18.歌姫の日課
それからというもの――フィリシアは、ほとんど毎日のようにリリスの部屋へ来るようになった。
最初は“たまたま時間が空いたから〜☆”なんて言っていたが、
数日も経つと「今日も来ちゃった♪」と笑顔で現れるのが日課のようになっていた。
最初は申し訳なさの方が強かった。
彼女は六魔柱のひとり、“旋律”の名を持つ将。
本来なら重要な任務や、士気高揚のための式典などで忙しいはずなのに――
そんな人物が毎日自分のために来てくれるなんて。
「……あの、フィリシアさん。おしごととか……いいんで、しょうか?」
そう言うと、彼女はにっこり笑ってリリスの額に指を当てる。
「いいのいいの〜♪ 私にとっても、リリスちゃんに歌うのは癒しなのよ〜」
「……癒し、ですか……?」
「うんっ! 兵士たちに歌うのは元気をあげるため。でも、リリスちゃんに歌うのは――自分が優しくなれる気がするの。だから、これは私の“お仕事の一部”ってことにしておいてネ☆」
そんなふうに軽く言われると、もう何も言えなくなる。
結局その日も、ベッドの傍らで小さなライブが始まった。
柔らかな光が舞い、音の粒が空気の中で踊る。
それを見つめながら、リリスはふと
(この人は、どんな戦場を見てきたんだろう)と思う。
彼女の明るさは、生まれつきのものじゃない。
痛みの先にある“強がり”のような優しさだと、なぜかそんな気がした。
そんな穏やかな時間に、たまに――セレヴィアが部屋に顔を出すことがある。
フィリシアはそれを見ると、いつもよりさらにテンションが上がる。
「セレヴィア〜っ☆ 今日もお仕事モード?顔がキリッとしてる〜♪」
「……公務中だ。歌の合間に無駄話を増やすな、フィリシア」
「えぇ〜、昔はあんなに可愛く笑ってくれたのに〜!」
「昔と今を一緒にするな」
フィリシアがセレヴィアの肩に抱きつこうとして、
するりと避けられる――そんなやり取りが、もう何度も繰り返されていた。
そのたびにリリスは、二人の距離感に目を丸くする。
「セレヴィアとは昔からの仲なの☆」
「そうなん、ですか……?」
「ええ。私がまだ子どもの頃、歌が下手でね〜。よく練習してたら、セレヴィアが“その雑音をなんとかしなさい”って眉をひそめながら聞いてくれてたの〜♪」
「……そういう言い方をするな」
セレヴィアが溜息をつく。
「フィリシアの歌は最初から良かった。私が注意したのは“歌詞の方向性”だ」
「ほら〜っ、細かいこと気にしすぎ〜☆」
そんなふうに笑い合う二人を見ていると、
まるで長い時間を共に過ごしてきた“家族”のように思えた。
リリスの胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなる。
(姉様にも、こうして笑える相手がいるんだ……)
責任と誇りの鎧を脱げる時間が、きっと少しでも必要なのだ。
歌声が部屋を包み、セレヴィアの表情が少しだけ和らぐ。
ミレーユも静かにカップを置き、目を閉じて耳を傾けた。
リリスはその光景を見つめながら、
(ああ、こういう時間がずっと続けばいいのに)と心の中で思った。
歌が終わると、フィリシアはリリスの髪をそっと撫でて笑った。
「今日もかわいかったわ〜、リリスちゃん☆ また明日も来ちゃうかも♪」
「……ふふ、まいにち、ですか……?」
「もちろん〜♪ 可愛いものは毎日見たくなるでしょ?」
笑い声が響く中、リリスはそっと目を細めた。
賑やかで、暖かくて
そんな時間が、今の彼女にとっていちばんの薬だった。
フィリシアが「また明日も来るからね〜☆」と手を振って部屋を出て行くと、
部屋の中に静寂が戻ってきた。
先ほどまで漂っていた魔力の余韻が、まだ空気の奥にほのかに残っている。
まるで光の粉が見えないまま宙に漂っているようで、リリスはぼんやりとその静けさに身を委ねた。
気づくと、ミレーユさんの姿もなかった。
いつのまにか、音も立てずに部屋を出て行ったらしい。
(……気を、使ってくれたのかな)
胸の奥が、ほんの少しだけくすぐったくなる。
そして、残されたのは――セレヴィアとリリスの二人きり。
「……姉様」
呼びかけると、窓辺に立っていたセレヴィアが振り向く。
長い銀髪が夜の光を受けて淡く揺れ、赤と紫の瞳がやわらかに光る。
さっきまでフィリシアのいた時とは違う、少し穏やかな表情。
その視線が向けられるだけで、胸がどきりとする。
「リリス。少し起きていても大丈夫?」
「……はい。今日は、ちょっと元気……です」
「ふふ、そう。顔色もいいわ」
セレヴィアはゆっくりと歩み寄り、ベッドの端に腰を下ろした。
近づくたびに、空気が少しあたたかくなる気がする。
リリスは自然と背筋を伸ばした。
「最近は公務が多くてね……城を離れることも増えたの。
本当は、こうしてあなたの顔を見ている時間がいちばん好きなのに」
「……姉様、おしごと……だいじょうぶ、ですか?」
「ええ、大丈夫。リリスの顔を見たら、全部どうでもよくなったわ」
そう言いながら、セレヴィアは笑みを浮かべて、リリスの髪に指を通した。
指先がさらさらと髪をすくたびに、魔力のぬくもりが伝わってくる。
「髪……のびたわね。綺麗よ、リリス」
「……そんな、こと……」
「本当。まるで雪の光を束ねたみたい」
優しい声。
それが耳に触れるたび、胸の奥がくすぐったくて落ち着かない。
(……また、姉様の甘いモードだ)
頭ではそう思うのに、体の力が抜けてしまう。
「リリス」
「はい……?」
「少しだけ、こっちを向いて」
言われるまま顔を向けると、
セレヴィアの瞳がすぐ目の前にあった。
赤と紫の光が混ざり合って、やさしく揺れている。
「ふふ……やっぱり、可愛い」
「……そんな、こと……」
「あるの。何度でも言ってあげる」
言葉のあと、セレヴィアはそっとリリスの頬に触れた。
そのまま、ゆっくりと額を寄せる。
銀の髪が頬に触れて、ひやりとした感触とともに息が止まりそうになる。
「こうしてるとね、世界が静かになるの」
「……ねえさま……」
「リリスの魔力は穏やかで、心が落ち着く」
リリスは視線を逸らしながら、小さな声で答えた。
「……ねえさま……あったかいです」
セレヴィアは嬉しそうに目を細めた。
「そう言ってくれるの、嬉しいわ」
彼女はそのまま、リリスを胸に抱き寄せた。
背中を撫でる指がゆっくりと動き、髪越しに感じる体温がやさしく伝わる。
心臓の鼓動が混ざり合って、世界が二人だけのものになる。
「……さいきん、フィリシアさんがよく来ます」
「ええ、そうね」
「どうして、なんでしょう……」
「ふふ、あいつは気まぐれだから。気にしなくていいの」
セレヴィアの声は少しだけ曖昧だった。
けれど、あまりに穏やかで、追及する気になれない。
セレヴィアはリリスの額に唇を触れさせた。
微かな魔力の光が波のように広がり、心がふわりと軽くなる。
「……ねえさま……」
「大丈夫。もう、怖いものなんて何もないわ」
その言葉が耳に落ちるころには、リリスのまぶたはもう重くなっていた。
セレヴィアは微笑みながらその髪を梳く。
夜風がカーテンを揺らし、月明かりが二人を包む。
「おやすみ、リリス。……愛しい私の妹」
その声が最後に聞こえた記憶。
リリスは静かに息を整え、姉の胸のぬくもりの中で眠りへと沈んでいった。
―――――――――――――――――――――――――――
リリスの小さな寝息が、夜の静けさに溶けていく。
セレヴィアはその音をしばらく聞いていた。
ベッドの上で安らかに眠る妹の頬に、月明かりが落ちている。
白い肌は透けるようで、呼吸に合わせて胸がゆっくり上下していた。思わず笑みがこぼれる。
指先で髪の先を整え、乱れのないよう撫でつけた。
手を離すのが惜しくて、ほんの一拍だけためらう。
けれど、やがて彼女は静かに立ち上がった。
「……おやすみなさい、リリス」
囁くように言葉を残して、寝室を出る。
扉が閉まると、空気の温度が少し下がった気がした。
廊下には月明かりが差し込んでいる。
静かな足音が、長い回廊に淡く響いた。
――そのとき。
「ヤッホー☆」
軽い声とともに、曲がり角から影が現れた。
水色の髪がゆらりと揺れ、金の瞳がきらめく。
六魔柱“旋律”フィリシア・リュミエール。
彼女は片手をひらひらと振りながら、悪戯っぽい笑みを浮かべて近づいてきた。
「夜更かしデートですかぁ? 魔王代理さまぁ〜?」
「……覗き見は趣味が悪いわよ、フィリシア」
セレヴィアはため息をつきながらも、微笑をわずかに浮かべた。
フィリシアはその様子を見て、「あらら〜照れてる照れてる♪」と肩をすくめる。
「照れてなどいないわ」
「うっそ〜、さっきの顔、めっちゃ優しかったですよぉ? “もう離れたくないの……”みたいな〜」
「……貴女、いつからそこにいたの?」
「うーん、ちょっと前? “姉様”って聞こえたあたりで、あ、甘々タイムだ〜って」
セレヴィアはこめかみを押さえた。
「本当に……貴女は油断ならないわね」
「誉め言葉として受け取っておくね〜☆」
軽口を交わしながらも、二人の足は自然と並んで歩き出していた。
廊下の窓から見える中庭は、静まり返っている。
遠くの見張り塔に、青い灯りがひとつ、またひとつ揺れていた。
「魔王城の防衛はどう?」
セレヴィアの声が、夜の空気を割った。
先ほどまでの柔らかさはもうない。
声の芯が冷え、指揮官の響きに戻っている。
フィリシアは一瞬で姿勢を正した。
「異常なし、ですっ。門も結界も安定してます☆。兵士たちも、私のライブで士気MAXですし〜♪」
「そう。……ならいいわ」
短い返事の中に、わずかな安堵の息が混じる。
フィリシアはその変化を見逃さなかった。
「でも、あんまり無理しないでね? セレヴィア、最近ずっと働きっぱなしなんだから」
「わかってる、私が倒れたところで、誰も得をしないもの」
「得とか損とかの問題じゃないよ。リリスちゃん、泣かせちゃうよ?」
「……ふふ、それは困るわね」
廊下を抜け、二人は塔の影を通り過ぎる。
冷たい夜風が吹き抜け、セレヴィアの髪を揺らした。
フィリシアはその横顔をちらりと見て、真面目な声に変わる。
「……で、例の件。シオンから、何かわかったんですか?」
セレヴィアの足が止まる。
少し間を置いて、低い声で答えた。
「ええ。彼から報告が届いたわ」
「やっぱり……?」
「そう。アステリエ襲撃の魔力反応、間違いない」
沈黙が落ちる。
風が、遠くで旗を鳴らした。
セレヴィアはゆっくりと目を閉じ、吐息を整える。
その表情は冷ややかだが、瞳の奥にはかすかな痛みがあった。
「――リリセア・グリム」
その名を口にした瞬間、空気がわずかに揺れた。
フィリシアは目を細め、静かに頷いた。
「……あの人、まだ生きてんだ」
一瞬の沈黙。
しかしその沈黙の奥には、戦慄のようなものが確かに潜んでいた。
「平和な夜は、長くは続かないみたいですねぇ」
「……だからこそ、今を守るのよ」
セレヴィアは再び前を向く。
その横顔は、さっきまでリリスの前で見せていた“姉の顔”ではなく、
“国を背負う魔王代理”のそれだった。
廊下の終わりで、二人の影が月光に溶ける。
夜はまだ静かに――しかし確実に、動き始めていた。




