プロローグ
街は既に眠っていた。深夜2時を回った繁華街は、看板の灯りだけが虚しく輝き、人影は見当たらない。夜の空気は昼間とは別物で、風は止んでいるのに辺りには張り詰めたような冷たさが漂っている。
鳴海悠斗は、かすかな吐息を漏らしながらアスファルトを踏みしめていた。背広の裾は皺だらけで、肩からずり落ちかけた鞄は重く、まるで体に縛りつけられた錘のようだった。
目の奥が焼けるように痛む。ここ数日、ほとんど眠っていない。終電を逃し、タクシー代を惜しんで歩くのはこれで何度目だったか。時計を見る気力すらない。ただ「明日の朝までに資料を仕上げなければ」という思考だけが頭を支配していた。
足が止まった。意識の奥で警鐘が鳴るよりも早く、視界がぐらりと傾き、夜の歩道が迫ってくる。アスファルトの冷たさが頬に触れた瞬間、身体から力が抜けた。
遠くで、靴音が近づく。誰かの声が聞こえた。
「大丈夫ですか!? 誰か、救急車……!」
騒がしい声が、やけに遠い。自分に向けられているはずなのに、まるで別の世界の出来事のように響いた。
悠斗はうっすらと瞼を開いた。視界の端に、心配そうな顔がにじんでいる。だが、言葉はもう出てこなかった。喉が焼けるように乾いていて、息を吸うだけで精一杯だった。
――迷惑をかけてしまう。
最初に浮かんだのは、それだけだった。会社に、同僚に、取引先に。自分がいなくなれば、仕事が滞り、誰かに負担がいく。倒れたことすら、叱責の対象になるのだろう。そう考えた瞬間、胸の奥に広がるのは恐怖ではなく、申し訳なさだった。
「すみません……」
声にならない声で呟いたつもりだった。届いたかどうかもわからない。
意識は砂のように零れ落ちていく。過去の記憶が脈絡なく浮かび、消えていった。疎遠になった家族の顔。休日にふと見上げた空の青さ。何も残せずに過ぎていく日々。自分は一体、何のために生きてきたのだろう。
冷たい夜気が、身体の奥にまで染み込んでいく。救急車のサイレンが遠ざかるように聞こえ、やがてその音さえ途絶えた。
最後に浮かんだのは、ただひとつ――「もっと誰かに頼ればよかった」という悔いだった。
視界は完全に闇に閉ざされ、鳴海悠斗という一人の青年は、そこで静かに生を手放した。
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グラティオル歴一二八九年。
王都ノクタリアは常よりも深い闇に包まれていた。夜の帳は厚く、城郭を覆う魔霧は風ひとつなく沈殿していた。凍りつくような寒気が石造りの廊下を伝い、産室の戸口に立つ者たちの吐息を白く曇らせる。
厚布で覆われた窓の隙間から差す灯火は弱々しく、部屋の空気は燭台の炎に頼るほかなかった。揺らぐ影が壁を這い、見張る侍女や従者の顔を歪める。その表情には喜びよりも恐れが濃く宿り、誰一人として声を上げようとはしなかった。
産声が響いた瞬間でさえ、歓喜のざわめきはなかった。沈黙の中に細い泣き声だけが落ちていき、それは祝福というより、闇を裂いた悲嘆の響きのように聞こえた。
産室の中央、白布に包まれた産婦は額に汗を浮かべながらも、微動だにせず我が子を見つめていた。その眼差しは深い慈愛を湛えながらも、奥底に抗えぬ影を宿している。彼女の唇は微笑を形づくろうと震えていたが、目許には涙が溢れ続けていた。
取り囲む助産の女たちは顔を伏せ、互いに目を合わせまいとしている。声を出せばその場の均衡が崩れ、胸の内に沈めているものが溢れ出すと知っていたからだ。彼女たちはただ手を組み、冷たい石床に額を寄せ、無言の祈りを繰り返した。
城の外では、衛兵や兵士が重苦しい鎧の音を響かせて待機していた。彼らの顔に緊張と疲労が刻まれているのは、戦火の記憶がいまだ鮮烈であるからだ。戦争は国を深く傷つけ、そして今日、新たに生まれた命すらも同じ影の下に置かれているのを、彼らは薄々理解していた。
泣き声を上げた赤子は小さな体を震わせて母の胸に抱かれる。産婦の細い腕がその身を覆い、あたかも世界から隠すように抱きしめる。外の者たちには見えないその仕草にこそ、喜びよりも切迫した願いが滲んでいた。
重苦しい空気の中、燭台の炎だけが小さく揺れている。炎が消えればすべてが闇に沈むだろうと、誰もが無意識に感じていた。祝福すべき場でありながら、そこには「未来を恐れる気配」が漂っていた。
母の頬を伝う涙が幼子の額に落ちる。その瞬間、産室にいた者たちは息を呑んだ。泣き声は確かに生を告げているはずなのに、どうしても耳に届く響きが「別れ」のように思えてならなかったからだ。
誰一人として声を発せぬまま、産室は静けさに沈んだ。そこには新しい命の光と同時に、重く覆いかぶさる影が共存していた。
初めて書きました
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