1.鏡の中の少女
――頭が、割れるように痛い。
焼けつくような頭痛に、思考の輪郭が削られていく。喉の奥は張りついたまま息苦しく、胸のあたりが妙に重い。胃の底が逆流しそうなほど気持ちが悪く、ただ横たわっているだけなのに、心臓が無駄に暴れているのがわかる。
まぶたの裏に濃い闇が張りついていた。ゆっくりと目を開けると、金糸で縁取られたレースの天蓋が視界いっぱいに広がった。まるで高級ホテルのスイートルームか、映画の中の王族の寝室のようだった。
鼻腔をくすぐるのは、仄かに甘く湿った香り――焚き染められた香草のような、不思議な匂いだった。布団からは微かに花のような香りも混ざっている。重ねられたクッションは沈みこむほど柔らかく、肌触りは絹に似ていた。
――病院じゃない。ましてや、自分の部屋でもない。
全身が重く、鉛のように動かない。関節という関節が痛み、吐き気が波のように押し寄せてくる。咳き込みそうになったが、それすら力が入らず、代わりに苦しげな吐息が漏れた。
「ぅ……うぅ……」
聞こえた自分の声が、まるで知らない子どものものだった。細く高く、震えるような音。喉の痛みで掠れているが、それでも違和感は明白だった。
無理やり体を起こそうとして、背中がひくりと痙攣する。額に嫌な汗が滲み、髪が肌に張りつく。
布団の外に出た腕――自分の腕を、見て、言葉を失った。
細い。骨ばってもいない。指も小さく、手のひらなど成人男性の半分もない。
「……ぁ……」
意味のある言葉を発そうとしても、息が漏れるばかりだった。喉が焼けるように渇いていて、声が出るたびに咳き込みそうになる。
寝台から足を降ろすと、床に敷かれた絨毯が沈む。密度の高い織物の感触が足裏に伝わった。微かに音がした。部屋のどこかで、時計とは違う――なにか水の落ちるような音が、ぽとり、ぽとりと響いていた。外は暗く、カーテンの隙間からは青白い光が差し込んでいる。月明かりにしては不自然な色合いだ。
呼吸を整えながら、部屋を見回す。
壁には複雑な紋章が彫られ、金属の燭台が静かに揺れている。火の燃える匂いはしないのに、光だけが揺れていた。魔法か何か――だとでも言われれば納得できるほど、この空間は現実離れしていた。
よろよろと立ち上がり、近くの姿見へと歩を進める。
胃の奥が反転するような吐き気に、途中で何度も立ち止まりそうになる。が、どうしても確かめなければならなかった。
鏡の前に立ち、息を整えて、ゆっくりと顔を上げた。
そこにいたのは――銀髪の、少女だった。
鏡の中の彼女は、月光を吸いこんだような髪を肩まで流し、その一本一本が絹糸のように柔らかく揺れていた。
左右の瞳は、ひと目で胸をざわつかせるほどの異彩を放っていた。右は深紅、左は淡紫、二つの色は強烈でありながら、活力よりもむしろ儚さを思わせた。
頬は白く、血の気が薄い。肌は雪のように透き通っているが、その白さが健康ではなく、どこか体温のない人形めいて見える。小さな唇はかすかに色づいているものの、今にも震え出しそうに固く結ばれている。
その体つきも華奢で、黒いドレスの布地が重く見えるほどだ。
少女は両手を胸元でぎゅっと組み、指先にわずかな震えを宿している。黒い角が頭の上にちょこんと覗くが、それですら小動物のように頼りなく見えた。姿勢を保とうとするその様は、風が吹けば折れてしまいそうな枝のようで、見ているこちらの胸が締めつけられる。
「……ぇ……」
自分の口からこぼれた声は、幼く、か細く、掠れて響いた。
その響きまでが、鏡の中の少女――いや、自分の体調の悪さを物語っているようだった。
「……な、にこれぇ……」
か細い声が口から漏れた。驚きと恐怖で喉が詰まり、思わず後ずさる。鏡の中の少女も、同じように驚いた表情を浮かべている。
――理解が追いつかない。
だが確かに、自分の手は小さく、声は高く、鏡の中の少女と同じ動きをしていた。
なにもかもが、現実だった。
鏡の前に立ち尽くして、どれくらい経ったのか。
銀髪の少女――つまり“今の自分”を見つめながら、鳴海悠斗は言葉を失っていた。呼吸は浅く、体の芯から冷えているような寒気に包まれたまま、思考だけが空回りしている。視界の端はまだぼやけていて、足元もふわふわと浮いているように感じる。
その時、部屋の扉を控えめに叩く音が響いた。
コン、コン。
音に反応する前に、扉は静かに開かれた。重厚な蝶番の軋む音と共に、ひとりの女性が姿を現す。
銀白色の髪は、柔らかくも艶やかに波打ちながら、後ろで上品に結い上げられている。横顔のラインにそって流れる髪束は、微かな光を受けて白磁のように輝いていた。頭頂には、緩やかな螺旋を描く二本の角が覗いており、額から滑らかに伸びるそれは、異形でありながら気品に満ちている。
長く尖った耳と、無表情にも見える静かな目元――その瞳は、氷を思わせる淡いアイスブルー。透明度の高いその瞳は、冷たさを感じさせる一方で、奥底に宿る感情が凍りついた湖面のようにわずかに揺れていた。
着ているのは、黒を基調としたクラシカルなメイド服。高い襟元とぴたりと締まったコルセット風のデザインは、彼女の姿勢の美しさをより際立たせている。前面の胸当てには、繊細な刺繍が控えめにあしらわれ、白いフリルのエプロンが清楚な印象を与える。ドレスのスカートはたっぷりとした布地でできており、歩くたびに重厚な揺らぎを見せるが、裾には埃ひとつない。
彼女の所作ひとつひとつに、完璧な「仕える者」としての気品が漂っていた。歩みは静かで、衣擦れの音すらわずか。だが鏡の前に佇むこちらの姿を目にした瞬間、その表情が僅かに揺れた。
「リ――」
何かを言いかけた彼女は、思わず息を呑む。そして次の瞬間、まるで抑えていた感情が堰を切ったように、その場へ駆け寄ってきた。
「目を、覚まされたのですね……!」
駆け寄る動きすら、どこか優雅だった。ひざまずくようにしてこちらの顔を覗き込んだその瞳は、先ほどまでの冷ややかさをすっかり失い、明らかな安堵と喜びを宿していた。
あたたかい――と、思った。
声をかけられたことに、戸惑いはあった。だが、それ以上に彼女の声には柔らかな響きがあって、心に染みるようだった。
「リリス様……本当によかった……」
リリス――その名を聞いた瞬間、胸の奥がかすかに揺れた。
自分のことを、彼女は「リリス」と呼んだ。
聞き慣れないはずのその名前が、なぜか奇妙にしっくりくる。まるで、ずっと昔から呼ばれていたかのように。
――リリス。それが、この体の名前。
鏡に映った少女の姿と、自分の記憶の中の“鳴海悠斗”という存在が、どこかで分かたれていく気がした。
だが、今の自分はたしかにここにいて、この名で呼ばれている。
呼吸が詰まる。言葉を返したいのに、喉が締めつけられて出てこない。
「……ぁ……」
かすかに声を漏らしただけで、咳き込みそうになる。喉が痛くて、息を吸うのも苦しい。体の中に熱がこもっている感覚があり、目の前がゆらゆらと揺れて見えた。
「大丈夫です、リリス様。無理をなさらないでくださいませ」
そう言って、メイド――彼女は手元に用意していた水差しをそっと差し出してくれた。
中には氷が浮かんだ冷たい水が揺れていて、曇りひとつないガラスの器が微かに光を反射している。
受け取ろうとした手が震えたのを見て、彼女は何も言わずにそっと手を添えてくれる。指先はひんやりしていたが、心地よい冷たさだった。
水を口に含むと、喉の奥が少しだけ潤い、胸の奥にあった不安がひとつ、すうっと溶けていく気がした。
ひざまずいたメイドの寄り添うまなざしとともに、じんわりと胸の奥に広がっていった。
温かく、静かで、確かに存在を肯定してくれるような光。
……だからなのだろうか。
次の瞬間――喉が、微かに震えた。
「……ミ……」
掠れた、か細い声だった。自分でも、どうして言葉が出たのかわからない。
だが、その言葉には確かな意味があった。
「……ミレーユ……さん……」
彼女の名前を口にした瞬間、自分でも不思議な感覚があった。
なぜ、その名前を知っていたのか。誰にも教えられていないはずなのに、自然と喉から漏れた。
覚えていた、というより――最初から知っていた。
この人が“ミレーユ”であること。
その名前が、この声に、雰囲気に、仕草に――不思議としっくり馴染んでいた。まるで、ずっと以前からそばにいてくれたような、そんな感覚。
「ミレー、ユさん……」
改めて呼んだ声は掠れていて、自分でも驚くほど幼い響きだった。喉がまだ痛むが、呼吸は少しずつ整ってきた。
ミレーユは微笑んだまま、静かに告げた。
「……リリス様。お目覚めになられるまで、まる五日間、お休みでした」
「いつか……?」
繰り返すように小さく口にすると、彼女は優しく頷いた。
「ええ。高熱と魔力の逆流によって、かなりおつらい状態でした。ですが……無事に目覚めてくださって、本当によかったです」
魔力の逆流――それが、原因?
まだよくわからない。けれど、体の重さや頭のぼんやり感、胸の奥に残る妙な圧迫感……説明のつかない不調の正体に、ようやく名前が与えられた気がした。
ミレーユは立ち上がると、
「すぐに魔王代理様にご報告いたして参ります。」
「……まおう、さま……?」
聞き慣れない響きに、思わず問い返してしまった。魔王。
あまりにもファンタジーじみた単語に、思考が追いつかない。
けれど、それがこの世界で“普通の言葉”として使われていることを、なぜか自分は理解していた。
その事実が、またひとつ、静かに胸に刻まれていく。
椅子の背もたれから薄手のショールを取り、自分の肩にそっとかけてくれた。その手は冷たすぎず、けれど引き締まった温度を持っていて、どこか心地よかった。
「少しの間、おひとりでお休みください。すぐに戻ります」
そう言って、ミレーユは扉の方へと静かに歩いていく。
裾の広がったメイド服が揺れ、音もなく扉が閉じられる。残された空間には、香草と布の匂い、そして彼女の残した温もりだけが残っていた。
ミレーユが出ていったあとの部屋は、しんと静まりかえっていた。
冷たい空気に、少しだけ汗ばんだ肌がひやりと冷やされる。ベッドへと戻り、体を横たえるにはまだ不安があって、リリスはそっと腰を下ろすに留めた。布団のふちを両手でぎゅっと掴み、小さな吐息を漏らす。
――ミレーユ。
あの名前を口にした瞬間、たしかに頭の奥で、何かが動いた。
記憶――というには、あまりにも曖昧だ。けれど、浮かんできたのは、ぼんやりと霞がかったような景色だった。
柔らかな光の差し込む寝室。白く整えられたシーツ。
高熱で朦朧としながら、息をするのも苦しくて、何度も目を閉じては開いた。
誰かに看病されている、という感覚は確かにあった。
額に触れる手。耳元で響く落ち着いた声。
言葉の意味は理解できないのに、そこにこめられた優しさだけは、なぜか鮮明に感じていた。
この体の記憶というよりは鳴海悠斗という記憶自体が前世の記憶なのだろう。
と言ってもリリスとしての記憶は自室で寝たきりで他の記憶は靄がかかっているかのように薄く感じる。
「……ミレーユさん……」
ぽつりと、もう一度その名をつぶやいた。誰に向けるでもなく、ただ確かめるように。
そして――もう一つ、気になる名前がある。
彼女が言っていた、「魔王代理様」。
その響きは、異世界という現実を改めて突きつけてくる。けれど不思議と恐怖はなかった。むしろ、どこか懐かしさすら感じる。
“リリス”という名前と、“ミレーユ”という存在。
そして、ミレーユが「報告に行く」と言った相手――魔王様、という存在。
それは、きっと……
そこまで思考を巡らせたときだった。
――コン。
再び、部屋の扉がノックされた。
思考が止まり、リリスの細い肩がぴくりと揺れる。
誰だろう、とは考えなかった。ただ、なぜか胸の奥に小さな波紋が広がる。
そして、扉がゆっくりと開かれた。
扉が開いた瞬間、空気が張り詰めた。
ゆっくりと部屋に入ってきたのは、一人の少女。
扉から現れたその人影を見て、思わず息を呑んだ。
魔王と呼ばれていたので、どんな恐ろしい存在が来るのかと身構えていた。けれど、そこに立っていたのは想像とは正反対の姿だった。
銀の髪は絹のように滑らかで、肩から背にかけて流れるたび、燭台の炎を受けて月光のように輝く。額からは漆黒の角が二本、しなやかに弧を描いて伸びており、その存在は威圧ではなく象徴のように堂々としていた。
瞳は左右で異なる色を湛えていた。右は深紅、左は淡紫――二色の光が同時に存在し、視線を合わせた瞬間に心を射抜かれるような威圧感と、同時に吸い込まれそうな静謐さがあった。
黒を基調としたドレスは重厚で、まるで夜そのものを纏っているかのよう。胸元の紅のブローチと、裾にまで施された繊細なレースが、威厳と優美を同時に際立たせている。立ち姿には隙がなく、ただそこにいるだけで場の空気が一変するほどだった。
――けれど。
その顔立ちは驚くほど整っていながら、まだ年端のいかない少女に見えた。十代の前半ほどだろうか。思っていた“魔王”の姿とはあまりに違いすぎる。
威厳に満ちたその気配と、若い外見との落差に、思わず目を見張る。
リリスは思わず呼吸を忘れた。
思考が答えを探すよりも早く、その少女は小さく震えるように唇を結び、瞳を潤ませた。そして次の瞬間、ためらいなく駆け寄ってきた。
「……っ」
驚く間もなく、リリスの身体はやわらかな腕に抱きしめられていた。
黒いドレスの香り、胸元に伝わる温もり、耳元で震える息――それらすべてが、あまりに近く、あまりに優しい。
――知っている。この人を。
そう思った瞬間、胸の奥が熱くなった。
理由はわからない。だが、溢れてくる感情を抑えられなかった。
「……っ……ひぐ……ぅ……」
掠れた声が震え、視界が滲む。
気づけば、頬を大粒の涙が伝っていた。止めようとしても止まらない。子どものようにしゃくり上げ、ただ胸に縋りつくことしかできなかった。
少女の腕は、それを拒まなかった。
むしろ、さらに強く、やさしく抱きしめてくれた。
「リリス……」
耳元で、震える声が自分の名前を呼んだ。
「目を覚ましてくれて、本当に……よかった……」
その声は温かく、涙に濡れていた。
誰かのために泣いてくれる声。
その響きは、乾いた胸の奥に染み込む雨のようで、涙はさらに止まらなくなった。
小さな手が、無意識に少女の服を掴んでいた。
逃がすまいと、離したくないと、必死に。
その胸の中は、あまりにも温かかった。
恐怖も、不安も、涙と一緒に溶けていく。
世界のどこよりも、ここが安心できる場所だと、心の奥が訴えていた。
――ああ。この安心の正体は……。
言葉にできない。けれど、確かに知っている。
ずっと探していた、ずっと欲しかった、大切な誰か。
「……ねぇ……さ、ま……っ……!」
しゃくり上げながら、掠れた声でその言葉を吐き出す。
涙は止まらず、幼い喉からは堰を切ったような嗚咽がこぼれた。
声にならない泣き声と一緒に、その胸に縋りつく。
「ひっ……ぐ……う、うぁぁ……!」
それは理屈ではなく、ただ心が求めた叫びだった。
服を小さな手で必死に握りしめる。
まるで二度と離したくないと願うように。
少女はそんなリリスを抱きとめ、震える背をやさしく撫で続けていた。
その手のひらの温もりが、嗚咽の合間に静かに沁みていく。




