汚した。


 その先。


 闇の向こうから、こつ、こつ、と足音が響く。


 まるで散歩でもしているような、のんびりとした歩調。


 やがて姿を現した女は、記憶の中とほとんど変わらぬ笑みを浮かべていた。


 黒い衣。長い黒髪。穏やかに細められた瞳。頬に飛んだ返り血すら、赤い花弁のように見えてしまうほど、異様に整った容貌。だがその全身から漂うものは、美しさではなく死そのものだった。生者の熱を拒むような、静かな冷気。墓所の奥底を思わせる、乾いた終焉の気配。


 リリセア・グリムは、足を止め、柔らかな声で言った。


「お久しぶりですぅ、セレヴィアちゃん。……ああ、でも今は、魔王代理様かなぁ?」


 その声音は昔と変わらない。間延びした、柔らかな口調。懐かしい知人に声をかけるような響きですらあった。


 だからこそ、なおさらおぞましい。


「……その名で私を呼ぶな、リリセア」


 セレヴィアの声は凍てついていた。


「どうしてですかぁ? 昔はあんなに可愛かったのにぃ」


 くすり、と微笑む。


 まるで本当に親しみを抱いているかのように。ミレーユを瀕死に追い込んだ者とは思えないほど、穏やかに。


 だが、セレヴィアはその目を知っていた。


 何も映していない目だ。生も死も、敵も味方も、すでに等しく遠いものとして眺めている目。かつて六魔柱として玉座の傍らにあった頃から、彼女の奥底にはずっとそういう空洞があった。今はそれが、完全な死の色で満たされている。


 この女を、ここで止める。


 その意志が、静かに定まる。


 セレヴィアは左手を軽く開いた。


 それだけで空間が震える。


 目に見えない異次元の裂け目が、闇の中にひらく。そこから滲み出したのは、濃密な魔力だった。冷たいのに灼けつくような、王家にしか扱えぬ重圧を帯びた力。それが糸を織るように凝縮し、一振りの剣の形を成していく。


 漆黒。


 まず現れたのは、夜そのものを切り出したような刃だった。鏡のように艶やかな黒光りを放ちながら、その表面には血のように赤い魔紋がゆっくりと脈動している。まるで生き物の血管のように、あるいは眠る獣の呼吸のように、赤は刃の内側で明滅していた。


 鍔は左右非対称。


 片側は鋭く広がる氷の翼を思わせる造形で、透き通るような冷たさを宿し、もう片側は闇の羽根を模した禍々しい輪郭を描いている。相反する二つの意匠が、しかし異様な均衡で一つに収まっていた。柄にはヴァル=ネメシア家の紋章が刻まれ、継承者の手に収まった今、淡い赤光を灯している。


 セレヴィアは、静かに切っ先をリリセアへ向けた。


「ここから先には通さない」


 低く、断じる。


 リリセアの笑みが、わずかに深くなった。


「あらぁ……その剣、まだちゃんとあなたのところにいたんですねぇ」


 細められた瞳が、魔剣を懐かしむように見つめる。


「ノクターン、久しぶりに見ましたぁ」


 その名が、廊下の静寂に落ちた。


 ノクターン。


 ヴァル=ネメシア家に伝わる継承の魔剣。王家の血を持つ者しか扱えず、他者が触れれば霧のように消え去る、魔王の証。数多の戦場を越え、血と記憶を宿し、今なお主を選ぶ剣。


 リリセアはその姿を前にしても、恐れた様子を見せない。むしろ、どこか懐旧めいた色を帯びている。


「ヴァルザード君が持っていた頃は、もっと重たくて、もっと怖かった気がするんですけどねぇ。今のあなたが持つと、少しだけ小さく見えますねぇ」


「黙れ」


「ふふ」


 その笑みに、セレヴィアの中で何かが静かに切れた。


 父の名を軽々しく口にするな。

 この場に流れた血を、祝福の夜を、妹の誕生日を汚すな。


 言葉にしない激情が、ノクターンの赤い紋様を一層濃く揺らめかせる。剣が応える。主の感情に呼応するように、刃の内を走る血紋が妖しく脈打った。


 セレヴィアは一歩、前へ出た。


 ドレスの裾が静かに揺れ、黒大理石の床に長い影を落とす。もう姉の顔は消えていた。そこにいるのは、王都ノクタリアを預かる魔王代理ただ一人。


「リリセア。最後に問うわ」


 声は冷えきっていた。


「何のためにここへ来た」


 リリセアは小首を傾げる。まるでそんなことも分からないのかと言わんばかりに、困ったように微笑んでから、廊下の先――部屋の中、そのさらに奥を見た。


 その視線の先に誰がいるのかなど、考えるまでもない。


「会いに来たんですよぉ」


 ぞくり、と空気が震える。


「あなたの妹さんにねぇ」


 その瞬間、セレヴィアの周囲の温度が一気に落ちた。


 魔力が膨れあがる。青白い霜が足元から石床を這い、廊下の壁に白い結晶を生じさせていく。怒りを呑み込んだまま極限まで研ぎ澄まされた殺意が、静かに、けれど確実に世界を凍らせていった。


「……そう」


 セレヴィアは、ゆっくりとノクターンを構えた。


 漆黒の刃が、紫灯の下でぬらりと光る。赤い魔紋が波打ち、まるでこれから流れる血を先に知っているかのように明滅した。


「なら、あなたはここで終わりよ」


 リリセアの笑みが、変わらない。


 死を前にしても、あるいは死を望んでいるからこそ、その表情はどこまでも穏やかだ。


「ふふ。怖いですねぇ、セレヴィアちゃん」


 どれほどおぞましい敵であろうと、

 どれほど絶望的な力を持っていようと、

 あの子へ届く前に、必ず斬る。


 ノクターンが、低く鳴いた気がした。


 それは継承の証か、それともただの錯覚か。

 だが今は、そんなことはどうでもいい。


 セレヴィアは赤紫の双眸を細め、迫り来る死へ真正面から刃を向けた。


 そして、静かな殺意に満ちた回廊で、

 魔王の剣が、ついにその切っ先を敵へ定めた。


「うぅん……あなたの相手をするのは面倒ですねぇ」


 柔らかい口調のわりに、その声はひどく冷たい。


「真正面からやるには、ちょっと骨が折れそうですぅ。ミレーユみたいに、すぐ逃がしてくれる人ばかりなら楽だったんですけどねぇ」


 ミレーユの名を聞いた瞬間、セレヴィアの双眸がさらに細まる。


「随分と余裕ね」


「余裕というよりぃ……やり方を変えるだけ、ですよぉ」


 そう言って、リリセアは片手を持ち上げた。


 その指先から、どろりとした闇が零れ落ちるように滲み出した。


 ただの闇ではない。

 夜の暗さとも、影とも違う。もっと粘ついて、冷たく、乾いたもの。墓穴の底から噴き出す瘴気のような、死の気。腐敗と静寂を凝縮したようなその気配が、廊下の石床を這い、壁を舐め、空気を染めていく。


 セレヴィアは眉をひそめる。


 死霊術。


 見間違えようがなかった。生者の魔力ではない。終わったはずのもの、土に還るべきもの、あるいは還り損ねた残滓を無理やり形に変える外法。グラティオルの大地では珍しくない術系統ではあっても、リリセアほどの使い手となると別格だ。戦場において彼女が恐れられたのは、不死であることだけではない。この、死者を操る術の不気味さそのものだった。


 障気は次第に濃さを増し、まるで目に見えない帳が幾重にも垂れ込めるように廊下の先を覆っていく。紫がかった魔灯の光は鈍り、空間そのものが深い淀みに沈んでいった。


 何を出す気だ。


 そう思った、その直後だった。


 闇の奥で、人の輪郭が立ち上がる。


 高く、大きく、揺るぎのない影。


 その立ち姿だけで分かってしまった。


 セレヴィアの喉が、微かに鳴る。


 銀ではなく、黒金に近い長髪。王たる者だけが許される重厚な外套。無駄なく鍛え上げられた長身。空間を圧するような威容。眼差しに宿る、厳しさと深い知性。


 ヴァルザード。


 先代魔王。

 父。


 セレヴィアの心臓が、一拍だけ大きく跳ねる。


 理屈ではなく、身体が先に反応した。幼い頃から見上げてきた背だ。立ち方。何かを言う前の、静かな沈黙でさえ覚えている。厳しさの奥に確かな熱を宿した、あの背中。


 一瞬だけ、足元が揺らいだ。


 だが、次の瞬間には、セレヴィアは奥歯を噛み締めていた。


 ――違う。


 冷たく思考を引き戻す。


 死霊術といっても、死者そのものを完全な形で蘇らせることなど、現代の術理では不可能だ。せいぜいが記憶や残留魔力をなぞった外形の再現。あるいは本人を模した実体じみた影を作り出す程度。そこに本物の魂はない。意思も、本来の人格も、あるように見えてそれはただの模倣だ。


 強さすら完全に再現できるわけではない。


 リリセアの死霊術が卓越しているのは認める。だが、それでも“本物”には及ばない。これを見せられたくらいで怯み、剣を鈍らせるとでも思っているなら――計算が甘い。


 そう、断じたはずだった。


 影の男が、口を開くまでは。


「――セレヴィアよ」


 威厳のある、低く、よく通る声だった。


 それは記憶の中の音ではなかった。記憶をなぞっただけの空虚な響きでもない。王座の間で兵を従えたときの声。娘を叱るときの声。名を呼ばれた瞬間、身体の芯が自然と正されてしまうような、絶対的な“父の声”だった。


 セレヴィアの瞳が揺れる。


「父……様!?」


 咄嗟に漏れたその言葉が、自分でも信じられなかった。


 あり得ない。


 冷静であれ、と頭の中の理性は何度も告げている。現代の死霊術ではここまでの再現は不可能だ。本物の魂を呼び戻す術理など、少なくともこの時代に確立されてはいない。声も、記憶も、魔力の癖も、すべて模倣に過ぎないはずだ。


 ならば、なぜ。


 なぜこんなにも、胸が痛む。


 ノクターンを握る手に、微かな汗が滲む。


 その時だった。


 影のヴァルザードが、ゆっくりと腕を上げる。


 空間が歪み、その手に漆黒の剣が生まれた。


 ノクターン。


 セレヴィアの手にあるものと、よく似た魔剣。漆黒の刀身、血のように走る赤い紋様、重く静かな威圧感。もちろん本物であるはずがない。だが外見だけなら、あまりにも精巧だった。


 父が、剣を構える。


 その所作は一分の隙もなく、記憶の中のままだった。


 セレヴィアの胸の奥で、幼い日の記憶が不意に蘇る。


 夜明け前の訓練場。

 冷えた石床。

 まだ小さな手では重すぎた木剣。

 容赦なく打ち込まれる一撃。

 だがその直後、崩れた重心を支えるように差し伸べられた大きな手。

 厳しいだけではなかった。王としても父としても、あの男は常に背を見せていた。


 その背中を、何度追いかけたことか。


「……っ」


 駄目だ、とセレヴィアは自らを叱る。


 思い出に引きずられるな。

 あれは父ではない。

 父の形を借りた、敵の術だ。


 だが影のヴァルザードは、そんな心の揺れなど見透かしたかのように、静かに言った。


「剣を鈍らせるな、セレヴィア」


 胸が締めつけられる。


 それは確かに、父が言いそうな言葉だった。

 むしろ、父にしか言えない言葉ですらあった。


 リリセアが後方で、くすりと笑う。


「どうしましたぁ? 計算が甘いのは、どっちでしょうねぇ」


 その声音に、ようやくセレヴィアの意識が現実へ戻る。


 目の前の影に呑まれかけていた心が、一気に冷えた。


 そうだ。

 これが狙いだ。

 剣の強さではなく、心の綻びを突くための術。


 セレヴィアは息を一つだけ吐き、ノクターンの柄を握り直した。掌の中で、剣が低く脈打つ。主の迷いを咎めるように、あるいは支えるように。その赤い紋様が、心臓の鼓動に合わせるように明滅した。


「……認めない」


 セレヴィアは低く呟く。


「あなたは父様ではない」


 後方でリリセアが、小さく息をついた。


「うーん。やっぱり面倒ですねぇ、セレヴィアちゃん」


 その声音に、先ほどまでの余裕がほんの少しだけ薄れていた。


「本当に、似てきましたねぇ。ヴァルザード君に」


 セレヴィアは答えない。


 ただ、静かに言葉を胸の内で否定する。


 似るためではない。

 継ぐためでもない。

 私は、私として立つ。


 父の遺したものを背負い、

 父には守れなかったものまで守るために。


 ノクターンの赤紋が明滅する。

 それはまるで、剣の内に眠る記憶が、今の答えを見定めるような脈動だった。


 セレヴィアは床を蹴った。


 氷の軌跡が石床に走る。

 次の瞬間には、影の目前へ。


  偽りだと、分かっている。


 目の前に立つそれは、死霊術で形作られた影にすぎない。

 魂のない、残滓の模倣。

 父そのものではあり得ない。


 そんなことは、理性が何度も何度も告げていた。


 それでも。


 漆黒の外套をまとい、王の威を纏って立つその影を前にすると、胸の奥のどこかが、どうしようもなく軋んだ。幼い頃から見上げてきた背。厳しさの奥に深い愛情を隠した瞳。剣を握る手の角度、踏み込みの重さ、空気を支配するような静かな威圧感。


 似せただけの紛い物。

 そう断じているはずなのに、視界に映るたび、心のどこかが父を見てしまう。


 ――斬れ。


 セレヴィアは一歩踏み込み、ノクターンへ魔力を流し込んだ。漆黒の刀身を這う赤い魔紋が脈打ち、その周囲に冷えきった白い靄が立ち上る。石床の表面に霜が走り、紫灯の光までもが凍てついたように青白く見えた。


 氷と闇。

 王家の剣に最も馴染む二つの属性が、彼女の意思に応じて唸りを上げる。


「――氷月斬」


 静かに、けれど確かに名を告げる。


「ルナ・ブレイク」


 瞬間、ノクターンが半月を描くように振り抜かれた。


 放たれた斬撃は、ただの剣圧ではない。氷そのものが刃の形を取って飛翔したかのような、広範囲の凍結斬。空気中の水分を一瞬で奪い、霜の尾を引きながら廊下を呑み込んでいく。石床は白く凍り、壁に生じたひびの奥まで氷が走る。触れたものすべてを凍結させ、そのまま砕き散らす、セレヴィアの得手とする一撃。


 当てれば終わる。


 この程度の死霊術で作られた影など、たとえ父の姿を取っていようと、霧散させることができる。

 分かっている。

 そのはずだった。


 けれど。


 斬撃が影のヴァルザードへ届く、そのほんの一瞬。

 セレヴィアの手首に、僅かな迷いが走った。


 父の顔。

 幼い日に見上げた背。

 厳しい声のあとに頭へ置かれた大きな手。

 王としての威厳と、家族に向ける不器用な優しさ。


 それが、ほんの刹那だけ、刃を鈍らせた。


 氷月斬は影の肩口から外れ、その後方の壁面を大きく抉った。轟音とともに広範囲が凍結し、紫灯の下で氷花のような結晶が無数に咲く。偽りのヴァルザードの外套の端は凍りつき、片腕の輪郭も削り取られたが、決定打には届かない。


 しまった、と認識したときには、もう遅かった。


 リリセアは、その一瞬の綻びを見逃さない。


「――Cursed Restraint」


 柔らかな声とは裏腹に、術式は冷酷だった。


 足元から、いや、空間の裂け目から直接這い出るように、黒い鎖が生まれる。

 影ではない。

 闇そのものを捻じ曲げて鋳造したかのような、鈍い光を放つ呪鎖。


「っ――!」


 回避のために身を捻るより早く、一本が右脚へ絡みついた。続けざまに腰、左腕、喉元の寸前を掠めるように鎖が巻きつき、瞬く間にセレヴィアの全身を拘束していく。鎖が触れた箇所から、魔力がざらついていく感覚があった。単なる物理拘束ではない。呪詛を帯びた封縛。動きを奪うだけでなく、術者の魔力の流れそのものを乱す拘束魔法。


 ノクターンを握る手に、力が入りきらない。


 セレヴィアは歯を食いしばり、氷の魔力で鎖を凍らせようとする。

 だがその僅かな遅れを、リリセアは許さなかった。


 こつ、と軽い足音。


 いつの間にか間合いへ入り込んでいたリリセアの手には、血で形作られたのナイフが握られていた。深紅というより、黒に近い濁った赤。滴る血液がそのまま刃の形を保ち、ぬらりと嫌な光を返している。


 柔らかく微笑んだまま、彼女は言う。


「迷いましたねぇ、セレヴィアちゃん」


 次の瞬間。


 血のナイフが、セレヴィアの胸へ突き立てられた。


「――ぐっ……!」


 衝撃が骨へ響く。


 心臓をわずかに外した位置。

 致命傷ではない。

 だが浅いとも言えない。


 熱いものが胸元を伝い、黒衣を内側から濡らしていく。呼吸のたび、鋭い痛みが肺の奥まで差し込んだ。ナイフを伝って流れ込んだ呪いじみた冷気が、傷口から体内へじわりと広がっていく。


 リリセアは躊躇なく刃を引き抜いた。


 血が跳ねる。


「やっぱり、あなたの相手は面倒ですぅ。だから、少し黙っていてくださいねぇ」


 そう言い残すと、彼女はもう興味を失ったように視線を外した。


 その先――リリスの部屋。


 セレヴィアの喉が震える。


「……待て……!」


 拘束された身体を無理やり動かそうとするが、黒い鎖はぎちりと食い込み、さらに呪いを強める。痛みと出血で視界が微かに揺らいだ。


 まずい。


 このままでは、あの子のところへ。


 リリセアはまるで散歩でもするような足取りで、扉の方へ歩いていく。無防備に見えた。だがそれは、自分がもう止められないと分かっている者の歩き方だった。


 ――まだだ。


 セレヴィアの胸の内で、焦りよりも先に怒りが燃え上がる。

 この程度で終われるはずがない。

 ここで膝をつくわけにはいかない。

 だが、身体が動かない。


 そのときだった。


 空気が、裂けた。


 リリセアの左右、天井近く、床の陰、廊下の装飾柱の裏。

 今まで完全に気配を殺していた複数の影が、同時に動く。


「撃てぇっ!!」


 鋭い声とともに、近距離・遠距離を問わぬ一斉攻撃が放たれた。


 魔弾。

 投擲短刀。

 雷槍。

 風刃。

 爆ぜるような火球。

 そして振り下ろされる刃。


 魔王城のメイドたちだった。


 祝宴のために集まっていた侍女たちの一部。

 だがただの侍女ではない。王城に仕えるメイドは、給仕と礼法だけを学んでいるわけではない。王家に仕えるということは、その身を盾にする覚悟を持つということ。警護、暗器、近接戦、最低限の魔術。少なくとも、そこらの一般兵よりははるかに実戦に慣れている。


 彼女たちは、セレヴィアが扉の前へ出た時点で、すでに配置についていたのだ。

 最悪の場合に備え、気配を殺し、主を守るための一斉射を待っていた。


 リリセアの背と側面、死角という死角へ攻撃が叩き込まれる。


 ぐしゃり、と湿った音がした。


 まず頭部が飛んだ。

 次いで左腕、さらに脇腹が断たれる。

 血の塊と肉片めいたものが四散し、黒衣が翻る。


 普通の相手なら、そこで終わっていた。


「……よく訓練されていますねぇ」


 けれど、のんびりとした声は消えない。


 頭を失ったままの首の断面から、噴水のように血が噴き出した。

 いや、ただ噴き出したのではない。


 噴き出した血が、空中で細く、鋭く、刃の形へ変わる。


 一本ではない。

 十や二十でもきかない。


 頭部、切断された腕、裂けた脇腹、そのどの断面からも、意思を持ったように血が伸び、瞬く間に無数の刃を形作っていく。


「下が――!」


 誰かの叫びは、最後まで続かなかった。


 四方八方へ、血の刃が放たれる。


 赤い雨。


 近距離で斬り込んでいたメイドの一人の喉が裂ける。遠距離支援のために柱の陰にいた別の一人は、胸を貫かれて壁に縫い止められた。雷槍を放っていた侍女は片腕ごと肩口を断たれ、悲鳴を上げながら床に崩れ落ちる。火球を準備していた者の頬が抉れ、その横を貫いた血刃が後方の壁へ深く突き刺さった。


 悲鳴が上がる。


 短く、鋭く、そしていくつも重なる。

 血が床へ散り、先ほどまで祝宴の香りが満ちていた空間へ、生臭い鉄の匂いが一気に広がった。


「や、め……」


 セレヴィアは拘束を食い破るように力を込める。


 黒い鎖が肌へ食い込み、傷口がさらに裂ける。

 胸の痛みなど、今はどうでもよかった。


 リリセアの再生はすでに始まっていた。


 首の断面から新たな頭部が生え、飛んだ腕が血肉を引きながら元の位置へ戻っていく。人の再生ではない。死体を無理やりつなぎ合わせ、なお壊れても立ち続ける怪物のそれだ。彼女にとって損壊は足止めにすらならない。


 それでもメイドたちは退かなかった。


 負傷しながらも、再び魔法陣を展開する者がいる。

 短刀を逆手に持ち直し、最後の一撃を狙う者がいる。

 主の背後へ通すまいと、震える足で立ちはだかる者がいる。


 その姿に、セレヴィアの喉奥が焼けるように熱くなった。


 王城のメイドは強い。

 それは事実だ。


 だが相手が悪すぎる。


 不死。

 死霊術。

 血液の武装化。

 そして心を揺さぶる悪辣さ。


 リリセアはもはや、まともな戦いの相手ではない。


「ふふ……」


 再生を終えたリリセアが、血に濡れたまま微笑む。


「皆さん、本当に忠実ですねぇ。嫌いじゃないですよぉ」


 その言葉の直後、さらに血の短槍が生まれる。


 また悲鳴が上がる。


 セレヴィアの視界の端で、誰かが倒れた。

 誰かが腕を押さえ、膝をつく。

 誰かがそれでも前へ出る。


 だが数は減っていく。

 確実に。

 一人、また一人と。


 このまま外の守りが崩れれば、いずれ部屋の内へ手が伸びる。


 セレヴィアの胸が、ぎり、と痛んだ。


 出血のせいではない。

 焦燥だった。


 守ると決めた。

 後ろにいるあの子へ、一歩たりとも近づけないと誓った。

 そのはずなのに、目の前で忠実な者たちが削られていく。


 ――もう、リリスを守る人は。


 そこまで考えかけて、セレヴィアは自分の思考を噛み砕いた。


 違う。


 何を弱気になっている。


 まだ、私がいる。


 鎖に縛られ、胸を貫かれ、血を流していても。

 まだ終わっていない。

 終わらせていない。


 ノクターンが、手の中で低く脈打つ。


 まるで叱責するように。

 あるいは、思い出させるように。


 王とは何か。

 継承とは何か。

 守るとは何か。


 セレヴィアは血に濡れた唇を噛み、赤紫の瞳をリリセアへ向けた。


 その眼差しには、もはや迷いの残滓すらなかった。


 父の影に迷った、その一瞬。

 その代償は大きい。


 ならばこそ、もう二度と迷わない。


 たとえこの身が砕けようと、

 たとえここで血を流し尽くそうと


 黒い鎖が軋む。


 セレヴィアは深く息を吸った。

 胸の傷が焼けるように痛んだが、それでも構わない。


 冷たい魔力が、傷口を中心に全身へ巡り始める。

 怒りと覚悟に呼応するように、ノクターンの赤い紋様が一際濃く脈打った。


 悲鳴と血の飛沫が舞う回廊の中で、魔王代理はゆっくりと顔を上げる。


 まだ、終わりではない。


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