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3.穏やかな日々


セレヴィアが去った後、部屋には静けさが戻っていた。

 扉の閉まる音が消えてしまうと、残された空気はどこか心細く、胸の奥に小さな穴が空いたような気がする。


 ほんの少しの間離れるだけ――そう自分に言い聞かせても、不安は思いの外に根強かった。

 大人としての理性は「大したことじゃない」と告げているのに、幼い体は正直に寂しさを表してしまう。鏡の中の顔が怯えていたのも、そのせいだ。


 「リリス様……」


 そっと声がかけられる。

 振り返ると、そこには変わらず無表情に見えるミレーユが立っていた。けれどその声音には、かすかな気遣いが滲んでいる。


「少し気を紛らわせるものを、お持ちいたしましょうか」

 

 そう言って彼女が手にしてきたのは数冊の絵本だった。厚手の紙に描かれた表紙には、色とりどりの挿絵が散りばめられている。


 どれも見たことのない挿絵ばかりで、どこか幻想的だった。

 ――ただの子供向けというより、この世界の歴史や出来事を寓話にしたものなのかもしれない。


 その中で、ひときわ目を引いたのが一冊。氷に包まれた王と、炎を振るう剣士が対峙する姿が表紙に描かれていた。


 『氷の王と炎の剣士』。


 どこか惹かれるものを感じ、リリスは指先でそっとその本を示した。

 「……これ……」


 ミレーユは小さく頷き、椅子に腰を下ろす。

 「承知いたしました」


 そして、表紙を静かに開いた。


 ***


 「むかしむかし――氷の王と、炎の剣士がおりました」


 低く落ち着いた声が部屋に響く。

 無機質に聞こえるはずなのに、不思議と耳に心地よい。感情を抑えつつも、ところどころに微かな抑揚があり、物語の情景が自然と脳裏に浮かんでくる。


 「氷の王は冷たい雪を呼び、闇の国を守っておりました。炎の剣士は燃える剣をふるい、研鑽を積んでいます。」


 語りの間合いは絶妙だった。

 リリスはその声に引き込まれ、いつしか本当に目の前に二人の戦士が立っているかのように感じた。


 「ふたりは戦い続け、ついに疲れてしまいました。氷の王の息は白く重く、炎の剣士の剣も燃えかすのように小さくなってしまいました」


 声がわずかに沈む。その響きが、二人の疲弊をよく表している。

 ――意外だ。ミレーユは驚くほど上手い。


 「そのとき、森から精霊のお姫さまが現れました」


 今度は柔らかな声音に変わる。ほんの少しだけ息を甘く含み、まるで本当にお姫さまが諭すようだった。


 『もう、やめて……争えば、あなたたちも、あなたたちの国も傷つくだけ』


 セリフ部分は淡々としながらも、不思議と耳に残る温かさがあった。

 ノイズにならない、ぎりぎりの感情表現。機械的でなく、しかし芝居がかったものでもない――完璧なバランスだった。


 「氷の王と炎の剣士は顔を見合わせ、やがて剣をおろしました。そしてそっと手を取り合いました」


 ページがめくられるたび、挿絵の色彩がちらりと目に入る。氷と炎が溶け合い、虹が空を渡る場面。


 「精霊のお姫さまはにっこり笑い、二つの国の上に虹をかけました。こうして国々は平和を取り戻したのです」


 物語の結末は穏やかだった。

 争いをやめ、手を取り合うことで平和を得る――そんな単純な寓話。


 ***


 閉じられた絵本の上に、静かな余韻が漂った。


 「……おしまいです」


 ミレーユは淡々と告げる。だが、その声の奥には確かに温かさが残っていた。


 リリスは胸に手を当て、ゆっくりと息を吐いた。

 ――意外だ。こんなにも安心できるとは。

 セレヴィアの胸の温もりとは違う、けれど同じくらい確かな安らぎがそこにあった。


 「……ありがと……」


 小さな声でそう呟いたあと、リリスは両手をぱちぱちと小さく合わせて拍手をした。

 それは大人の理性ではなく、身体が自然にとった仕草。絵本を読み終えてもらったことがただ嬉しくて、無意識に子供のような反応をしていた。


 その様子に、ミレーユは一瞬だけ瞳を瞬かせ――そして、ほんのわずかに口元を緩めたように見えた。

 ―――――――――――――――――――――――――――


 それからの日々、セレヴィアは欠かさずリリスの様子を見に来てくれた。

 朝に顔を見せ、夜には短い時間でも必ず寄ってくれる。忙しいはずなのに、黒いドレスを翻して現れる彼女の姿はいつも凛としていて――それでいてリリスに向けられる視線は、どこまでも優しい。


「今日はどう? 少しは楽になった?」

 椅子に腰を下ろしながらそう問いかける彼女に、リリスは小さく首を横に振る。


 ……体は重い。

 指先はしびれ、時折、熱が内側から噴き上がるように全身を覆った。少し動くだけで胸が詰まり、息苦しさに汗が滲む。


 ――寝たきりだけなら、まだ良かったのかもしれない。

 だが、こうも体調が悪ければ、周囲に迷惑をかけるばかりだ。


 「……ごめん、なさい……」

 か細い声が思わず漏れる。


 ミレーユはすぐに側へ寄り、濡れ布で額を拭ってくれる。

 「謝ることなど、ございません。私どもにとっては、こうしてお側に仕えることが務めでございますから」


 その声音は相変わらず無機質なのに、なぜか安心感をくれる。不思議と心地よく、深く沈みかけていた胸のざわめきが少し和らいだ。


 ――前世の頃に比べれば、ずっと穏やかな時間を過ごしている。

 毎日終電を逃し、眠る間もなく資料を仕上げていた頃に比べれば、たしかに「ゆったりした日々」と言えなくもない。


 ……だが。


 病弱で、まともに起き上がることすらできず、ただ人に迷惑をかけるだけの生活。これはこれで、正直いかがなものかと思ってしまう。


 セレヴィアの顔を見るたびに「心配ばかりかけてしまっている」という後ろめたさが募った。


 「そんな顔、しないで」

 セレヴィアがそっと手を伸ばし、リリスの頬に触れる。冷たいようで温かい掌が、すぐ近くにあった。

 「あなたがここにいてくれるだけで、私は救われているのよ」


 その言葉に、リリスは思わず視線を逸らした。

 ――ああ、どうしてこうも甘やかしてくれるんだろう。

 心苦しさよりも、胸の奥がじんわり温まってしまうのが悔しい。


 「……えへへ」

 気づけば、小さく笑っていた。自分でも驚くほど子供っぽい声色で。


 「……ありがと」


 セレヴィアは目を細め、すぐに表情を和らげた。

 「まったく……かわいいんだから」

 その声は、部下の前では決して出さない、柔らかいものだった。


 ――迷惑ばかりかけている。

 そう思うのに。どうしてか、二人の前では心が軽くなる。


 布団に身を沈めながら、リリスはゆっくりと瞼を閉じた。

 前世の過酷な日々とは違う、穏やかなぬくもりに包まれながら。


―――――――――――――――――――――――――

 

 目を覚ましたときの感覚で、その日の体調はおおよそ分かる。

 けれど、「調子が良い」と感じた日は、ほとんどなかった。

 熱がこもり、頭は霞がかかったようにぼんやりして、手足には力が入らない。時折、胸の奥が痛むこともある。


 ――僕は、一体どんな病気なのだろう。


 前世であれば「診断名」がついて然るべきだ。だが、この世界に来てからは誰もそれを口にしない。セレヴィアも、ミレーユも、まるで当然のことのように看病し続けているだけだ。


 このまま一生ベッドの上で暮らすのだろうか。そう思うと、胸の奥に小さな不安が渦巻いた。


 ふと、傍らで水差しを整えているミレーユに目を向ける。

 何気なく、けれど確かめたい気持ちが抑えきれずに口を開いた。


 一度、言葉が喉でつかえる。

 「……ぼくの……びょうきは、いつ……治りますか?」


 敬語を使ったつもりなのに、舌がうまく回らず、辿々しい声になってしまった。自分でも幼く聞こえて、思わず頬が熱くなる。


 その瞬間――ミレーユの手が止まった。

 水差しを持ったまま、彼女の長いまつ毛がわずかに伏せられる。


 普段は表情を変えることのない顔に、ほんの一瞬だけ影が差した。


 「……」


 返事はなかった。代わりに、彼女は静かに水を注ぎ、コップを差し出す。

 「喉が渇いておいででしょう。どうぞ」


 淡々とした口調はいつも通りだったが、その目は一瞬こちらから逸れていた。

 まるで「答えたくないことを隠す」ように。


 胸の奥がざわつく。

 ――なぜ、答えない?


 「……ありがと、ございます」

 震える声でそう受け取ると、冷たい水が喉を通っていった。体は少し楽になったはずなのに、心の中には別の重さが残る。


 ……やはり、ただの病気ではないのだろうか。


 だが、今はそれ以上問い詰める勇気はなかった。


 ミレーユはコップを置くと、再び無表情に戻り、椅子に静かに腰を下ろした。

 その姿を横目で見ながら、リリスは布団の端を小さく握りしめた。


 ――「治る」と言ってほしかった。

 けれど、その言葉は、返ってこなかった。

 

リリスの一日は――ほとんど、寝て過ごすことで終わっていた。

 というより、“寝ていない時間の方が少ない”と言った方が正しい。


 目を覚ますたび、視界にあるのは同じ天蓋と、揺れるカーテン。

 ベッドの柔らかさと枕の感触が、もう“自分の世界の輪郭”になってしまっている。


 (また……寝てたんだ)


 ぼんやりとした頭のまま息を吐く。

 体は常に重く、力を入れようとすると胸の奥がじんと痛む。

 何かを考えようとするたび、まるで霧がかかるように意識が遠のく。


 “魔力の流れが不安定だから、無理をしてはいけません”――ミレーユの言葉が浮かぶ。

 その通りだ。

 けれど、“何もできない自分”を突きつけられているようで、時々やるせなくなる。


 (寝て、起きて、食べて、また寝る……それだけ)

 生きているというより、“生かされている”気分だった。


 窓の外に目を向ける。

 外の空は――今日も薄暗い。

 ここでは昼の時間が短く、夜が長い。

 まるで世界そのものが永遠の夕暮れに包まれているようだ。


 (……日本にいたころは、もっと時間の流れが分かりやすかったのにな)


 春には桜が咲いて、夏には蝉が鳴いて。

 秋は金木犀の匂いがして、冬には息が白くなった。

 そんな季節の移ろいが――もうない。


 ここでは、空の色も雪の色も、ほとんど変わらない。

 時折、遠くの塔の鐘が鳴るときだけが、「いまが朝か、夜か」を教えてくれる。


 この大陸では雪が多い。

 窓を見つめていると、ゆっくりとした白い粒が舞い落ちてくる。

 音もなく、静かに、空から落ちるそれは、どこか眠気を誘うようだった。


 「……さむい」

 思わず毛布を引き寄せる。

 城の中は暖かいはずなのに、手先が冷える。

 この世界の“寒さ”は、温度だけじゃなく、空気そのものに沁みているような感覚があった。


 (日本の冬は、もう少し明るかった気がする)

 思い返しても、少し霞んでいる。

 会社帰りのコンビニの灯り、街灯の下を歩いた夜道。

 どれも遠い夢の中のように曖昧だ。


 窓を見上げる。

 灰色の空の向こうに、淡く揺らめく魔力の霧。

 その奥に、昼か夜かわからない光の線が見えた。


 「……おひる?」

 時間の感覚が狂ってしまっている。

 けれど、どんなに薄暗くても――この空がある限り、今日という日は続いている。


 (姉様も、ミレーユさんも……みんな頑張ってるのに)

 そんな人たちの中で、自分だけ眠ってばかりだと思うと、少し罪悪感が胸を締めつける。


 セレヴィアは忙しい合間を縫って、毎日ここへ来てくれる。

 ミレーユだって、ほとんど一日中つきっきりで世話をしてくれている。


 なのに、自分は何も返せていない。


 ただ寝て、看病されて、心配をかけるばかり。

 役に立つどころか、迷惑ばかりかけている気さえした。


 (……ぼくも、なにかしたい)


 せめて、自分で起き上がれるくらいにはなりたい。

 誰かに支えられるだけじゃなく、いつか少しでも、姉様たちの力になれたら――。


 そんな小さな願いを胸に抱きながら、リリスはぎゅっと毛布を握った。


 (早く、動けるようにならないと)

 けれど、焦っても体は言うことをきかない。


 カーテンの隙間から一筋の光が差し込み、ベッドの端を照らす。

 雪明かりが淡く部屋を包み、まるで世界が静かに呼吸しているようだった。


 彼女はゆっくりとまぶたを閉じた。


 ――長い夜が、また静かに降りてくる。

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