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2.魔王代理と妹

 どれほど泣いていたのだろう。

 声を枯らし、胸の奥の苦しさを吐き出すように嗚咽を繰り返して――やっと、少しだけ呼吸が整ってきた。


「……ひっ……く……」


 掠れた声でしゃくり上げながら、涙を拭う。頬は濡れ、目元は熱を帯びて、ぐしゃぐしゃだ。子どもの身体とはいえ、ここまで泣きじゃくるのは……正直、大人としてはあまりにみっともない。


 ――二十二歳の社会人だったはずだ。

 そのはずなのに、こんなふうに胸に縋りついて、子どもみたいに泣くなんて。


 恥ずかしさが込み上げてきて、思わず視線を伏せた。だが、腕の中の温もりは決して冷めることなく、自分を包み込んでいる。優しく背を撫でる手。耳元に届く、落ち着いた呼吸。


 セレヴィア・ヴァル=ネメシア。


 鮮やかに、確かに、そう記憶が告げている。

 目の前の少女の名前。


 魔王代理。王座に立つ存在。

 そして――自分の、姉。


 その言葉に胸が大きく揺れた。確かに、そうだ。

 自分はリリス・ヴァル=ネメシア。

 セレヴィアの妹として生まれ、彼女と共にここで生きてきた。


 混乱する。二十二歳の青年としての自分と、この六歳の少女としての自分。その境界線が曖昧になり、二つの記憶が頭の中でせめぎ合う。


 オフィスの机で倒れ込んだ夜の記憶。

 病弱な体でベッドに伏せる幼い日の記憶。


 どちらも確かに自分だ。

 どちらも否定できない。


 「……」


 セレヴィアの胸の中で、そっと息を吐く。

 温もりが、不思議と記憶を結びつけていく。


 彼女はいつも自分のそばにいた。

 遠い夢のように、でも確かに覚えている。

 自分を守り、見守り、呼びかけてくれる存在。


 姉。


 そう思った途端、涙とは違う熱が胸の奥に広がった。

 懐かしさと安堵と、そして、ようやくたどり着いた場所への感覚。


 「……ねぇ……さま……」


 掠れた声で小さく呼んでみる。

 泣きじゃくっていたときとは違い、今度は自分の意思で。


 セレヴィアは、そっと笑みを浮かべて頷いた。

 その瞳は紅と紫の光を湛えながら、限りない優しさを映していた。


「ええ……リリス。私はここにいるわ。ずっと、あなたのそばに」


 抱き寄せられる腕が少し強くなり、その温もりが胸の奥に沁みわたる。

 それだけで、先ほどまでの涙が嘘のように心が落ち着いていく。


 ――ああ。これが、“安心”なんだ。


 心臓の鼓動がゆっくりと整っていく中で、ふと思う。

 今、自分は“リリス”として姉を呼んだ。

 けれど同時に、鳴海悠斗としての意識も確かにここにある。


 どちらも偽りではない。

 どちらも、自分の中に息づいている。


 やはり、前世の記憶というものなのだろうか。


 会社で過労に追われ、孤独のまま終わった人生。

 そして、病弱でありながらも“リリス”として生きてきた記憶。


 二つの道筋が重なり合っているのを、今ははっきりと感じる。


 「……」


 胸に顔をうずめながら、思考は途切れ途切れに続く。

 悠斗であったことも、リリスであることも、きっと嘘じゃない。

 ならばこの体に宿るものすべてが――自分自身なのだろう。


 セレヴィアの手が、子どもの小さな背をやさしく撫でる。

 その温もりに包まれながら、リリスは静かに瞳を閉じた。


 気がつくと、ベッド脇の小さな丸卓には、湯気を立てる食事が並べられていた。

 磨き込まれた銀の盆の上には、異国めいた料理が整然と並び、柔らかな香りが部屋いっぱいに広がっている。


卓に並べられた料理を前に、リリスは思わず目を瞬かせた。

 黄金色のスープに、紫の葉野菜、赤や緑の果実――見慣れないものばかりだ。


「……これ、なに……?」


 掠れた声で尋ねると、ミレーユが静かに一礼して答える。


 「こちらは《ルナリーフ》と《ミルネ根》を煮込んだ香草スープでございます。魔力の乱れを鎮め、体の熱を和らげる効能がございます」


 差し出された皿からは、爽やかな香りと甘い根菜の匂いが立ち上る。

 ――薬膳、というやつか。病人向けにしては、思った以上に食欲をそそる香りだ。


 「このパンには《ドランベリー》の実を練り込んでおります。鉄分に富み、体力の回復に良いとされております」


 丸いパンの表面には黒い粒が散り、香ばしい匂いが漂っていた。

 リリスは小さく首を傾げる。

 「……べりー……?」

 「はい。酸味がございますが、甘みも強く、召し上がりやすいかと」


 次に、紫色に輝く野菜へと視線が移る。

 「そちらは《シャルバ草》のソテーでございます。魔力循環を整え、虚弱なお身体にも力を与える効果がございます」


 炒められた葉は、光を受けて銀の粉のようにきらめいていた。

 ――見た目がすでに薬効ありそうだな。


 「果物は《ルミナアップル》と《エルネア果》を。ルミナは免疫を高め、肺を潤す作用が。エルネアは体の熱を下げ、渇きを癒す清涼の力がございます」


 籠の中の果実は赤と緑の対比が鮮やかで、どちらも瑞々しく輝いている。


 「そしてこちらは《ソルハチ蜜》。太陽花から採れる特別な蜜でございます。魔力を滋養に変える力がございますので、パンや果実に添えてお召し上がりください」


 器に注がれた黄金の蜜は、光を受けてきらきらと揺れていた。


 リリスは唇を震わせながら、思わず感嘆の息をもらす。

 「……すごい……」


 どれも聞いたことのない食材ばかり。けれど、ただの料理というより、ひとつひとつが薬であり、癒しの力を秘めた品に思えた。


 ――なるほど。王族の食卓ってやつか。

 病弱な体を気遣って、こんな食事が毎日用意されるのだろうか。


 背を支えられながら上体を起こすと、そこにいたのは変わらぬ表情のミレーユ……そして、隣にはセレヴィアがぴたりと寄り添っていた。赤と紫の瞳が細められ、今にも抱きしめそうな勢いで見つめてくる。

 

 リリスはスプーンに手を伸ばしたが、震えて掴めなかった。カチャリと音を立てて落ちてしまい、小さく唇を噛む。


「……っ……」


 悔しさで俯いた瞬間、すぐにセレヴィアがそっと手を取った。


「もう……リリスったら、まだ無理しちゃダメ」


 スプーンを手にしたセレヴィアが、嬉しそうに微笑む。

 黄金色のスープを掬い、ふうっと息を吹きかけると、幼子に話しかけるように甘い声で告げた。


「はい、リリス。あつあつだから、ふーふーしてからね……はい、あーん。」


 「……っ……や……です……」


 思わず拒んでしまう。こんなこと……二十二歳の記憶を持つ自分には、恥ずかしすぎる。だが。


「ふふっ……恥ずかしいの? でも私はリリスに元気でいてほしいの。ねぇ、いいでしょ? ……ほら、あーん」


 紅と紫の瞳が甘く細められ、すべてを受け入れるようにこちらを覗き込む。拒む言葉は喉に詰まり、結局、小さく口を開けるしかなかった。


「……ぁ、ぁーん……」


口に含むと、温かさと香りが体に染みわたり、ほっと息が漏れた。


 「……おいしい?」

 「……はい……」


 素直に答えると、セレヴィアは花が咲いたように微笑んだ。


「えへへ……よかった。リリスが食べてくれるだけで、私は幸せなのよ」


 ――そこまで言うか。

 思わず心の中で突っ込んだが、顔は熱くなるばかりだった。


 続いて、セレヴィアは丸パンをちぎり、小さくして差し出した。

「ほら、ベリーのパン。甘酸っぱいの、リリスの好きな味だと思うの。はい、ぱくっ」


 「……っ、ん……」


 噛みしめると果実の酸味と甘みが口いっぱいに広がる。


 気がつけば、されるがままに次々と食べていた。

 最初の恥ずかしさは、次第にどこかへ消えていく。

 ――甘い声に包まれるたびに、胸の奥が温かくなる。


 食事を終えると、セレヴィアはスプーンを置き、そっとリリスの頭を撫でた。

 

「全部食べられたね……リリスはほんとうにえらい子」


 そう言って、抱きしめるように身体を寄せてくる。

 

 「いっぱい頑張ったから、ごほうびに……ほら、ぎゅーしてあげる」


 「……っ」

 顔が赤くなるのを隠せず、リリスは視線を逸らした。

 けれど胸の奥では、確かに幸福が灯っていた。


―――――――――――――――――――――――


 勢いよく扉の取っ手が回され、重々しい扉が内側へと叩きつけられるように開いた。

 直後、部屋の空気を切り裂くように甲冑の音が鳴り響く。


「魔王代理様っ! し、失礼いたします!」


 駆け込んできたのは、漆黒の鎧を着込んだ一人の兵士だった。

 鉄の板が乱暴に擦れ合い、全身から金属音が立て続けに鳴り響く。肩の革紐は解けかけ、脛当てには泥がこびりつき、いかに急ぎ足でここまで駆けてきたかが一目でわかる。


 兜を脱ぎ捨てる余裕もないまま、兵士は慌ただしく膝をついた。額には玉のような汗が浮かび、肩は上下に激しく揺れている。

 「っ、た、大変です……! 急報にて……っ!」


 声は上ずり、言葉がまともに繋がらない。

 荒い呼吸に混じって、「――西の辺境――村が襲撃――」「被害――甚大に……」と断片だけが耳に届く。


 リリスは思わず身を竦める。つい先ほどまで甘い声で「あーん」と食べさせてくれていたセレヴィアが、どんな顔をするのか不安で――けれど。


 「……そう。状況は理解したわ」


 セレヴィアの声は、氷のように冷ややかだった。

 涙を滲ませて抱きしめてくれていた人と同じとは思えない。

 姿勢を正し、鋭い眼差しで兵士を見据える。


 「すぐに出立の準備を整える。被害状況の続報は、現地の部隊から逐一報告を受けなさい」


 その声音には一切の迷いがない。

 兵士は深々と頭を下げたが、セレヴィアはふっと視線を細めた。


「……その前に、一つ。伝令に来るのは構わないけれど――ノックもせずにリリスの私室へ飛び込むとは、いささか軽率ね」


 静かな叱責に、兵士の肩がびくりと震えた。

 セレヴィアはその視線を鋭く細め、低く名を告げる。


 「――ラガル軍曹」


 呼ばれた名に、兵士は顔を上げることもできず、額を床に擦りつける。

「っ、は、はいっ! まことに、まことに申し訳ございません……!」


「階級は問いません。誰であろうと、礼節を欠くのは許されないわ。次からは必ず扉を叩き、許可を得てから入りなさい」


 淡々とした口調ながら、その一言一言に重みがあった。

 ラガル軍曹の背筋は硬直し、鎧が小さく震える音を立てる。

 

 淡々とした口調に、揺るがぬ威厳が漂っていた。

 兵士は床に額を擦りつけるほど深く頭を下げ、震える声で応じる。

 「は、ははっ……!」


 セレヴィアは小さく頷き、椅子から立ち上がった。

 「――では、私は行くわ」


 その背は黒のドレスを翻し、まさしく魔王の威容を示していた。


 セレヴィアは、裾を翻しながら部屋の出口へ向かう。だが、ふと立ち止まり、背後を振り返った。


 その赤と紫の瞳が、リリスをまっすぐに捉える。

 ほんの一瞬、彼女の顔に影が差した。悲しみを押し殺すような表情。


「……リリス。私はすぐに戻るわ。だから――そんな寂しそうな顔をしないで」


 静かで落ち着いた声だった。部下が目の前にいる以上、先ほどの甘い口調は消えている。だが、その声音には確かな優しみが宿っていた。


 リリスは小さく瞬きをする。

 自分はもう二十二歳を生きた大人のはずだ。そんなことで不安になる子供じゃない。


 ……そう、思っていた。


 けれど。


 視線を鏡に向けたとき、そこに映っていたのは怯えの色を浮かべた幼い顔だった。

 強がりとは裏腹に、赤と紫の瞳は大きく見開かれ、唇は小刻みに震えている。


 自分の顔が、こんなにも無防備に「寂しい」と訴えていることに、思わず胸が詰まった。

 

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