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12.胸に残るこの思いは


 窓から吹き込む風が、レースのカーテンをふわりと揺らした。

 花の匂いを含んだその風が、頬を撫でるたびに、胸の奥がくすぐったくなる。


 フィオレッタ・ガンベルクは、自室の机に腰を下ろし、掌の上で銀のペンダントを弄んでいた。

 けれど、その手はじっとしていられなかった。

 何もしていなくても、心が落ち着かない。

 ふと気づくと、口元が自然に笑みを形づくっている。


 (まったく、どうしてわたくしは……)


 呆れたように小さく息をつくが、その声にはどこか甘い響きがあった。

 頭に浮かぶのは、あの小さな少女の顔――リリス。


 初めて出会った日のことが、鮮やかに蘇る。

 空中庭園で見た光景。

 雪のように白い肌、光を映す銀の髪。

 そして、あのときの――かすかな微笑み。


 思い出すだけで、心臓がふわりと跳ねる。

 (あの瞳に見つめられると……どうしてこんなにも嬉しくなるのでしょう)


 胸の奥が、柔らかく熱を帯びていく。

 手のひらの中に花びらを乗せたような、壊したくない温もり。

 それが、あの人の笑顔と重なった。


「……またお会いしたいですわ」

 口にした瞬間、自分でも驚くほど、声が弾んでいた。

 それは祈りのようで、夢のようで。

 まるで心が風に乗って、どこかへ飛んでいくようだった。


 最近は稽古にも集中できない。

 剣を振るっても、刃の軌跡がふと揺らぐ。

 だが、それを恥ずかしいとは思わなかった。

 むしろ、胸の奥があたたかくなる。

 (こんな気持ち、初めてですわ)


 リリスと出会ってから、世界が少し違って見える。

 風はやわらかく、空は明るく、

 訓練場の砂埃さえ、どこか心地よい。


 胸に手を当てると、鼓動が速くなっているのが分かる。

 まるで音楽のように軽やかに跳ねる。

 その音が心地よくて、フィオレッタはそっと笑った。


 思えば、生まれてからずっと“孤独”が当たり前だった。

 名門の娘として、誇りと責任を背負い、誰にも弱みを見せずに生きてきた。

 友人など作ったこともない。


 「……次に会えたら、もう少し自然にお話できるかしら」

 あの日は緊張で言葉がぎこちなかった。

 今度はちゃんと笑顔を見せたい。

 リリスの笑顔を見ていると、まるで自分まで笑顔になるのだから。


 気づけば笑みがこぼれる。

 言葉にならない幸福が胸いっぱいに満ちていく。

 「……わたくし、どうしてこんなに嬉しいのでしょうね」


 自分に問いかけながらも、答えは出ない。

 ただ、心が弾んで仕方なかった。


 そんな時、廊下から控えめな足音が近づくのに気づいた。

「……カノーネ様?」


 六魔柱の一人、"灼鱗"カノーネ・リュドラルが廊下の角に立っていた。

 用事を終えたのだろうが、所在なげに手をもじもじさせている。

 まるで帰り方を忘れたような落ち着きのなさ。


 少し迷ったが、フィオレッタは声をかけた。

 「カノーネ様。もしお時間があれば、少しお話をいたしません?」

 「ひゃっ……!? フィ、フィオレッタさん……! え、ええと、あの、わ、わたしなんかでよければぁ……!」


 部屋に招き入れると、二人はテーブルを挟んで紅茶を飲んだ。

 しばらく沈黙が続く。


 「……あの、カノーネ様」

 「は、はいぃ!? なんでしょうかぁ……!」

 「少し、おかしな話をしても……笑わないでくださいます?」

 「えっ……笑いませんぅ……!」


 フィオレッタは小さく息を整えて、

 「最近、胸がこう……落ち着かなくて。呼吸が早くなったり、頬が熱くなったり。理由もないのに笑ってしまったりするのです」

 と、ぽつりと打ち明けた。


 カノーネは目を丸くして聞いていたが、すぐに手をばたばたと揺らした。

 「け、けけ、けがとかじゃないですよねぇ!? 熱とか!」

 「ええ、風邪ではありませんわ。むしろ……温かい感じなのです」

 「……あったかい……?」


 フィオレッタは視線を伏せ、紅茶の表面を見つめた。

 「誰かを思い出すたびに、胸が――こう、痛くて、嬉しくて……」

 「だ、誰かって……」

 「……リリス様、です」


 カノーネの手が止まった。

 そのまま、沈黙が落ちる。


 数秒、いや数十秒。

 カノーネは何かを考えるように、ゆっくり目を閉じた。

 やがて小さく唸るように呟く。

 「う、うーん……胸が熱くて、会いたくて、思い出すだけで笑っちゃう……」


 「ええ……まさに、そんな感じですわ」

 フィオレッタは真剣にうなずいた。


 カノーネは両手を頬に当て、少し考え込む。

 

「そ、それってぇリリス様にぃ…恋しちゃったてこと…なんじゃあないんですかぁ」


 カノーネの言葉に、フィオレッタの心臓が止まりかけた。

 「こ、恋……?」

 「ご、ごめんなさいぃ……私の意見なんてぇ……忘れてくださぁい……」


 フィオレッタは息を呑み、胸に手を当てた。

 心臓が、まるで喜ぶように跳ねる。

 (恋……これが……恋?)


 体の奥からあたたかいものが広がっていく。

 驚きと同時に、嬉しさがこみ上げた。

 「……恋、ですのね」

 「えーっとそうだと思いますけどぉ。恋って、誰かに会いたいって思う……ことだとぉ……」


 その言葉を聞いた瞬間、フィオレッタの表情がふわりと和らいだ。

 頬の紅潮はもう隠せない。

 けれど、それを恥ずかしいと思わなかった。


 (そう……これが、恋。ならばこの胸の痛みは、幸せの証ですわね)


 「……ありがとうございます、カノーネ様。おかげで少し、すっきりしましたわ」

 「あ、えっと……えへへ……お役に立ててよかったですぅ」

 カノーネは照れくさそうに笑い、頬をかく。


 部屋の外では、春の風が花を散らしている。

 その風に乗って、ふと銀の髪を思い出す。

 (リリス様……)


 心の中で名前を呼ぶだけで、胸の奥が甘く締めつけられる。

 けれどその痛みは、もう悲しくなかった。


 フィオレッタは頬を染めたまま、

 嬉しそうに、ゆっくりと紅茶を口に含んだ。


 

 

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