22.幻狐の悩み
黒曜棟へ続く回廊には、いつ歩いても独特の冷たさがあった。
魔王城そのものは決して静かな場所ではない。下層へ降りれば、兵たちの鍛錬の声が響き、使用人たちが忙しなく行き交い、厨房の方角からは温かな湯気と香辛料の匂いが漂ってくる。巨大な城でありながら、そこには確かに人々の営みがあり、生活の気配があった。だが、魔王代理セレヴィア・ヴァル=ネメシアの執務区画へ近づくにつれ、その空気は少しずつ削ぎ落とされていく。
黒曜石で造られた壁は光を吸い込み、青白い魔導灯だけが、長い廊下に薄い影を落としていた。深紅の絨毯は足音を吸収し、窓の外に広がるグラティオルの空は、昼であるにもかかわらず夜の名残を引きずっている。魔力霧の向こうで弱い陽光が滲み、遠くの山々は紫がかった靄の中で輪郭を失っていた。
その廊下を、シオン・イナリガミは一人で歩いていた。
狐の頭部を持つ獣人。魔王軍六魔柱第六席、《幻狐》。和装の裾を揺らしながら進む姿は、一見すればいつもの軽薄な男そのものだった。だが、彼の足運びには一切の無駄がなく、視線は何気ない動きの中で壁、天井、扉、警備兵の呼吸まで拾っている。
癖だった。
生き延びるために身についた、どうしようもない癖。
そして今、その癖はいつも以上に鋭く働いていた。
(……説明なしの呼び出し。しかも、黒曜棟の最上階。ほんま、嫌な感じやなぁ)
シオンは心の中で小さく呟いた。
セレヴィアに呼び出されること自体は珍しくない。彼は諜報担当であり、表に出せない任務や、情報の裏取り、敵勢力への潜入などを命じられることも多い。だが、今回の呼び出しには内容がなかった。ただ一言、魔王代理が呼んでいる、とだけ。
それはつまり、事前に伝えるべきではない案件か、あるいは伝える余裕すらないほど切迫した案件ということだ。
最近の情勢を思えば、心当たりはいくらでもあった。
北部では死霊の襲撃が増えている。単なる野良のアンデッドではなく、何らかの指揮系統を感じさせる動きがあるという報告もあった。行方不明となっている六魔柱第三席、《幽葬》リリセア・グリム。彼女の名を口に出す者は少ないが、誰もが心のどこかで疑っている。
そしてクラリス聖教会。
あの人間側の組織は、静かな時ほど危険だった。派手な軍事行動ならばまだ読みやすい。だが、水面下で何かを仕込んでいる時の連中は、平然と孤児を兵器に変え、村を地図から消し、人の命を“材料”として数える。
シオンは、そういう連中を知っている。
忘れたことなど、一度もない。
だからこそ、シオンは軽口を叩く。
軽薄に見えるように笑う。
深く考えれば、立っていられなくなるものがあるからだ。
黒扉の前に立つ近衛兵が、シオンの姿を認めて頭を下げた。
「第六席シオン・イナリガミ様。お通りください」
「どーも、お勤めご苦労さん」
軽く手を振りながら返す声は、いつも通りだった。少なくとも、外側だけは。
扉に手を掛ける直前、シオンは一度だけ呼吸を整えた。
この先にいるのは、十五歳の少女でありながら、五年間この国を背負い続けている王だ。六魔柱である自分でさえ、あの少女の前では軽口の使いどころを間違えれば一瞬で凍る。比喩ではない。実際に凍る。
シオンは扉を押し開いた。
執務室の中は、広い。
だが、広さより先に感じるのは、圧迫感だった。
壁一面にはグラティオル大陸の地図が投影され、各地の防衛線、補給路、死霊出現地点、聖教会の推定活動域が青白い光で示されている。巨大な執務机の上には、軍事報告書、外交文書、兵站記録、魔導通信の写しが積まれ、今にも崩れそうでいながら、奇妙な秩序を保って並べられていた。
そして、その中心にセレヴィア・ヴァル=ネメシアがいた。
月光のような銀髪を背へ流し、黒を基調とした高位魔族のドレスを纏う少女。漆黒の角は王冠のように彼女の頭上に存在し、赤と紫のオッドアイは、書類へ落とされていてなお、部屋全体を支配しているように感じられた。
「遅いわ」
顔を上げることなく、セレヴィアが言った。
怒鳴るわけではない。声を荒げるわけでもない。ただ静かな一言が落ちただけで、室内の温度が一段下がったように思える。
「呼ばれて三分で来とるんやけど?」
「なら二分で来なさい」
「魔王代理様は部下に無茶言うんが趣味なん?」
「必要なら言うわ」
淡々と返され、シオンは肩を竦めた。いつものやり取りではある。だが、今日のセレヴィアの周囲にある空気は、普段よりさらに硬かった。机上の資料、投影地図、彼女の指先の僅かな緊張。それらを拾ったシオンの内側で、警戒がさらに深く沈む。
これは重い案件だ。
そう判断した。
セレヴィアはペンを置き、ようやく顔を上げた。赤い瞳は鋭く、紫の瞳は淡い光を帯びている。どちらも揺らがない。国を動かす者の目だった。
「任務を与える」
シオンは笑みを浮かべたまま、内側の温度だけを落とした。
潜入か。暗殺か。リリセアの痕跡か。あるいは、クラリス聖教会の中枢へ差し込む刃となれという命令か。
どれであっても構わない。
それが魔王軍のためであり、ヴァルザードから与えられた居場所を守るためならば、シオンは迷わない。
そんな覚悟を整えた直後、セレヴィアは極めて真剣な顔で告げた。
「近々、リリスの誕生日があるわ」
シオンは、数秒間だけ動きを止めた。
言葉は聞こえた。意味も分かる。リリス・ヴァル=ネメシア。魔王家の妹姫。病弱で、城内の誰もが気にかけている小さな少女。その誕生日が近いという話自体は理解できる。
だが、それが今、この空気、この執務室、この呼び出し方、この“任務を与える”という流れとどう結びつくのかが、どうしても理解できなかった。
「……はい?」
思わず漏れた声は、いつもの軽口より少しだけ素に近かった。
セレヴィアは冗談を言っている顔ではなかった。むしろ、北部戦線の損耗率を確認している時よりも真剣に見える。シオンはそこで初めて、別の意味で嫌な予感を覚えた。
「リリスは、自分から欲しい物を言わないの」
セレヴィアの声は静かだったが、その奥には確かな焦りがあった。
「あの子は遠慮する。欲しいと思う前に、自分が迷惑をかけていないかを考える。贈り物を尋ねても、きっと“なんでも嬉しいです”と答えるでしょう」
王としての焦りではない。
姉としての焦りだった。
シオンはその違いを聞き分けた。彼は諜報員だ。人の声の僅かな揺れ、視線の動き、指先の力の入り方、そうしたものを拾って生きてきた。だから分かる。今のセレヴィアは、国境や戦争の話をしている時とは違う種類の緊張を抱えている。
妹を喜ばせたい。
ただそれだけの願いを、彼女は国家機密のような重さで抱えていた。
「だから、シオン」
セレヴィアは真っ直ぐにこちらを見た。
「自然に探ってきなさい。リリスが本当に欲しいものを」
「いやいやいやいや!?この空気で!? ボク、シリアスな任務かと思って覚悟決めて来てましたんですが!?」
セレヴィアは至って真顔だ。
(……国家存亡レベルの顔で、妹の誕生日プレゼント調査を命じてきよった)
しかも本人は、欠片もふざけていない。
この状況そのものはどう考えてもおかしいのに、セレヴィアの眼差しがあまりにも真剣すぎて、笑うことすら許されない。いや、笑ったら普通に凍らされる。物理的に。
「ボク、六魔柱なんやけど」
「だから任せるの」
「諜報担当なんやけど」
「適任でしょう」
「……いや、適任ではあるけども」
言い返しながら、シオンは自分でも少し嫌になった。
確かに適任ではある。
相手の本音を探り、警戒されずに懐へ入り、必要な情報を持ち帰る。それはまさしく彼の役目だ。問題は、その対象が敵国の高官でも聖教会の神官でもなく、病弱な六歳の妹姫であるという点だけである。
「リリスの誕生日は重要なの。彼女がこの世界に生まれてくれた日。だから、完璧にしてあげたいのよ」
セレヴィアは淡々と続けた。
「失敗は許さないわ」
その声に込められた圧は、国境防衛任務の時と同等か、それ以上だった。
シオンは、心の中で深く息を吐く。
(あかん。この人、本気や)
そして同時に、少しだけ毒気を抜かれていた。
完璧な魔王代理。
冷徹で、理知的で、失敗を許さず、国のためなら己の感情すら切り捨てる少女。
そんな彼女が、妹の誕生日を前にして、どうすれば喜ばせられるのか分からず、六魔柱を呼び出してまで悩んでいる。
なんやこいつ。
けれど、笑えないほど切実だった。
シオンは軽く肩を竦め、いつもの調子を少しだけ戻す。
「……しゃーないなぁ。六魔柱《幻狐》、その重大任務、承りました」
セレヴィアの表情はほとんど変わらなかった。
ただ、ほんの僅かに。
本当に僅かに、その目元の緊張が緩んだ。
「頼むわ、シオン」
その一言は、命令ではなく、姉からの願いに聞こえた。
――影の一族、シオン=イナリガミの
次なる任務は、かつてない“愛の任務”であった。
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黒曜棟をあとにしたシオンは、しばらく無言のまま回廊を歩いていた。
先ほどまでいた執務室の空気が、まだ肩へ張り付いている気がする。
巨大な地図、積み上がった軍事報告、青白い魔導投影、そしてその中心で淡々と国を動かしていた銀髪の少女。あの空間はいつ訪れても妙な疲労感を伴った。別にセレヴィアが常に威圧しているわけではない。むしろ彼女は感情を抑えている方だ。怒鳴り散らすこともなければ、権力を振りかざして恐怖で支配するタイプでもない。
ただ、“王として立ち続けている”空気が、あまりにも濃い。
十五歳の少女が纏うには、あまりにも重すぎる責務の気配が、黒曜棟全体へ静かに染み込んでいるのだ。
だからこそ、あの執務室で聞かされた任務内容との温度差が、シオンの中で未だに処理しきれていなかった。
「……いやほんま、あの人リリス様絡むと別方向に怖いねんなぁ」
ぽつりと零した声は、既に少女のものへ変わり始めていた。
人気のない回廊の途中で、シオンは足を止める。
壁際の窓から差し込む淡い光が、和装の輪郭をぼんやりと照らしていた。グラティオルの空は今日も暗い。昼だというのに空には薄い紫の靄が漂い、太陽は厚い魔力霧の向こうで輪郭を失っている。
その薄暗い光の中で、シオンは静かに目を閉じた。
呼吸を落とす。
体内へ刻まれた魔脈が、ゆっくりと熱を帯びていくのを感じる。
《幻化・百面》。
シオンが持つ四十九の術式の中でも、特に使用頻度の高い術のひとつだった。
最初に変わったのは輪郭だった。
狐の頭部を形作っていた骨格が、音もなく滑らかに歪み始める。長い鼻先は縮み、牙は消え、毛並みが肌へ溶け込むように沈んでいく。代わりに現れるのは、魔王城の使用人たちの中へ自然に紛れ込める程度の、ごく一般的な魔族の少女の顔立ちだった。
小ぶりな黒角。
やや垂れ気味の瞳。
栗色の髪。
特別美しいわけでも、醜いわけでもない。
“記憶に残らない顔”。
それが潜入時における理想だった。
続いて骨格が軋む。
肩幅が狭まり、重心が変わり、筋肉の付き方が細く再構築されていく。長年使い慣れた術式である以上、痛みはない。ただ、自分という輪郭が滑らかに別人へ置き換わっていく感覚だけが静かに全身を走る。
声帯も変わる。
呼吸の深さも。
歩幅も。
視線の高さも。
果ては、“その人物らしい空気感”まで。
数秒後、そこに立っていたのは六魔柱《幻狐》シオン・イナリガミではなく、どこにでもいそうな若い魔族メイドだった。
シオン――いや、今は名無しの新人メイドは、自分の手を軽く開閉する。
細い指。
軽い身体。
裾の長いメイド服の感触。
「ん、問題なし」
声も完全に少女のものだ。
シオンは変化した自分の姿を軽く確認すると、そのまま自然な足取りでリリスの私室区画へ向かった。
リリスの部屋がある区画は、魔王城の中でも独特の空気を持っている。
黒曜棟のような張り詰めた冷たさではない。
もっと静かで、柔らかい。
長い療養生活を前提に整えられた空間特有の穏やかさが、廊下そのものへ染み込んでいる。
壁際に置かれた魔導灯は光量が抑えられており、淡い琥珀色の光が絨毯へ落ちていた。空気には薬草と浄化香が微かに混じっている。だが、それは決して“病室の臭い”ではなかった。むしろ、眠りを妨げないよう調整された香りに近い。
使用人たちも、この区画では自然と足音を殺して歩く。
大声を出す者はいない。
誰もが無意識に、“静けさを壊さないように”動いていた。
(……ほんま大事にされとるなぁ)
シオンは内心でそう思う。
だが、それも当然かもしれない。
リリス・ヴァル=ネメシア。
魔王家の末子。
先代魔王の忘れ形見。
病弱な妹姫。
そして――セレヴィアが、何より優先する存在。
あの魔王代理が、誕生日のことで本気で悩む程度には。
扉の前で立ち止まり、シオンは軽く呼吸を整えた。
任務。
今回はあくまで観察だ。
自然に入り込み、自然に会話し、違和感なく情報を持ち帰る。
それは彼にとって得意分野だった。
コンコン、と軽く扉を叩く。
少し間が空く。
その“間”が、妙に長く感じられた。
やがて中から、小さな声が聞こえる。
「……どうぞ、です……」
細い声だった。
弱々しい、というより、そもそも大きな声を出す体力がないような声音。
シオンは静かに扉を開けた。
その瞬間、柔らかな香りが鼻を掠める。
薬草。花。微かな甘い匂い。
室内は広かった。
天井は高く、窓も大きい。豪奢な調度品が並び、王族の私室として十分すぎるほどの品格がある。だが、それらはどれも過度に主張せず、部屋全体はどこまでも静かで落ち着いた空気に統一されていた。
窓際では薄いレースカーテンが風に揺れている。
差し込む光は淡く、白いシーツの上へ柔らかく落ちていた。
そして、その中央。
天蓋付きの大きなベッドの上に、小さな少女が横になっていた。
銀髪が、シーツの上へ静かに広がっている。
その光景を見た瞬間、シオンは一瞬だけ言葉を失った。
綺麗だった。
だが、それ以上に儚い。
華奢な身体は黒いドレスに包まれているものの、その服は身体を飾るためというより、“弱いままでも負担にならないように”作られているのが見て取れた。ゆったりとした布地は身体を締め付けず、長袖のフレアスリーブは細い手首を隠すように揺れている。
まるで、“壊れやすいものを包むための服”だった。
リリスは、ぼんやりとこちらを見ていた。
赤と紫のオッドアイ。
王の瞳。
セレヴィアと同じ血を引く証。
だが、受ける印象はまるで違う。
セレヴィアが“王”なら、リリスは“守られる側の象徴”だった。
半分眠たげな目元。
薄い血色。
ゆっくりとした反応。
細い肩は呼吸に合わせて小さく上下している。
それだけで、この少女が常に体調不安を抱えていることが伝わってきた。
(……あー、なるほど)
シオンは内心で小さく納得する。
(そら、城中こうなるわ)
別にリリスが媚びているわけではない。
弱さを利用しているわけでもない。
ただ、存在そのものが“守らなければならない”と思わせる。
それが、厄介なくらい自然だった。
リリスは少し遅れて瞬きをすると、小さく首を傾げた。
「……あたらしい、メイドさん……?」
問いかける声は静かだった。
眠気を含んだような柔らかい響き。
シオンは慌てて新人らしい笑みを作る。
「は、はいっ。お掃除に来ました……!」
リリスは小さく頷く。
それだけの反応なのに、妙に丁寧だった。
普通、王族なら使用人ひとりにここまで意識を向けない。
だがリリスは、ちゃんと相手の顔を見て、返事をして、会話を成立させようとしている。
その自然な気遣いに、シオンは少しだけ驚く。
(……ほんま、変に気ぃ遣う子なんやな)
本来なら、メイドが来た程度でわざわざ反応する必要はない。軽く視線を向けるだけでも十分だ。だがリリスは、ちゃんと相手の顔を見て、言葉を返し、会話を成立させようとしている。
それが自然にできてしまうほど、この子は“相手を無視しない”。
(……難儀やなぁ、これ)
シオンは内心でぼやく。
なるほど、確かにセレヴィアが悩む理由も分かる。
この少女は、自分の欲求より先に“相手へ気を遣う”のだ。だから何を尋ねても、きっと「なんでも嬉しいです」と返してしまう。
掃除を始めるふりをしながら、シオンはそっとリリスへ視線を向けた。
リリスはベッドの上で、ぼんやりと窓の外を見ている。
その横顔は静かだった。
静かすぎて、時折本当に眠っているのではないかと思うほどに。




