2:人間に備わった最大の防衛機能
いのりの様子がおかしいのは、久遠の目から見ても明らかだった。かぐやのいる図書館塔を冒険してから、ときおりいのりの目に迷いのような色が浮かぶのだ。
それがなんなのか、分かってはいた。だけど久遠は彼女を問いただす気分にはなれなかった。だって彼女が、あんまりにも可哀想に見えたから。その桜色の後ろ毛が、不意に見せる憂いげな流し目が、溌剌な二十代の容姿とは裏腹に、文字通り数万年という幾星霜の色を乱反射していたから。
そうして今日も二人の関係に進展はないまま、この世界は薄氷の上にあるような見せかけの平穏を保ったまま、正午になって雨が上がり、久々の晴れ間を空を広げさせる。
ここ数日見ない、絶好の園芸日和だ。
『あ、花壇のスパティフィラムは株分けしてプランターに植え替えたほうがよさそうですね』
「え、ああ、これ? ええっと……チュパ……」
午後。いのりと一緒に植物園の外の花壇を手入れしながら、久遠は反芻していた。
(わたしが、アルマです)
(この星を墓所で埋め尽くしたのは、わたしです)
あの日の言葉の真意を問いただせないまま、一ヶ月が過ぎてしまっていた。あの日……星を落としたあの日。かぐやから賢者の石を手に入れたことで、いのりが何かを思い出したことは確かだった。でも、それを問いただすだけの勇気が久遠には無い。さっきのいのりの言葉のとおり、今みたいな生活がずっと続けばいいと、思うようになってしまったから。
『スパティフィラムです。植え替えたら、久遠くんの部屋にでも飾るのもいいですね?』
「え、いらない」
『だめ。久遠くんの部屋、物置小屋みたいじゃないですか。もっと彩りがないと』
「だってもともとは、本当に物置部屋」
『文句言わない。丈夫だから、手入れが雑でも清楚な白い花が咲くはずです』
「はあ」
おれたちは、互いに失った記憶を取り戻しつつある。だけどそれを、お互いに隠していて、そのことにもお互い気づいている。隠し事は、きっとお互い様だ。
(……不安なんだ)
久遠は花壇の花をプランターに移し替えながら、思った。
この世界にいるのは、おれと彼女の二人だけ。
その二人の関係が壊れるとしたら、それは世界を二分する戦争と同義なんじゃないかって。
久遠の側に屈んで、生き生きとした目で植え替え作業を見守るいのり。
すぐ横の地面にアルマの太刀が突き刺さり、桜色の液晶霊素をきらきらと撒き散らす。
『花は繰り返します。同じ季節を、月日を、年月を。でもその繰り返しのなかで、やがて流れから独り立ちしていく花もいる。それが面白いんです』
「まあ、それに限らず花や植物は錬金術の基礎みたいなもんだしな」
『知っていますか? 人間の五感で、もっとも記憶に結びついている要素は〝匂い〟だって』
「視覚じゃないんだ」
『そうなんですよ、視覚じゃなくて嗅覚なんです』
ちーちちち、とスズメの鳴き声が聞こえる。
雨は止み、雲が千千にほぐれていき、隙間から青空と陽光が顔を覗かせる。
ぽかぽかとした木漏れ日が二人の背中を舐めた。
「なら、この晴れた雨上がりの土の匂いも、いつか懐かしく思えるときが来るんだろうか」
『朝露に濡れた花の香りも』
「忘れたくないなあ……なんで忘れちゃうのかなあ……」
『忘れるというのは、人間に備わった最大の防衛機能だからですよ』
いのりは眩しげに、豊かな陽光に手を伸ばした。透けた霊体の指先が、ちりちりとブロックノイズ交じりに瞬いた。
『つらいことも、かなしいことも、いつかは忘れていくから乗り越えられる』
「それが出来なかったひとが、自殺をしていく」
『適者生存です。人間は物事を忘れるように進化していったんです。強い記憶力なんて、生物として生きていくうえで欠陥にしかなりませんから』
「それってなんだか、さびしいな」
『忘れるから、ヒトは過ちを繰り返す。でも過ちを繰り返すことこそが、人類という種が生き延びるうえでもっとも適切な生存戦略であったということなんでしょうね』
いのりはぱんっと手を合わせた。
『あ、そうそう。花は、恋人を呪うさいにも使われます』
「呪い?」
『親しい異性に、花の名前を教えるんです』
いたずらっぽく笑って続ける。
『花は毎年咲きますから、たとえ別れたとしても否が応でも思い出されてしまうんだとか』
「嫌な呪いだなあ」
『これはスパティフィラムという花です。スパティフィラ厶。スパティフィラム』
「おいバカやめろ連呼すんな! 嫌な呪いだなあ」
特徴的な白い仏炎苞と肉穂花序が、清楚さと清順さを醸し出している。
スパティフィラムは、温室にも、外の湿原にも群生している割とポピュラーな観葉植物だ。
「この花を見るたびにいのりの顔がちらつくっていうのは、ちょっと」
『ふふ、呪いがうまーくかかりましたね♪』
二人は植替え作業を終えると、株分けしたスパティフィラムの鉢を久遠の自室である、植物園の備品室へ運んでいった。ここで暮らすようになって、はや一ヶ月。数万年も埃だらけだった部屋は、少しずつだが暮らしの匂いを取り戻していく。
窓際にスパティフィラムの鉢を置いた久遠は、小さな紙箱の山に躓いた。あえなく紙箱の山は崩れ、久遠の「むぎゅ」という情けない悲鳴が小さな部屋に響いた。
『わあっ、派手に崩れましたねえ』
「ずっと邪魔だなって思ってたけど、この大量の箱は、何」
いのりは『催青箱っていって蚕を育てる箱なんです』と言った。
『オシラサマの語源を知っていますか? この地域では、昔、養蚕が盛んだったんです。この地域への入植が始まった直後のことです。オシラサマというのは、そのときに信仰されていた絹と生糸と養蚕の神様だった。養蚕は衣服をつくり、生活をつくり、経済をつくる。文字どおり世界を織りなす技術でした。それが同じく世界をつくる神獣や錬金炉、そしてそのなかにできる虹色の繭と同一視されるようになっていったのも、自然な流れでした』
いのりは久遠の部屋の隅にうず高く積まれた、大量の催青箱へと歩み寄っていった。
『……強い人は、自分を変えようと生きていけます。だけど弱い人は自分を変えようとせずに他人を変えようとする。だからオシラサマも、錬金術師も、弱いんです』
「言葉で他人を変えようとするのは、力で人を変えようとするのは、自分が弱いから……」
『錬金術は弱さの象徴なんです。だから奇跡なんて言われて持て囃された』
久遠は催青箱のひとつを手に取ると「蚕だっていっしょだ。ニンゲンは良質な糸のために、この昆虫を家畜化した。自分たちの暮らしを良くするために、自分たちの暮らしではなく他のイキモノの暮らしを変えてしまったんだ」と呟いた。
ぱかっと蓋をあける。中は空っぽだった。しわくちゃになった油紙だけが入っていた。
「傲慢だと、思う」
『イキモノっていうのはね、わたしたちにとっての不都合な世界は、必ずしも彼らにとっても不都合な世界であるとは限らないという証左なんです』
鉢を置いて庭仕事が片付くと、久遠は眠そうにあくびを噛み殺した。
『少し疲れちゃいましたね』
「おれ、シャワー浴びてからちょっと昼寝するけど、どう」
『わかりました。じゃあわたしも温室でだらだらしてます。ごゆっくり』
「ん、またこれからの計画も練らなくちゃな」
そう言って、二人は別れる。
それが正午のこと。
本当の記憶を取り戻しつつあるなかで、この欺瞞に満ちた共同生活は、限界を迎えている。
限界だった。おれも、彼女も。




