25.歌姫は願いを込めて
今日は、リリスの誕生日である。
魔王城の朝はいつもと変わらず静かだったが、空気のどこかに、わずかな高揚が混じっていた。
それを一番分かりやすく纏っていたのが、フィリシア・リュミエールだった。
彼女は軽い足取りで廊下を進み、鼻歌まじりに執務室の扉を開けた。
「おはよーございまーす☆」
明るい声が室内に弾む。
だが、その声はすぐに、微妙な違和感にぶつかった。
執務机の向こうにいたセレヴィアは、顰めっ面で書類を睨んでいた。
机の上には、すでに処理済みのはずの報告書が、いくつも重ねられている。
「およ……?」
フィリシアは首を傾げる。
(この顔……仕事モードどころじゃないなぁ)
セレヴィアは顔を上げ、軽く息を吐いた。
「……フィリシア。少し厄介な報告が続いているの」
「えー、今日に限って?」
セレヴィアは視線を落としたまま答える。
「数日前から、クラリス聖教会の動きが活発になっているわ。場所を変えながら、小規模な襲撃が相次いでいる」
言葉は冷静だったが、その奥に張りつめた疲労が滲んでいた。
魔王代理としての責任。
それが、今日という日にも容赦なくのしかかっている。
フィリシアは内心で溜息をついた。
今日が何の日か、セレヴィアが忘れているわけではない。
むしろ、誰よりも大切にしているからこそ、他のすべてを片づけようとしてしまうのだ。
フィリシアは机の前まで歩み寄り、腰に手を当てた。
(ほんと、要領悪いんだから)
それでも、嫌いじゃない。
むしろ、そういうところが――たまらなく、放っておけなかった。
フィリシアは、いつもの調子を意識的に削ぎ落とす。
声を落とし、冗談の角を丸める。
「ねえ、セレヴィア」
「……なに?」
「今日はさ。そんな話、忘れよ?」
フィリシアは、いつもの軽い調子で続ける。
「少し離れた場所の襲撃でしょ?
なら、あたしが対応するよ」
「……フィリシア」
「歌姫だって、たまには働くんだから☆
情報伝達も、士気上げも、任せて?」
冗談めかした口調だったが、視線は真剣だった。
セレヴィアは、その目を見て言葉を失う。
フィリシアは一歩近づき、声を落とす。
「ねえ。今日は、リリスの誕生日だよ」
その一言に、セレヴィアの指がぴくりと動いた。
「心配させたくないでしょ?せっかくの時間なのに、眉間にしわ寄せたお姉ちゃんなんてさ」
フィリシアは肩をすくめる。
「リリスは、一緒にいてくれるだけでも嬉しいと思うよ」
しばらく、沈黙が落ちた。
セレヴィアの視線は、机の上から、ゆっくりと逸れていく。
――葛藤。
責任と、想いの間で揺れる、わずかな迷い。
「……分かっているわ」
ようやく、低い声が返る。
フィリシアは、その隙を逃さなかった。
「はい決まりっ☆じゃ、仕事は一旦おしまい!」
ぐい、とセレヴィアの腕を引き、椅子から立たせる。
「ちょ、フィリシア……!」
「ほらほら、主役待たせちゃだめでしょ〜」
半ば強引に、執務室の扉まで押していく。
「襲撃の件はあたしが見とくから。今日は“お姉ちゃんの日”!」
扉の前で、フィリシアはにっと笑った。
セレヴィアは、苦笑とも溜息ともつかない息を吐く。
「……ありがとう、フィリシア」
「どーいたしまして☆」
そうして、フィリシアはセレヴィアの背中を、ぽんと押した。
「行ってきな。今日は大切な日でしょ」
扉が閉まり、廊下に足音が遠ざかっていく。
執務室の扉が閉まったのを見届けてから、ゆっくりと息を吐いた。
──行った、か。
無理やり背中を押した形ではあったけれど、あれでよかったのだと思う。
今日は、リリスの誕生日なのだから。
椅子に腰を下ろし、机の上に残された書類の山を眺める。
さっきまでセレヴィアが睨みつけていた紙切れたちだ。
(……ほんと、相変わらずだなぁ)
心の中で、苦笑する。
セレヴィアとは、幼馴染だ。
いつから一緒だったのか、正確には覚えていない。
気がつけば、同じ場所にいて、同じ景色を見ていた。
そして──六年前の、あの日。
あの日を境に、彼女の背中は、明らかに重くなった。
守るものが増えた。
背負うものが増えた。
代わりに、弱音を吐く場所は、どこにもなくなった。
(頑張りすぎなんだよ、ほんと)
フィリシアは、机に肘をつき、頬杖をつく。
セレヴィアは強い。
冷静で、賢くて、判断も早い。
誰よりも“王”に近い器だと思う。
でも──それは、“休まなくていい”理由にはならない。
だから、自分は六魔柱になった。
大それた野心があったわけじゃない。
ただ。
(あの人が、少しでも前を向いていられるように)
歌うことしかできなかった自分にできる役割。
場を和ませること。
人の心を繋ぐこと。
戦場でも、城の中でも。
そう思って席に座ってから、まだ日は浅い。
本当に役に立てているのかどうかは、正直、分からない。
でも──
(今日みたいな日はさ)
せめて、肩の力を抜いてほしい。
妹の誕生日くらい、世界を忘れてほしい。
フィリシアは、視線を窓の外へ向ける。
グラティオル大陸は静かで、雪が淡く陽射しを浴びて輝いている。
……なのに。
胸の奥に、わずかな引っかかりがあった。
最近、襲撃が増えている。
小規模で、場所もまちまち。
狙いが見えないぶん、余計に不気味だ。
(嫌な予感、ってやつかなぁ)
根拠はない。
ただ、長く戦場に立ってきた感覚が、ざわついている。
何かが、動いている。
何も起きなければいいと、願ってしまうくらいには。
フィリシアは、胸元の魔導マイクに指を添えた。
(……今日は、歌わないけど)
代わりに、祈るくらいはしてもいいだろう。
セレヴィアが、今この瞬間だけは、笑っていますように。
リリスが、穏やかな時間を過ごせますように。
そして。
(……何も、起こりませんように)
その願いが、空に溶けていく。




