16.夜の襲撃
アステリエ防衛砦・深夜二時
空は闇に沈み、星の光さえも厚い雲に覆われている。
グラティオル大陸アステリエ北端、研究都市を囲う警備線の一角に建つ防衛砦。
その最上階の見張り台で、ひとりの新米兵が夜風に身をさらしていた。
“魔王軍に入れば、誇りある戦士として世界を変えられる。”
――そんな夢を抱いて入隊したのは、ほんの数ヶ月前のことだった。
現実は、思い描いていたそれとは違った。
夜の見張りは寒い。風は骨の芯まで凍みる。
訓練ばかりの毎日。戦果も、称賛もない。
“ただ立っているだけの兵士”に、いつの間にかなっていた。
彼はぼんやりと城壁の外を見下ろした。
闇の大地が広がり、遠くに見えるのは黒い森。
かすかな灯りは雪を照らし、静寂が支配している。
「……退屈だな」
息が白く霧となって散る。
肩を回し、兜の下で大きなあくびをした。
その瞬間だった。
――カリ、カリ。
何かが砦の下から擦れるような音。
耳を澄ませば、確かに聞こえる。
風の音ではない。
まるで、地面の中で……何かが這いずっているような。
「……おい、またネズミか?」
自嘲気味に呟き、階段を下りる。
古びた扉を開け、砦の外壁へと足を運ぶ。
雪が積もった地面は静まり返り、ただ冷気が頬を刺す。
――ギシッ。
足元の雪の下で、確かに“何か”が動いた。
反射的に腰の剣に手を伸ばす。
「……誰だ?」
返事はない。風も止まった。
雪が薄く割れ、下の土が蠢く。
背筋に寒気が走る。
踏み出した瞬間――
ガッ。
冷たい何かが、足首を掴んだ。
「ッ……!?」
驚愕に息を呑む間もなく、地面から“それ”が現れる。
白く乾いた骨。人の形を保ちながらも、空洞の眼窩がこちらを見ていた。
骨が軋む音とともに、土の中から半身を起こす。
骸骨兵――それは戦場の残骸が魔力に反応して動き出した、“戦死者のなれの果て”。
「っ……くそ、どうしてこんな場所に……!」
抜いた剣を振るう。
刃は骨を叩き割るが、乾いた音と共に砕け散った腕が、再びつながる。
光を宿さぬ眼窩が、どこか笑っているように見えた。
背後の地面が、次々と盛り上がる。
――ひとつ、ふたつ、みっつ。
骨が、腕が、頭蓋が、這い出してくる。
まるで、地そのものが不死者の巣と化したように。
「報告を……っ、報告を上げないと……!」
足元の骸骨を蹴り、砦の階段へ駆け出す。
心臓が喉の奥で跳ねる。
胸の中で高鳴る鼓動と、背後で鳴る骨の音が混ざる。
――カタカタカタ……。
振り返ると、闇の中に、いくつもの光る眼窩が並んでいた。
人の形をした、かつての兵士たち。
彼の仲間かもしれない。
彼らは何も言わず、ただ静かに歩み寄ってくる。
「……っ、魔王軍防衛隊アステリエ第三砦より緊急――!」
叫びながら、報告用の魔導通信石を取り出す。
光が一瞬、灯る。
その瞬間、背後から骨の腕が伸び、口を塞いだ。
呻く声が夜に飲まれ、魔導石が地面に落ちる。
淡い光が雪に沈み、音もなく消えた。
アステリエの防衛砦は、再び静寂に包まれた。
――――――――――――――――――――――――
セレヴィアは机に手をついたまま動かなかった。
書類の端がわずかに震えている。力を入れすぎていることに気づき、ゆっくりと指を離す。
報告書は一通の魔導通信石とともに、夜明けと同時に届けられた。
――アステリエ北端防衛砦、壊滅。
生存者なし。敵性体の正体は“死霊”。
乾いた音を立てて、報告書が机に落ちた。
セレヴィアは目を閉じ、浅く息を吐く。
「……また、ですか」
声の主は傍らに控える補佐官。
セレヴィアは返事をせず、窓の外を見やった。
王都ノクタリアの空は曇天。陽光は弱く、街の輪郭が薄く霞んで見える。
まるで大陸全体が、静かに病んでいくようだった。
最近、似たような報告が続いている。
夜間の襲撃、砦単位での壊滅、残留魔力は闇属性――人間側のものではない。
転移の痕跡も、神聖魔法の残響もない。
つまり、これは内側からの崩壊。
魔族自身の魔力が混じっている。
それが何より、彼女を苛立たせた。
「……死霊系、ですって?」
小さく呟き、瞳を細める。
その声音には怒りというより、冷え切った確信の色があった。
死霊。
生と死の境を踏み越える禁忌の魔法。
六年前、戦争のさなかに姿を消したあの者を除いて、
そんな術を扱える者はいない。
セレヴィアは椅子の背にもたれ、こめかみに指を当てた。
眠れぬ夜が続いている。
責務は山のように積み上がり、心はわずかに削れていく。
それでも立ち止まるわけにはいかない。
――この国を守るために。あの子を守るために。
「……幻狐を呼んで」
補佐官が頷き、姿を消す。
間もなく、廊下の奥から軽い足音が近づいてきた。
「お呼ですか、魔王代理殿。朝っぱらから珍しいなぁ」
現れたのは、六魔柱の一人――シオン・イナリガミ。
飄々とした声。
狐耳を立て、いつもの飄々とした笑みを浮かべている。
まるで緊張という言葉とは無縁な男だ。
「アステリエ防衛砦がやられたわ。死霊系の魔物によって」
「ほぉん……それはまた趣味の悪い相手やな」
シオンは扇子を広げ、鼻先を軽く撫でる。
「人間の仕業じゃないんやろ?」
「ええ。魔力残留を確認した。内部のもの――恐らく、ね」
「へぇ……そりゃ穏やかやないなぁ」
シオンは扇子で頬を軽くあおぐ。
表情は変わらないが、瞳の奥がわずかに細まった。
「人間の仕業やないっちゅうことは、内部犯行……っちゅう話やな?」
「ええ。誰がどう動いているのかを突き止めて。
特に北方――ドラヴァル方面からの動きを重点的に見てほしい」
セレヴィアの声は硬く、冷ややかだった。
感情を押し殺し、思考だけが研ぎ澄まされていく。
沈黙が一瞬流れ、机上の蝋燭がぱちりと音を立てた。
セレヴィアは即答した。
「必要なら、戻らなくてもいい。ただ真実を掴んで」
しばらくの沈黙の後、シオンは小さく笑った。
「……まったく。あんた、ほんまに人使いの荒い魔王代理様やな」
そう言い残し、術式の霧をまとって姿を消す。
セレヴィアは再び机に目を落とす。
報告書の末尾に滲んだ、黒いインクの染み。
――それは、報告者の血だった。
雪を含んだ風がカーテンを揺らした。
この冷たい空の下で、何かが蠢いている。
それを悟りながらも、彼女は姿勢を正した。
「……フィリシアを、魔王城に常駐させましょう。防衛線の再構築を」
補佐官が頷き、急ぎ足で出ていく。
静まり返った執務室に、セレヴィアの独白だけが落ちた。
「戦争は終わっていない……そういうことね」




