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21.ゆめのなかで


――雪のように静かな、“暗いあかり”の世界だった。


 リリスは、何もない場所にぽつんと立っていた。

 城の部屋のようでもあり、違うようでもある。

 息をするたびに、胸の奥がきゅうっと縮む。

 でも、それがなぜなのかは分からなかった。


 ふと、視界の先にあたたかい影が揺れた。


 細い腕。

 やわらかな光の揺れ。

 抱きしめられていた時のような、懐かしい匂い。


 影は何も喋らない。

 言葉も表情も、はっきりとは見えない。

 なのに――その腕に包まれた瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。


 (……知ってる……この感じ……)


 遠い昔。

 暗くて冷たい場所の中で、ただひとつの温もりだった。

 小さな体をそっと抱きしめてくれて、はぁ……と弱い息が頬にかかる。


 とてもやさしいのに、その体はひどく細かった。

 抱きしめている腕が震えている。

 抱きしめ返す力が弱すぎて、今にもほどけてしまいそうだった。


 影の呼吸は苦しげで、途切れそうで、

 それでも必死にリリスを胸に寄せていた。


 その匂い。

 その揺れるリズム。

 その鼓動の弱さ。


 全部覚えているようで、全部忘れてしまったようでもある。


 (……だれ……?)


 影は答えない。

 ただ、温もりだけが“たしかにそこにあった”ことを思い出させる。


 暗い部屋。

 揺れる光。

 震える腕。

 ひどく弱いぬくもり。


 (……あ……)


 胸の奥が一気に締めつけられる。

 懐かしい。

 懐かしくて、どうしようもなく恋しい。

 知らないはずなのに、知っている。


 その影が、泣きそうに笑った――気がした。


 次の瞬間、遠くから冷たい風が吹いた。


 あたたかい腕がほどける。

 影が薄くなっていく。

 指先が離れていく。


 ――行かないで。


 声にならない声が喉に引っかかり、手を伸ばす。

 でも届かない。

 ずっと、ずっと遠ざかっていく。


 暗闇の向こうへ消えていくその背を追いかけたとき、

 リリスの足元が揺らぎ――世界がくずれ落ちた。


「……っ……ぅ、あ……っ」


 はっと目を開いた瞬間、頬を何かが伝っていた。

 涙だった。

 ぼたぼたと音を立てるくらい、滲んで流れてきた。


 「……ぅ……ひっ……」


 息がうまく吸えない。

 胸がぎゅっと痛くて、体が熱いのか寒いのかも分からない。

 頭の奥がくらくらして、視界が滲む。


 なんで泣いてるのか分からないのに、涙だけが止まらなかった。

 夢の中の温もりが、胸を締めつけて離してくれない。


 「……ひく……っ……ご、ごめ……」


 誰に謝っているのかも分からなかった。

 ただ泣き声がこぼれ、息が苦しくて、手が震える。


 握っていたアイリスも落ちそうになるほど腕に力が入らなかった。


 (……だれ……?)


 涙の理由も、夢の内容も、全部ぼんやりなのに――

 胸の奥の“さみしさ”だけは、消えなくて。


 枕を濡らしながら、リリスはしばらく、

 ひくっ、ひくっと弱い呼吸を繰り返していた。


 意識がはっきりしない。

 熱が上がっているのか、頭がふわふわする。


  涙の跡が頬をつたったまま、リリスはしばらく身じろぎもできなかった。

 胸はひゅう、と細く鳴るたびに痛く、頭の奥がぐらぐらと揺れている。

 息を吸うたびに、肺の奥がじん、と冷たくなった。


 でも――


(……ミレーユさん……来たら……しんぱい、させちゃう……)


 その思いだけが、フラフラの意識の中ではっきりしていた。


 泣いてるのを見られたら、きっと心配してしまう。

 そんなのは嫌だった。

 泣く理由も説明できないのに、余計な心配をかけるなんて。


 リリスは震える指先で涙を拭う。

 でも拭っても、すぐに滲んでくる。

 止まらない。

 止めないといけないのに、体が言うことをきかない。


「……だい、じょうぶ……だいじょうぶ……」


 自分に言い聞かせるように小さく呟き、

 ゆっくり呼吸を整えようとする。


 胸の奥はまだ苦しい。

 頭はズキズキして、世界が少しずつ傾いていくようだった。

 それでも、どうにか意識を繋ぎとめるように、

 アイリスを胸の上でぎゅっと握りしめる。


 指先に感じる柔らかい布の感触だけが、唯一の支えだった。


 ぼーっとしていると、視界の端に机が映る。

 昨日、みんなと絵を描いて――

 自分の描いた紙を机の上に置いたまま眠ってしまった。


 ――その紙が。


 ない。


「……え?」


 涙が止まった。

 いや、止まるというより、どこかに引っ込んでいった。


 思わず上体を起こそうとした瞬間、

 ぐわ、と世界が揺れた。


 「っ……!」


 頭の奥がぐらりとし、視界が波打つ。

 吐き気に似たざわつきが胸に広がり、思わず枕を掴む。


 でも――机に絵がない。


 その事実だけが全身を走り、体調の悪さを一瞬で吹き飛ばす勢いで焦りがこみ上げてきた。


(……な、ない……!? なんで……)


 昨夜、ここに置いて眠ったはずだ。

 丸く歪んだ線のまま、恥ずかしいけど、

 でも自分で描いたたった一枚。


 どうして――消えてる?


 呼吸が浅くなる。

 胸の奥で心臓が早鐘を打つ。

 まだ頭はくらくらしているのに、じっとしていられなかった。


 「……っ」


 毛布を払いのけ、ベッドの縁につかまりながらなんとか体を起こす。

 ふらつきに足がついてこない。

 体を動かすたびに視界がにじみ、少し遅れて床の模様が揺れた。


 (……しっかり……しないと……)


 胸を押さえながら、机の周りを見渡す。

 紙が落ちていないか、そばの椅子の上にないか――

 視線を這わせるたびに、額に汗が滲む。


 頭痛がひどい。

 息が苦しい。

 脚もふらふらで、まるで氷の上を歩いているみたいだ。


 それでも探すのをやめられなかった。


 机の下を覗こうとして、ぐらりと体が傾き、

 思わず椅子の脚につかまる。


「……どこ……?いっちゃったの……?」


 かすれた声が漏れた。


 紙一枚なのに、胸の奥はひどくざわついている。

 まるで大切な何かを失くしてしまったような――

 いや、実際に失くしてしまったのだ。


 置いてあったはずの場所。

 昨日、何度も見返した紙。

 震えながら描いた自分の線。


 それが、ない。


 焦りはどんどん強くなって、

 体調の悪さを押しつぶしてしまいそうだった。


 立ち上がろうとした瞬間、

 再びぐわん、と視界が歪んだ。


 耐えきれず、ベッドの端へ手を伸ばす。

 指先がぐにゃりと見えて、うまく掴めない。


 胸の奥が焼けるように苦しい。

 息をするたびに体がきつい。


 でも――探さなきゃ。


 だって、あれは……

 はじめて“自分で描いた、贈り物”なのに。


 アイリスを抱きしめる腕に力が入る。

 ベッドの縁にしがみつくようにして、

 もう一度机の周囲を見ようとしたそのとき――


 遠く、廊下の方で足音がした。


 ゆっくり、でも確実にこちらに向かってくる足音。


 ミレーユだ。


 リリスの心臓が跳ねた。


(……みられたら……今の、みられたら……)


 心配させてしまう。


 どうしよう。

 胸の奥がぎゅっと縮む。


 扉の前で足音が止まり、

 ノックの音が静かに響いた。


 ノックの音が響いた瞬間、リリスの体はびくりと跳ねた。

 呼吸が浅くなり、胸がざわつく。

 アイリス握る手にぎゅっと力がこもる。


「……リリス様。入ってもよろしいでしょうか」


 ミレーユの静かな声だった。


 返事をしようとしたが、喉がひゅっと鳴って言葉が出ない。

 それでも、どうにか息を整えて――


「……は、い……」


 掠れた声でそう返した。


 扉が静かに開き、ミレーユが一歩入る。

 朝の光が差し込んだ部屋を見渡し、すぐにリリスの異変に気づいた。


 ベッドの脇に座り込むようにして、肩で息をするリリス。

 その様子は、隠しきれるものではなかった。


「……リリス様。どうなさったのですか?」


 ミレーユはすぐに膝をつき、リリスの顔を覗き込む。

 声は変わらず静かだが、その奥には明かな心配が滲んでいた。


「い、いえ……なんでも……」


 誤魔化そうとした瞬間、胸が痛んで言葉が途切れる。

 視界が揺れ、喉の奥がひりついた。


 ミレーユの涼やかな瞳が細められる。


 「……お体の具合が悪いのですね?」


 優しい問いかけに、嘘をつくことすらできなかった。

 リリスは小さく首を振り、アイリスを抱きしめたまま俯く。


「……だ、だいじょうぶ……です……」


「大丈夫ではございません」


 きっぱりと断言され、リリスは肩をすくめる。


 だけど――いま一番気になっているのは、自分の体よりも。


 昨日の絵。


 どこにもない。

 見つからなかった。

 なくしてしまったのだと思うと胸がざわざわして落ち着かない。


「……あ、あの……き、きのうの……絵……」


 ミレーユが小さく瞬きをした。


「絵、でございますか?」


「……机の……うえに……あった……やつ……」


 胸の奥がキュッと痛む。

 自分で描いた拙い似顔絵。

 姉様に渡したかったけど、うまく描けなくて……勇気が出なくて……

 そのまま眠ってしまった、あの一枚。


 ミレーユはリリスの視線の先――机の方へ目を向けた。

 少し考えるような間のあと、ふわりと微笑む。


「……ああ。そのことでしたら」


 リリスの胸がざわりと大きく揺れる。


「昨夜、セレヴィア様がこちらへいらして……

 その絵を、とても大事そうにお持ち帰りになりましたよ」


「……え?」


 息が止まった。


 ミレーユは続ける。


「“愛しい宝物を見つけた”というような……

 それはそれは嬉しそうなお顔をされておられました」


 リリスの心臓が、どくん、と跳ねた。


 ――持っていった?

 あの、ぐにゃぐにゃで、へにゃっとした、へたくそな絵を?


「……よ、よろこんで……?」


「ええ。“こんなに嬉しいことは久しぶり”と仰られておりました」


 世界がふわっと揺れる。

 体調のせいではなかった。

 胸の奥があたたかく、苦しく、恥ずかしく、どうしようもない感情で満ちていく。


(……あんな絵……うれしい、って……)


 あれを見て、喜んでくれたのだろうか。

 一生懸命描いて、でも下手で、線は震えて、恥ずかしくて渡せなかったのに。


 ミレーユはリリスの顔色の変化を見つめ、そっと微笑む。


「完成した贈り物を、誰よりも大切にされていました。

 なくなったわけではございませんので、ご安心ください」


「……よ、かった……」


 胸の奥にあった焦りがするすると解けていく。

 安堵で力が抜け、肩がほっと落ちた。

 涙の気配も消えていく。


 本当は、ちゃんと渡すつもりで描いた。

 でも下手すぎて、勇気が出なかった。


 なんだか変だ。

 でも、嬉しい。


(……なくなったんじゃ、なくて……よかった……)


 胸の奥に小さな火が灯ったような、そんな温かさが広がった。


 それと同時に、ふわりと頭が揺れた。

 体の重さが戻ってくる。

 息が浅く、指先が冷えていく。


「リリス様。まずはお体を横にお倒しください。

 そのままでは倒れてしまいますよ」


 ミレーユの声に従い、リリスはベッドへ戻った。

 頬に触れるシーツの冷たさが心地いい。


 目を閉じると、さっきよりもずっと穏やかな気持ちになっていた。

 絵が消えたわけじゃない。

 姉様が大事にしてくれている。


 それだけで胸がじんわり温かくなり、

 体の不調すら少し和らいだように思えた。

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