9.姉と妹の時間
ミレーユの腕の中から、そっと降ろされる。
ベッドの柔らかい感触が背に伝わり、ふわりと身体が沈み込んだ。
そのまま、ミレーユが毛布を整えてくれる。
「お疲れ様でした、リリス様。少しお休みになってくださいませ」
「うん……ありがと、ミレーユさん」
自分でも驚くほど、声が掠れていた。
けれど、ミレーユは穏やかに微笑んで首を振る。
「少しでもお顔の色が良くなって、何よりです」
部屋の中は、薄い香草の匂いに包まれている。
外の寒気を遮るために焚かれた香が、優しく肺を撫でるようだった。
そのとき――
コン、コン。
扉が二度、静かに叩かれた。
入ってきたのは、銀の髪をなびかせた少女――セレヴィアだった。
「……ねえさま……」
小さな声でそう呼んだ途端、セレヴィアの表情がぱっとほころぶ。
「リリス……!」
あっという間に距離を詰め、ベッドの端に腰を下ろす。
セレヴィアはまるで長年会えなかった恋人に再会したかのように、リリスの手を包み込み、その小さな指をそっと撫でた。
「もう……本当に、会いたかったのよ……!グロズがいる前だから我慢してたけど、ほんとは今すぐ抱きしめたかったの!」
「えへ……」
リリスは照れ笑いを浮かべた。
顔をそらしながら、手の中の温もりが心地よくてたまらない。
(……ほんとに感情がわかりやすいな……)
そんな冷静な思考をしながらも、胸の奥では嬉しさがじんわり広がっていた。
「今日もおしごとですか?」
「ええ。会議があってね。……もう、疲れたわ。」
セレヴィアが頬を押さえてため息をつく。
その仕草が妙に可愛らしくて、リリスは小さく笑った。
「ねえさま、がんばりすぎです……」
言いながら、セレヴィアはベッドの上に身を乗り出した。
リリスの頬に自分の額をすり寄せ、まるで子猫のようにぴとっとくっつく。
「んぅ……ねえさま……?」
「んふふ……ちょっとだけ、こうしててもいい?」
銀の髪が頬に触れて、くすぐったい。
リリスは少し体を固くしながらも、拒むことはできなかった。
(……ねえさま、また子供みたいになってる……)
けれど、心は不思議と穏やかだった。
セレヴィアの魔力の流れが、肌を通じて伝わってくる。
暖かくて、やさしくて――まるで春の日差しみたい。
「リリスの手……小さい……かわいい……」
「え、えへへ……そんなに見ないでください……」
「だって、今のうちに堪能しておかないと」
「たんのうって……」
「だって……大きくなったら、抱っこもできなくなるでしょ?」
「だ、だっこは……もう、いいです……っ」
「ダメ。ねえさまの特権なんだから」
セレヴィアはそう言って、リリスの頭を優しく撫でる。
指先が髪をすくたびに、微かな魔力が伝わって心が温かくなる。
(……ああ、やっぱり。
この人のそばにいると、安心する。
でも同時に、何かを思い出しそうになる――)
セレヴィアがゆっくりと顔を上げる。
「ねぇ、リリス」
「はい……?」
「いつか、あなたにもお城の外を見せてあげたいの。空の青さも、風の匂いも……きっと、あなたに似合うわ」
その声は、まるで祈るように静かだった。
リリスはうつむいて、小さく頷く。
「……いっしょに、いきたいです」
セレヴィアの瞳がきらりと揺れる。
「ええ、必ず」
その約束の言葉を残して、彼女は微笑んだ。
その笑顔を見ているだけで、心がふわりと温かくなっていく。
外では、風が静かに窓を叩いていた。
――まるで、姉妹の時間をそっと見守るように。
―――――――――――――――――――――――――――
セレヴィアがリリスの髪を梳くたび、指先から魔力の温もりが伝わってくる。
その柔らかな感触に、リリスは目を細めて、ベッドの上で小さく体を丸めた。
「ふふ……そんなに気持ちいいの?」
「……ん、ねむくなって…きました……」
舌ったらずな声が漏れる。
自分でも思わず笑ってしまいそうになるほど、間延びした甘い声。
セレヴィアはそんなリリスを見つめ、頬に手を添えた。
「今日はいっぱい頑張ったんでしょ?」
「うん……フィオっていう……おともだちができました」
「まぁ……リリスにお友達が?」
嬉しそうに目を細める姉に、リリスは小さくうなずいた。
「やさしくて……すこしおしゃべりで…」
「ふふ、フィオね。覚えておくわ。リリスのお友達、ね?」
セレヴィアの声音は、まるで宝物を聞いたかのように柔らかかった。
リリスは布団をぎゅっと握りしめながら続ける。
「……おそとにでました。そらが、ひろくて……はながいっぱいで……
ふわふわしてて、きれいで……」
話すうちに、まぶたがゆっくりと重くなっていく。
(……ああ、ダメだ……眠い……)
言葉を続けようとしても、舌が上手く回らない。
「……はな、ね、すごく……きれいで……」
「うん、綺麗だったのね」
セレヴィアの声が子守唄のように穏やかに響く。
やがて、リリスの頭がぽすりとセレヴィアの膝に乗った。
セレヴィアは微笑み、ゆっくりとその髪を撫でる。
「ねえさま……」
「なあに?」
「……ねえさま、いっちゃう……?」
その言葉に、セレヴィアの手が一瞬止まる。
小さな指が、彼女の服の裾をぎゅっと掴んでいた。
細く、弱々しいその手。けれど、離すまいとする力だけはしっかりしている。
「……リリス」
「やだ……いっちゃやです……」
掠れた声。目は閉じかけているのに、必死に訴えるような表情。
セレヴィアは胸の奥が締めつけられるように痛んだ。
静かにその小さな手を包み込むと、微笑を浮かべた。
「……大丈夫。今日は、どこにも行かないわ」
「……ほんと?」
「ええ。本当よ。今日はね、一緒に眠るの」
リリスの瞳がうっすら開き、安心したように潤む。
「……ねえさまと……いっしょ……」
「そう。だから安心して、おやすみなさい」
セレヴィアはそっと体を横たえ、リリスの隣に寝そべった。
小さな体を抱き寄せ、ゆっくりとその額に唇を落とす。
リリスは嬉しそうに小さく息を漏らした。
(……子供みたいだな、僕……)
そう思いながらも、姉の温もりがあまりに心地よくて――もう、抗えなかった。
「……ねえさま……おやすみ……」
「ええ。おやすみなさい、リリス」
リリスの呼吸が穏やかになり、静かな寝息が重なっていく。
部屋の灯りがゆっくりと落ち、カーテンの隙間から月光が差し込んだ。
その光の中で、二人の銀髪が淡く溶け合い、まるでひとつの光の繭のように輝いていた。
――それは、長い夜を包み込むような、静かな安らぎの時間だった。
―――――――――――――――――――――――――
月が、静かに城の塔を照らしていた。
銀の光がカーテンの隙間から差し込み、リリスの頬を淡く染めている。リリスの穏やかな寝息を確かめ、セレヴィアはゆっくりと身を起こした。
呼吸のひとつすら、音にしてはいけない気がした。
毛布の端を整え、指先で小さな髪の房をすくう。
すでに、気づいていた。
――数刻前から、魔王城の外縁に微かな“光の揺らぎ”がある。
侵入者。
この結界を越えてまで来るとは、ずいぶんと大胆な真似だ。
床の冷たさが足裏を伝い、現実へと意識を引き戻した。
外では、雪に似た光が薄く揺れている。
それが何の光なのか――セレヴィアは既に理解していた。
扉に手をかける。
金具がわずかに鳴る音さえ、リリスを起こしてしまいそうで怖かった。
細く開いた隙間から、ひんやりとした空気が流れ込む。
その冷たさに混じって、聖属性の魔力の残滓――人間のものだ。
廊下の灯りが揺れる。
空気が焼けるような匂い。聖属性の魔力――クラリス聖教会のもの。
「……舐められたものね」
吐き捨てるように呟き、静かに歩を進める。
(侵入者は一人。だが、まるで生きた気配がない……)
セレヴィアはそっと廊下へ出る。
長い回廊は薄暗く、夜灯の青白い光が絹のように壁を撫でていた。
静寂が深く、靴音が吸い込まれて消えていく。
遠くから、かすかな金属音――規則正しい、それでいて妙に不協和な響き。
それが“歩く”というより“進む”音であることに気づき、彼女は目を細めた。
城の防衛結界は突破されていた。
人間の聖具を用いれば、短時間だけ闇属性の結界を掻き消せる。
それをここまで精密に使いこなす者――
クラリス聖教会の人造勇者以外にはあり得ない。
セレヴィアの指が、無意識に胸元の紋章へと触れる。
冷たい金属が指先に当たるたび、過去の残響が脳裏に滲んだ。
――六年前。父が消えた日。
そのとき空を裂いた“光”と、今の気配は同質だった。
廊下を進むたび、空気が変わっていく。
静けさが濃くなり、世界が息を潜める。
壁に掛けられた燭台の火がゆらりと揺れ、青白い影が床を這う。
ひとつ、またひとつと灯が消えていく。
まるで夜そのものが、セレヴィアの後を追うようだった。
(リリスを起こすわけにはいかない)
決意を固めるほどに、背中の温度が冷えていく。
“守る者”であることは、“孤独を選ぶ者”であるということ。
その重さを、セレヴィアは知りすぎていた。
やがて、回廊の先――
白い光が、視界の端に現れた。
ただの灯ではない。
光が“漂っている”。
粒子が生き物のように呼吸し、空間の歪みを形にしている。
セレヴィアは足を止め、薄く息を吐いた。
その瞬間、音もなく、誰かの笑い声がした。
ひとつ、ふたつ。
最初はかすかで、遠い。
だが次第に近づいてくる。
乾いた笑い。掠れた息。高く、甲高く、祈りのように続く。
廊下の奥、光の中に人影が浮かんだ。
白銀の鎧、額に焼きついた聖印。
「アッハハハハ、アアア」
その少年は、微動だにせず笑っていた。
目は開かれているのに、どこも見ていない。
その笑みは、歓喜か、狂気か、祈りか――判別できなかった。
セレヴィアは立ち止まり、視線を合わせた。
冷たい石の床に、二人の影が細く伸びる。
月光がわずかに差し込み、勇者の鎧が淡く光った。
笑いは止まらない。
勇者の肩が震え、口角がひきつる。
そして、あの甲高い笑いが再び回廊を満たした。
祈りと狂気が混じった音。
セレヴィアは瞳を細めた。
風が流れ、灯がひとつ消えた。
夜の冷気が、二人の間をゆっくりと切り裂いていく。
廊下に、また笑い声が響いた。
それは声というより、壊れた祈りだった。
勇者の唇が微かに動き、音にならぬ言葉を吐く。
「……ァ……ル……ス……」
意味はない。だが、その無意味こそが痛ましかった。
セレヴィアは静かに息を吐く。
「言葉にならないのね。もう、人間としての声を忘れたのかしら」
答えはなかった。勇者の笑いがさらに高くなる。
風が止まる。
空気がぴんと張り詰め、セレヴィアの周囲の闇が、ゆっくりと揺らめく。
虚空に伸ばした指先から、黒が滲み出た。
形を得たそれは、静かに音を立ててひとつの剣となる。
――ノクターン。
闇を喰らい、血を映す継承の剣。
呼吸を合わせるように、刃が微かに震える。
勇者が笑いながら、一歩踏み出した。
鎧の隙間から光が漏れ、まるで聖火のように彼の体を包む。
祈りの言葉が、かすれた喉を通して溢れる。
「……光……あれ……神の……」
その瞬間、床に冷気が走った。
セレヴィアの視線が一度だけわずかに動く。
次の瞬間、勇者の足元から氷が一気に伸び上がった。
白い蔦のように絡みつき、足を、膝を、腰を封じていく。
音もなく、空気が凍る。
セレヴィアは無言で一歩近づく。
その姿はまるで舞う影。
黒剣が軋み、刃がわずかに赤い光を宿す。
「神に祈る暇があるなら――」
囁く声が、夜気を切った。
「少しは、自分の命を見てほしかった」
黒い閃光が走る。
音も、叫びもなかった。
次の瞬間には、勇者の身体が傾き、首が宙を描いて落ちた。
氷の上で砕けた音が、鈍く響く。
赤い水が、床の模様に沿って静かに広がる。
白い石が、血を吸って色を変えていく。
セレヴィアは刃を下ろし、何も言わずに立ち尽くした。
「……これで、何人目かしら」
呟きが空気に溶ける。
数えるのも、もうやめた。
毎回違う顔、違う名前。だが瞳の奥は皆、同じ色をしていた。
“信仰”という名の空洞。
彼らは神に導かれたのではない。
ただ、神の名で壊されただけ。
命を与えられ、命を捨てるように造られた――哀れな道具。
セレヴィアは血の匂いをかすかに感じ取りながら、
壁にかかった燭台へ視線を向けた。
炎が揺れ、光が床に落ちる。
その光は赤を帯び、血を照らしているのか、それとも涙を照らしているのか。
「戦争なんて……虚しいだけ」
自嘲のような笑みが漏れる。
勝者も敗者も、結局は同じ泥の上に立っている。
奪うか、守るか。その違いだけで人は簡単に神を名乗る。
床に残った勇者の聖印が、淡く光っていた。
彼の体が消えた後も、印だけはまるで神の名残のように残る。
セレヴィアはそれをしばらく見つめ、やがて踵を返した。
ただ、疲れ切った静かな諦めだけがあった。
再び寝室の扉の前に立つ。
中からは、リリスの穏やかな寝息。
その音だけが、この城に残された唯一の温もりだった。
セレヴィアは扉に背を預け、目を閉じる。
月明かりが、彼女の銀髪を照らしていた。
静かな夜――だがその静けさの裏に、
終わらぬ戦争の影が、確かに息づいていた。




