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17.魔王城のアイドル


今日は調子がいい日だ。

 体の中の重たい霧が、いつもより薄い気がする。

 こういう日は、ちゃんと歩ける。隣の部屋――つまりトイレ――まで行ける日だ。


「……今日も、歩いていきます」

 宣言すると、そばに立っていたミレーユさんの眉が、すっと寄った。

 あの、氷のように落ち着いた表情の中で、ほんの少し困った色をしている。


 「ですが、リリス様。無理をなさっては……」

 「だいじょうぶ、です。ちょっと歩くだけ、ですから」

 そう言っても、ミレーユさんは頷かない。

 いつもそうだ。ほんの数歩進むだけでも、ものすごく心配そうに見てくる。


 「では……おんぶで参りましょうか?」

 「い、いりません!」

 反射的に断った。

 あんな完璧なメイドさんの背中に乗るなんて、恥ずかしすぎる。

 (というか、もう六歳くらいなのに……いや、精神年齢的には二十代だけど!)


 ミレーユさんは、すこしだけ目を伏せて小さくため息をついた。

 それでも、すぐに姿勢を正して微笑む。

 「……では、私がすぐ後ろを歩きます。決して無理はなさらないでくださいね」

 「はいっ」


 返事をして、ベッドの端に手をかけて立ち上がる。

 足の裏が床に触れる瞬間、ひんやりとした感覚が伝わった。

 このお城の床は石造りだから、どうしても冷たい。

 けれど、それが今はなんだか心地いい。


 一歩、二歩。

 ぐらり、と少し体が傾くと、後ろでミレーユさんが「!」と息をのむ音がした。

 「だ、だいじょうぶです!」と慌てて振り返る。

 ミレーユさんは姿勢を崩さず、両手を胸の前でそっと組んでいる。

 その姿勢のまま、ずっとこちらを見ている。ほんの数歩の距離なのに、まるで大冒険を見守るみたいに真剣だ。


 「そんなに見なくても……」

 小さく呟きながらも、心の奥では少し嬉しかった。

 誰かが自分のことを本気で心配してくれる――

 それは、前の世界ではほとんどなかった感覚だ。


 歩くたびに、体の奥の筋肉がきゅっと緊張する。

 たった十歩も歩けば、息があがってくる。

 でも、それでもいい。少しずつ、少しずつ進めている。


 「リリス様、あと数歩です。焦らずに」

 ミレーユさんの声はいつも通り落ち着いているけれど、

 ほんのすこしだけ、息が弾んでいるように聞こえる。


 「……はい」

 最後の一歩を踏み出す。

 ドアの前に立ち、取っ手に手を伸ばす。

 冷たい金属の感触が指先に触れた。


 「とうちゃく、です」

 思わず、口の中で小さく呟く。


 後ろでミレーユさんが小さく拍手した音がした。

 「……お見事です、リリス様。まるで王城を制覇されたかのような堂々ぶりでした」

 「おおげさ、です……」

 でも、顔の奥が熱くなる。


 たった隣の部屋まで歩けただけで、こんなに褒められるなんて。

 不思議だけど、嬉しかった。


 用を済ませて、すっきりした気分で廊下へ出た。

 ミレーユさんがすぐ隣で控えている。いつも通り穏やかな顔だけど、その手つきはやはり心配そうに見える。


 そんな中、ふと――耳に、音が届いた。

 遠くのほうから、やわらかく、それでいてはっきりと響く“声”。

 歌……?


 最初は、ただの風の音かと思った。

 でも、違う。旋律がある。高く、澄んでいて、まるで水の上を渡ってくるみたい。

 どこか楽しげで、聴いていると胸の奥がくすぐったくなる。


「ミレーユさん……これ……?」

 尋ねようとしたそのとき――


 「リリス様ーっ!」


 ドタドタドタ、と廊下の奥から足音が響いた。

 あっという間に現れたのは、猫耳をぴんと立てたキャロルだった。

 息を切らせ、尻尾をばたばた揺らしながら駆け寄ってくる。


 「キャロルさん……?」

 「リ、リリス様っ!いま大変なんですニャっ!!」


 キャロルは胸の前で団扇みたいなものをぶんぶん振り回している。

 よく見ると、キラキラ光る紙が貼られていて、“こっち向いて!”とか“フィリシア様大好き♡”とか、手書きの文字が並んでいる。


 ……え、なにこれ。


 「それは……なん、ですか…?」

 「これですかニャ!? こ、これはフィリシア様のファンサうちわですニャー!!」


 「……ファン、サ?」

 リリスは思わず首をかしげる。

 ファンサ……たぶん、“ファンにサービスする”って意味だっけ。前世の記憶がぼんやり浮かぶ。

 でもここ、魔王城なんだけど。


 キャロルは目を輝かせて説明を続ける。

 「六魔柱の“旋律せんりつ”フィリシア様がっ! いま、中庭でライブしてるんですニャー!!

  新曲の“闇に咲く☆メロディー”を、初披露なんですニャ!!!」


 リリスの頭の中に、ぽかんとした沈黙が広がった。

 「……ライブ? 中庭で?」

 「そうなんですニャ! ステージもちゃんとあって、観客もいっぱいで……!もうもう、最高にきゃわいいんですニャーー!!!」


 尻尾をぴょんぴょん跳ねさせながら、キャロルは興奮のあまり手足をばたつかせている。

 目の前で団扇をふりまわすキャロルを見ていると、さっき聞こえてきた歌がまた耳に届いた。

 確かに、明るくて――力のある声。


 「リリス様も、一緒にどうですかニャ! 中庭に行けばきっと間近で――」


 キャロルが両手を広げて誘おうとした、そのとき。

 ふっと、背後の空気が冷えた。


 「……キャロル」


 低く、しかし穏やかな声。

 その声を聞いた瞬間、キャロルの尻尾がピンッと固まる。

 振り向くと、そこには――微笑みを浮かべているのに目が笑っていない、ミレーユさんの姿があった。


 「……お仕事中のはず、ですよね?」

 「ひゃ、ひゃいっ!? そ、それは……えっと……あの、こ、これは休憩時間に……!」

 「貴方の休憩時間はもう終わったはずですが」

 「ひぃぃっ、す、すぐ戻りますニャーーーッ!!」


 キャロルは団扇を抱えたまま、猛スピードで廊下を駆け去っていった。

 尻尾が床を叩きながら遠ざかっていく。


 その背中を見送りながら、リリスはぽつりと呟いた。

 「……フィリシアさん、おうた、うたってるん、ですか……?」

 「ええ。きっと、今日から常駐になりますから。あの方のことです、しばらくはこの調子でしょうね」


 ミレーユさんは小さく息をついて肩を落とした。

 でも、ほんの一瞬だけ、口元が緩んだ気がした。


 (……なんだか、楽しそう)


 リリスは遠くから響く歌声に耳をすませた。

 

 中庭から、かすかに歌が聞こえてくる。

 夜風に乗って流れるその旋律は、耳の奥をくすぐるようで――不思議と胸の奥が温かくなった。

 リリスはベッドの上で、そっと顔を上げた。


「……ミレーユさん」

 呼びかけると、窓辺に立っていた彼女が静かに振り向いた。

 「はい、リリス様」

 「……あの、おうた……ちょっとだけ、見にいきたいです」


 言ってから、胸の奥がどきりとする。

 自分でも、ずいぶん勇気を出したつもりだった。


 ミレーユは、ほんの一瞬だけまばたきをした。

 そして、静かに歩み寄る。

 「……中庭、でございますね。ですが――今はたくさんの方が集まっております」

 「……だめ、ですか……?」

 リリスの声は自然と小さくなった。


 ミレーユは、柔らかな微笑を浮かべる。けれど、その瞳には深い心配の色が滲んでいた。

 「……あの歌は、兵士や使用人たちのためのものです。

  “旋律”――フィリシア様は、魔力を歌にのせて、人々の心を癒しておられるのです」


 「……まほう、ですか……?」

 「はい。彼女の歌には“歌唱魔力”という特別な力がございます。心を安らげたり、魔力の乱れを整えたり……ですが、強い力でもあります。今のリリス様には、少々刺激が強すぎるかもしれません」


 ミレーユの声はいつも通り落ち着いているのに、

 その中にある“優しさ”が、なぜか少し苦しく感じた。


 「……でも、すこしだけ……見たいです」

 視線を落としながら、リリスは小さく呟いた。

 (外の風、感じたい。……それに、みんなが笑ってるの、見てみたい)


 けれどミレーユは、そっと首を横に振る。

 「……ご容赦くださいませ。体調は確かに良くなっておられますが、夜風は冷たく、人の魔力が多く集まる場所は……まだ、お身体には負担がございます」


 リリスは、唇をきゅっと結んだ。

 「……そう、ですよね……」

 言葉の端が震える。

 胸の奥で、ぽすんと小さな石が沈むような感覚がした。


 ミレーユがそっとしゃがみ込み、目線を合わせてくる。

 その仕草は優しいのに、どこか苦しそうだった。

 「……いつか、もう少しお元気になられたら、一緒に行きましょう。今は、お部屋で聴いているだけでも十分に楽しめます」


 「……はい……」

 しょんぼりとうなずくと、ミレーユはわずかに微笑んだ。


 「では、窓を少し開けましょうか。風にのれば、もっとよく聞こえますよ」

 「……いいんですか?」

 「ええ、少しだけなら」


 ミレーユが窓の鍵を外すと、夜の空気がひやりと頬を撫でた。

 外から届く音が一層はっきりと聞こえる。

 フィリシアの歌声――まるで水面をなぞる光のようだった。


 「……きれい……」

 思わず零れたその言葉に、ミレーユが柔らかく目を細める。

 「ええ。フィリシア様の歌は、聴く者の心を癒やす力を持っています。魔王代理様――セレヴィア様も、よくお聴きになっておられました」


 「……ねえさまも?」

 「はい。あの方の声には、不思議と“希望”を感じるのです。戦場であれ、平時であれ……その旋律は人々に力を与えます」


 リリスは目を閉じて、静かに耳を澄ませた。

 高く、低く、やさしく――まるで風が語りかけてくるよう。

 音が胸の奥に染みて、呼吸のひとつひとつが軽くなる。


 (……この歌、すき……)

 まぶたの裏で光がゆらめく。

 遠くの世界が、ほんの少しだけ近づいたような気がした。


 ミレーユはその横顔を見て、ほっと息をついた。

 「……無理をなさらずに。いつか、きっと間近で聴けますよ」

 「……うん。がんばります……」


  ミレーユはそんなリリスを見つめ、少しだけ目を細めた。


―――――――――――――――――――――――――


 その翌日、リリスの体は少し重かった。

 朝から頭がぼんやりして、熱こそないけれど力が入らない。

 (昨日、夜風に当たったから……かな)

 薄い毛布を肩まで引き上げながら、ぼんやりと天井を見つめる。


 扉の向こうで、誰かがノックした。

「……ミレーユさん?」

 呼びかけても返事はない。

 代わりに、少し高めで明るい声が響いた。


 「やっほー! おじゃましまーすっ☆」


 扉が開き、眩しいほどの光が部屋に差し込む。

 そこに立っていたのは、淡い水色の髪を揺らす女性だった。髪は波のように柔らかく、先端がほんのりと紫がかっている。金色の瞳がきらりと光り、口元には軽やかな笑み。


「えっ……?」

 リリスは思わず声を失った。

 その女性の声は、昨日聞いた“歌声”そのものだった。

 黒と白と金で統一された軍服のような衣装に、

 青い宝石が胸元で輝いている。


「……フィリシア、さん……?」

 「そうっ! 旋律のフィリシア・リュミエールで〜す☆」

 軽やかにスカートを摘まみ、くるりと回ってお辞儀をする。

 動くたびに髪の水色が光をはね返し、まるで海の泡のようだった。


 「ふふっ、そんなに見つめられると照れちゃう〜♪」

「す、すみません……あの……」

 リリスが言葉に詰まると、フィリシアは軽く肩をすくめて笑った。

 「いいのいいの。ミレーユさんに頼まれてね、“リリス様が最近元気が出ないみたいだから、少し歌ってあげてほしい”って」

 

 「どうしたの? そんなにじっと見つめられると、さすがの私でも照れちゃうゾ☆」

 フィリシアがウインクすると、リリスははっとして顔を赤らめた。

 「す、すみません……はじめて……で……」

 「ふふっ、気にしないで〜♪ かわいい反応、癒されちゃう☆」


 ちょうどそのとき、もう一度ノックの音がした。

 今度こそ聞き慣れた声が扉の向こうから届く。

 「失礼いたします。……あら、もうお入りになっていましたか、フィリシア様」

 「ミレーユさん……」

 ミレーユが入ってきて、リリスの枕元に膝をついた。

 その顔にはわずかに安堵の色。

 「体調はいかがですか?」

 「……すこし、だるいです。でも、だいじょうぶ……」


 フィリシアが手を叩くようにして言った。

 「じゃあ〜、そんなリリスちゃんのために、特別ライブしちゃおっかなっ☆」

 「え……?」

 「ほら、病気のときって静かすぎると気が滅入るでしょ?

  そんなときは〜……音と光で元気注入!」


 その言葉にミレーユがわずかに眉を寄せた。

「……フィリシア様、あまり強い魔力を放たれると――」

 「大丈夫大丈夫〜! 優しく歌うから♪」

 そう言って、フィリシアはくるりと一回転し、

 手のひらに小さな青い光を灯した。


 その光が空中で舞い、部屋全体に散っていく。

 魔力の粒が花びらのように漂い、壁や天井に淡い模様を描く。

 そして、静かに唇を開いた。


 ――歌声が流れ出した。


 中庭で聞こえた歌よりも、ずっと柔らかい。

 まるで子守唄のような旋律が部屋の空気を満たし、

 リリスの呼吸をゆっくりと整えていく。


 リリスは、自然とまぶたを閉じた。

 体の中のざらついたものが、ひとつずつ溶けていく。

 これが“歌唱魔力”――心を撫でるような力。


 フィリシアは一曲歌い終えると、にこっと笑った。

 「どう? 少し元気になれた〜?」

 「……はい。すごく、きれいで……あたたかいです」

 リリスの言葉に、フィリシアは嬉しそうに胸に手を当てた。

 「ん〜っ、そう言ってもらえるとやりがいあるね〜☆」


 その様子を見て、ミレーユが微かに微笑む。

 「……まるで、部屋が小さな舞台のようですね」

 「でしょ? 観客は一人でも、ちゃんと歌うのがプロってもんよ♪」


 そのとき、リリスはそっとミレーユの袖を引いた。

「……あの、ミレーユさん」

 「はい?」

 「……キャロルさんも……呼んで、いいですか?きのう……いきたそうに、してたから……」


 ミレーユは一瞬だけ目を閉じて、静かに息をついた。

 「……あの子のことです。どうせ廊下の陰で様子を伺っているでしょう」

 そう言って扉を開くと、予想通りすぐそばでキャロルが固まっていた。

 「にゃっ!? ち、違うんですミレーユ先輩!ただの通りすがりで――!」

 「……いいですから、中へ入りなさい」

 「は、はいにゃーっ!」


 キャロルは慌てて部屋に入り、緊張で尻尾をぶんぶん振っている。

 フィリシアが嬉しそうに笑い、手を振った。

 「じゃあ、アンコールいっちゃうよ〜♪」


 再び光が舞い上がる。

 今度の歌は明るく、軽やかで――まるで春の風のようだった。

 リリスは、頬にあたる柔らかな音の波に身を任せた。

 少し弱った体にも、その温度は心地よかった。


 フィリシアの歌声が響く中、ミレーユはそっと目を細めた。

 小さな主の頬に、久しぶりに笑みが戻っている。

 ――その笑顔を見て、彼女の胸の奥にも静かな安堵が広がっていた。

 

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