8話 大人の味
月見里さんは俺にビンタをした後、肩よりも長く、艶のある黒髪を揺らしながら、スタスタと部屋に戻って行った。
先程までの殺伐とした空気は無くなり、2人の女の子の残り香だけが残る。
「雛実ちゃんには勘違いされちゃったけど、悪くない日だったな」
俺は熱くなる頬を撫でながら、質の良い睡眠を取ることができた。
頬にできた手のひらの跡が消えてから、数日後。大学から帰ると部屋の前に人影が見えた。雛実ちゃんかな?とウキウキで階段を上がると、明らかに雛実ちゃんではない。
「部屋に居ないのかな。確認のために、ドア壊してみようかな。あ、今帰ってきたんだね」
この巨体の男性は、月見里さんに紹介してもらった3階に住む鬼塚さんだ。ついに殺されるのかと覚悟をしていると『今夜、暇かな?』と、女の子に言われれば嬉しいことを言ってくる。
「今まさに暇じゃなくなりまして…」
「よかった。なら、今から付き合ってほしいところがあるんだ」
何が『よかった』なのだろうか。俺はそのまま鬼塚さんの車に乗せられ、路地にあるスナックに連れていかれた。
「あら、薫さんお久しぶりですね。後ろの子は?」
鬼塚さんはここに来たことがあるのか、スナックのママと挨拶をする。未だに、鬼塚さんの下の名前が『薫』なのがしっくり来ない。
俺が自己紹介を終えると、鬼塚さんは同じアパートに住んでいることを加えた。
すると、白色の長髪で着物を着た古風なスナックのママは、丁寧に自己紹介をする。
「わたくし、霜月雪那と申します。そして、同じアパートの住人でございます」
おぉ、あのアパートにこんなまともそうな人がいるなんて。
「確か雪那さん…の下の部屋が幽太君だね」
「え、じゃああの子どもの声とか足音って」
雪那さんは少し眉をひそめると、お手本のような謝罪をする。
「瀬下さんすみません。実はわたくし2人の子どもいまして、強く言ってはいるのですが…わたくしが今のように仕事をしている時は、はしゃいでしまってるようですね」
ここまで深々と頭を下げられると、逆にこちらが謝りたくなってしまう。
「いえいえっ!おかげさまでいつも賑やかで、笑顔貰ってますので!」
「…そう言っていただけると幸いです」
雪那さんは言い終えると『立ち話もなんですし、飲み物はいかがです?サービスしますので』と、スナックのママに戻る。
「薫さんはいつものプロテインですよね。瀬下さんは、何になさいますか?」
頼んだハイボールと鬼塚さんのプロテインのグラスを鳴らし、小気味の良い音を響かせた。
同じアパートということもあり、意外にも雪那さんとの話が弾む。だが、鬼塚さんは少し気まずそうだ。
「鬼塚さんちょっとタバコ行きたいんで、着いてきて貰えませんか?」
「おタバコでしたら、灰皿の用意がありますけど」
外の空気を吸いに行くついでと言い、スナックから一旦席を外した。
「もしかして、鬼塚さん…雪那さんと会話するために俺の事誘いました?」
大きくたじろぐところを見れば、正解なのだろう。
「だって僕、口下手だし。でも、お話はしたいし…幽太君なら、上手いこといくかなって」
その巨体と風貌でモジモジされると、脳がバグを起こす。
「そんな事のために俺の事を…っそんなに筋骨隆々なら、もっと自信もってくださいよ!そんなふうにモジモジしてると筋肉が縮んでいきますよ?」
「うぅ…うるさい口だな」
おっと、キスでもされるのか?このまま俺の口は、こんな大男に容易く塞がれてしまうのだろうか。
「あんなべっぴんさん、僕のことなんて眼中にないに決まってるよ」
ここにまた、悲しきモンスターが生まれてしまった。だがしかし、この境遇俺と同じだ。
そうなると、力を貸さない訳にはいかない。
「本気なんですよね?」
「もちろん本気だよ。でも、僕なんかが…」
「鬼塚さん」
俺の呼び掛けに、鬼塚さんは首を傾げる。
「っ、自分を過小評価するな!」
俺が叫ぶと、鬼塚さんは目をまん丸にする。自分磨きをしているのは、日々騒音によって伝わってくる。
鬼塚さんに足りないのは『自信』ただそれだけだ。
「鬼塚さんの気持ちよく伝わってきました。あとは俺に任せてください。」
「酔いは覚めましたか?」
スナックに戻ると、雪那さんは洗ったグラスの水滴を拭いていた。俺は新たに酒を注文し、雪那さんに世間話の流れで踏み込む。
「雪那さんってとてもお綺麗ですし、声掛けてくる人も多いんじゃないですか?」
「あらあら、お上手ですねっ」
こんな凡夫の言葉だが、雪那さんの声色で喜んでいることが分かる。
こうなればこっちのものだ。
「参考程度にお聞きしたいんですけど、雪那さんみたいな大人の女性ってどういう異性に惹かれるんですか?」
「惹かれる異性ですか…」
雪那さんは顎に手を当て、真剣に考えてくれる。美人は、一つ一つの所作が様になる。
その回答を鬼塚さんと共に、今か今かと待ち構える。
「強いて言うなら…私を最後まで愛してくれる方ですかね」
これは予想外のアンサーだ。鬼塚さんの話もあり、薄々勘づいてはいたが、やはり雪那さんはバツイチというやつなのだろうか。
「っわたくしとしたことが、少々おセンチな回答をしてしまいましたね」
すまない鬼塚さん。俺にはこれ以上踏み込めるほどの鈍感さは持ち合わせていない。
「ぼ、僕は!…一途なタイプ…です…」
鬼塚さん!!あんたって人は!俺なんか要らなかったじゃないですか。
雪那さんは、クスリと笑って見せた。
「ふふっ。でしたら、わたくしの理想は薫さんのような殿方ですねっ」
先程頼んだ、ウイスキーのロックで喉を鳴らす。慣れない苦さを、大人の恋愛の程よい甘みが中和する。
これが大人ってやつか。




