11.猫耳の来訪
軽く目をこすっていると、部屋の扉が「コン、コン」と控えめに叩かれた。
(あ……ミレーユさんかな)
この時間はだいたい紅茶を持ってきてくれる頃だ。
「どうぞ」と言うと、扉が少しだけ開いた。
そこから、ピンと立った茶色の耳が、そろりと覗いた。
「……あれ?」
リリスは首をかしげた。
入ってきたのは、ミレーユではなかった。
柔らかいミルクティー色の髪に、ふさふさの尻尾。
見覚えのある、あの猫耳のメイドさんだった。
「お、おはようございます、リリス様っ!」
元気な声。けれど、どこか空回りしている。
背筋を伸ばそうとするたびにトレイの上のティーポットがぐらりと揺れ、
彼女自身の尻尾も同じようにピコピコ揺れていた。
「ミレーユさんは……?」
リリスが尋ねると、猫耳メイドさんはぴょこっと耳を動かした。
「せ、先輩は今日は“片付け”があるそうでしてっ! 代わりにキャ……じゃなくて、わ、私がまいりましたニャ!」
慌てて敬礼のような仕草をして、ティーポットを危うく落としかける。
(……片付け? なんのだろう……)
リリスは首を傾げたが、深く考えないことにした。
猫耳さんはというと、緊張で肩が固まっている。
リリスの前に立つのも怖いらしく、足元で小刻みに爪先を動かしていた。
「そ、その……お、お茶をお持ちしましたっ!」
トレイを持ち上げると、カップがカタカタと鳴った。
リリスは思わず微笑んだ。
「ありがとう、ございます。」
「は、はいっ! よ、喜んでっ!」
――ガタン。
「にゃあっ!?」
次の瞬間、ティーカップが揺れ、少しだけ紅茶がこぼれた。
彼女は慌てて布巾を取り出し、床に膝をついて拭き始める。
耳がぴたんと伏せて、尻尾が項垂れるように垂れ下がった。
「ご、ごめんなさいリリス様! わ、わたしまた……っ!」
「だ、だいじょぶ?」
リリスは笑って手を振る。
猫耳さんは一瞬、驚いたように顔を上げた。
「えっ……怒らないんですか……?」
「おこらないよ。ぼくは…なにも、できないし」
その言葉を慰めと受け取ったのか、彼女の耳がぴくりと動いた。
尻尾が小さく揺れて、頬にうっすらと赤みが差す。
「……リリス様、や、優しいんですね……」
「そ、そんなこと、ないよ……」
リリスは少し照れながら笑った。
猫耳さんは床を拭き終えると、立ち上がってもう一度頭を下げた。
「本当にすみませんっ。でも、リリス様のために、が、頑張りますニャ!」
言いながら、耳がぴんと立ち、尻尾がふわふわと嬉しそうに揺れる。
そうだ姉様の役に立つために、まずは身近な人から聞いてみよう。
「こっち、すわってください。お話、しましょう」
「えっ!? り、リリス様と……お話、ですか!? ひゃっ……は、はいニャっ!」
(そういえば……)
リリスは小さく首をかしげた。
「ねえ、ねこみみさん」
「は、はいニャっ!?」
急に呼ばれて、彼女の耳がぴょこんと跳ねた。
「たまにきてくれるけど……おなまえきいて…ませんでした」
「わ、わたしの……名前、ですかニャ!?」
彼女の瞳が一瞬まん丸になる。
尻尾がびゅんっと動いて、椅子の脚に当たって“コン”と音を立てた。
「あぅっ! い、痛いニャ……っ!」
リリスは思わず笑ってしまった。
「ご、ごめん、なさい。だいじょうぶ?」
「い、いえいえっ! そ、そんな……リリス様に名前を聞いてもらえるなんて……!」
顔を真っ赤にして、猫耳がぴくぴく震える。
「キャロル、ですニャ!」
「キャロルさん……」
リリスはゆっくりとその名前を繰り返した。
小さくて、明るくて、少し跳ねるような響き。
「かわいいなまえですね」
「……そ、そんなこと言われたの初めてニャ!」
キャロルはしっぽを大きく揺らし、目を輝かせた。
リリスはふっと微笑んで、カップを口元に運ぶ。
「キャロルさん。よろしく……おねがいします」
「も、もちろんですニャ! リリス様のためなら、キャロル全力で頑張りますニャ!」
「キャロルさん。まほう、つかえますか?」
「ま、魔法ですかニャ!? えっと……」
両手を胸の前でバタバタさせながら、彼女は困った顔をした。
「使えないニャ…適正がどの属性もニャくて」
リリスは少し考えてから、もう一つ質問をした。
「ぶきは? つかえますか?」
「武器……ニャ?」
今度はキャロルが少しだけ考える顔をした。
「弓なら、ちょっとだけなら使えるかもしれないニャ。もう、ずっと触ってないけど……」
リリスは目を丸くした。
「ゆみ!……かっこいいです」
リリスが微笑むと、彼女は慌てて耳を立て直す。
「い、いえいえ! 全然すごくないですニャ! もう最近は全然触ってないし、腕も鈍ってると思うニャ!」
「すごい、です。ぼくはなにも、できないから…」
「そ、そんなことないニャ! リリス様はきっと、やればできるタイプですニャ!」
けれどキャロルは、ふと首をかしげた。
「でも……どうして、そんなこと聞くんですニャ? リリス様が魔法とか武器に興味あるなんて、ちょっと意外ニャ」
リリスは一瞬、言葉に詰まった。
けれど、隠す理由もなかった。
少しうつむいて、小さな声で言う。
「……ねえさまの、おやくに……たちたいからです」
キャロルの耳がぴくりと動いた。
「セレヴィア様の……お役に?」
リリスはこくんと頷いた。
「いつも、ねえさまががんばってるのに、僕……なにも、できないから……」
「……リリス様」
キャロルは一度目を伏せ、少しの間だけ黙り込んだ。
そして顔を上げると、いつもの柔らかい笑顔ではなく、
どこか静かで、まっすぐな表情をしていた。
「リリス様……」
「……?」
「強くなることだけが、人の役に立つことじゃないニャ」
その言葉はやさしくて、それでいて芯が通っていた。
リリスは思わずまばたきをする。
キャロルは少し照れたように笑いながら、続けた。
「人には、向き不向きってあるんですニャ。剣が得意な人もいれば、笑顔で誰かを元気にできる人もいる。リリス様がそばにいるだけで、セレヴィア様は頑張れると思うんですニャ」
「……ぼくが?」
「そうですニャ。だって、リリス様って……なんだか見てるだけで、心がぽかぽかするんですニャ」
キャロルは胸の前で手をぎゅっと握りしめて、まっすぐ言った。
「セレヴィア様があんなに強いのは、きっとリリス様がいるからニャ。リリス様という“癒し”があるから、セレヴィア様は戦えるんですニャ」
その言葉は、不思議なくらいまっすぐにリリスの胸へ届いた。
リリスは視線を落とし、そっと自分の手を見つめる。
小さくて、震えるほど弱い手。
でも、何かを支えられるのなら――それも立派な力なのかもしれない。
「……キャロルさん、すごいです」
「えっ!? な、なにがニャ!?」
「かっこよかったです」
「か、かっこ……!? そ、そんな! わ、わたしなんかがぁ〜〜!」
キャロルは真っ赤になって、尻尾をばたばたさせた。
その様子に、リリスは思わず笑ってしまう。
胸の奥にあったもやもやが、少しだけ晴れていく気がした。
「……ありがとう、ございます。キャロルさん」
「えっ?」
「げんきでました」
「にゃ、にゃふっ……! そ、それなら良かったですニャ!」
キャロルは嬉しそうに笑い、耳と尻尾を揺らした。
――強さだけが、支えじゃない。
その言葉が、リリスの心の奥に刻まれていた。
部屋の中は紅茶の香りと笑い声で満たされていた。
ふと、リリスは気づく。
このキャロルさん――不器用だけど、とても優しい人なのだと。
お昼前頃。
部屋の中には、ほんのりと甘い香りが漂っていた。
リリスはベッドの上で、ぼんやりと窓の外を見ていた。
(……やっぱり、ねえさまの役に立ちたいな)
朝にキャロルと話した「強さだけが全てじゃない」という言葉が、まだ心の中でくすぶっている。
あの言葉に救われたけれど、それでも何かしたい――その気持ちは消えてくれなかった。
コンコン、と扉が軽く叩かれた。
「どうぞ……」と答えると、勢いよく扉が開いた。
「リリス様ー!失礼しますニャーッ!」
明るい声と共に入ってきたのは、猫耳メイド――キャロルだった。
尻尾をぴんと立てて、満面の笑みを浮かべている。
「きゃ、キャロルさん? どうしたんですか?」
「リリス様のために、作戦を考えてきましたニャ!」
「……さくせん?」
「そうですニャ! セレヴィア様を癒して、元気にさせてあげる作戦ですニャ!」
その言葉に、リリスは目を瞬かせた。
「……ぼくが、ねえさまを……いやす……?」
「そうですニャ!」
キャロルの耳がピンと立った。
「癒しかた、わかんないです……」
リリスは頬に手を当てて考えこむ。
(癒しって、魔法みたいに使えるものじゃないし……)
キャロルは胸を張って、力強くうなずいた。
「朝に言ってたじゃないですかニャ。セレヴィア様を癒してあげたいって! だったら、“癒しの力”を研究しちゃえばいいんですニャ!」
「け、研究……?」
リリスは小さく首をかしげる。
「はいニャ! リリス様が“癒される”って思う人の真似をしてみたらどうですかニャ? きっと何かヒントになるはずですニャ!」
「癒される人……」
リリスは考え込んだ。
「えっと……フィオは……かわいいって感じです。癒しというより……げんき…な感じ」
「なるほどニャ!」
「ミレーユさんはやさしいけど、癒しって感じではないかも……いつもかんぺきで、ちょっときんちょうしちゃいます」
「ふむふむ……確かに先輩はちょっと……すごすぎますニャ」
リリスはしばらく考えてから、そっとキャロルを見た。
「……となると、キャロルさんが癒し系ですね」
「えっ!? わ、わたしですかニャっ!?」
キャロルの耳がぶわっと立ち、尻尾が膨らんだ。
「そ、そんなこと言われたの初めてニャあっ! だ、だってわたし、しょっちゅう失敗してばっかりで!」
「キャロルさんとはなしてると、たのしいです」
リリスがにこりと笑うと、キャロルは顔を真っ赤にして口をぱくぱくさせた。
「に、にゃにゃにゃにゃ……!」
「ふふっ、キャロルさん?」
「はっ! は、はいニャっ!」
「キャロルさんが癒しの……みほんです」
「……!!」
キャロルの瞳がキラキラ光った。
尻尾がふわふわと揺れて、顔がみるみるうちに赤くなる。
「り、リリス様……! い、今の……嬉しすぎて……心がふわって飛びそうですニャ!」
リリスは思わずくすっと笑った。
「リリス様……っ!」
「はい」
「よ、よしっ! わたし……いえ、キャロル! リリス様のために人肌脱ぎますニャーッ!!」
「な、なにをするん、ですかっ!?」
「ふふふ、見ててくださいニャ! 癒しの極意、必ずお見せしますニャ!」
キャロルはそう言って勢いよく部屋を飛び出した。
尻尾がドアに挟まりかけ、「にゃっ!?」と短い悲鳴が聞こえる。
「だ、大丈夫ですニャっ!」と元気な声が続き、すぐに足音が遠ざかっていった。
リリスは呆然と扉を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「……なにを、するのかな?……」
そう呟きながら、リリスは湯気の立つカップを見つめた。
紅茶の表面に映る自分の顔が、少し笑っている。
(キャロルさん、なんか元気だなぁ……)
そう思いながら、リリスはそっと目を細める。
部屋の中に残る笑い声の余韻が、ほんの少し心を軽くした。
外では、小鳥の鳴き声が遠くから聞こえてくる。
リリスの知らないところで、
猫耳メイドは“癒しの極意”とやらの準備に燃えていた――。
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夜の冷たさが、まだ心に残っていた。
ミレーユは、ゆっくりと手を洗っていた。
白い指先についた血は、もう跡形もない。
けれど、水に映る自分の姿は、どこか遠い他人のように見えた。
――「片付け」。
そう呼ばれる任務を終えるたびに、胸の奥が静かに痛む。
死体の処理には慣れている。だが、それが「洗脳された者」と知っていると、
どんなに冷静に動いても、痛みは消えなかった。
彼らは、クラリス聖教会の“勇者”たち。
神の名のもとに造られ、命を軽んじられた哀れな兵器。
セレヴィア様は、その全てをわかっている。
そして、それでも――守るために、剣を振るう。
ミレーユは夜明け前の廊下で、セレヴィアとすれ違った。
氷の瞳は静かに揺れ、けれど口元には微かな微笑。
「……お願い、ミレーユ。いつものように、頼むわ」
その言葉の奥にある痛みを、ミレーユは知っている。
その笑顔が、ただの仮面であることも。
“守るための殺し”。
“平和のための戦い”。
どれほど美しい言葉で飾っても、それは矛盾だった。
――戦争なんて、ない方がいいのに。
心の中で呟いたその言葉は、誰にも届かず霧散する。
ミレーユは鏡の前で姿勢を正した。
表情を整え、メイドとしての顔を作る。
けれどその奥では、まだ沈殿した重たい感情が消えてくれない。
(……いけません。こんな顔では、リリス様が心配なさってしまう)
リリス。
あの小さな姫君の存在だけが、今の魔王城に残された“安らぎ”だ。
純粋で、まっすぐで、誰も傷つけようとしない。
――あの方が笑っているだけで、少し世界が優しくなる気がする。
だが今朝は、別の誰かに任せてしまった。
「キャロル……」
名前を呟くと、思わず小さくため息がこぼれた。
(少し……いや、かなり心配です。リリス様に何か失礼をしていなければ良いのですが)
ドジ、そそっかしい、空回り。
ミレーユの頭に浮かぶキャロルの印象は、だいたいそんなところだった。
けれど悪気はないし、根は本当に真面目な子だ。
(せめて……お茶をこぼしていないことを祈りましょう)
気持ちを切り替えるように、ミレーユは静かに廊下を歩いた。
そして、リリスの部屋の前で立ち止まり、軽くノックをする。
「リリス様、ミレーユでございます。お加減はいかが――」
そのまま扉を開けた。
――次の瞬間。
「….み、ミレーユさん…!?」
部屋の中央で――リリスがくるりと振り向いた。
小さな体にミニサイズの黒いメイド服。
ふわふわの猫耳カチューシャが頭に乗って、
頬をほんのり赤らめながら、もじもじと指を絡ませている。
「……にゃ、にゃーん……?」
恥ずかしそうに目を伏せながら、か細い声で答えた。
時間が止まった。
ミレーユの瞳が見開かれる。
その表情のまま、動かない。
白い頬が、わずかに紅潮して――。
「ミ、ミレーユさんっ!? ど、どうしました!?」
リリスが慌てて駆け寄る。
だが、ミレーユは答える前に、
そのまま床に、ぱたりと倒れた。
「ミレーユさん!? ミレーユさんーっ!!」
リリスが必死に揺すぶる。
「き、キャロルさんっ!! ミレーユさんがたおれちゃいましたっ!!」
「えっ!? にゃ、にゃにゃにゃっ!? にゃんで!? え、えぇーっ!?」
キャロルはパニックになり、耳をぱたぱたと動かす。
リリスは慌ててミレーユの頭を支えながら、涙目で叫んだ。
――こうして、“癒し作戦”は見事に(?)幕を閉じた。




