13:しっ、失礼しまちゅ!
『……うさん! 久遠さん! 久遠さん! 起きてください、雲野久遠さんッッ!』
深い樹海の奥底に、いのりの声が響きわたる。
天を衝くほどの木々、空を支えているようにすら見える太い幹。恒星の光を覆い隠してしまうほどに鬱蒼とした巨木が林立し、しっとりとした森の薫りが鼻腔をつく。
ひどく、暗い。
まもなくして森の闇の奥底から、地面を震わすようなバケモノの咆哮が響きわたった。
びりびりと大気が刺すように震え、鳥たちの群れが逃げていく。
いのりは、喉の奥から短く悲鳴をあげた。
『ひっ――く、久遠さん! 久遠さんってば! 目を覚ましてくださいな!』
いのりは久遠の肩を、ゆっさゆさと揺らそうとした。
けれど彼女の透けた指先は、久遠に触れようとした瞬間に、すっ……と空を切る。
『っ……!』
いのりは一瞬だけ悲しそうな表情を浮かべた。でも悠長に感傷に浸っている余裕はない。今度は自らの視線の高さでふわふわと浮かんでいる魔道具――鬼火のように浮かんでいるアルマの器を両手で掴むと、大きく振りかぶった。
『しっ、失礼しまちゅ!』
盛大に舌を噛み、全力で振り下ろしたアルマの器を久遠の顔面鼻先に激突させた。
「痛ってぇ!」
『はっ、久遠さん!』
いのりはずいっと身を乗り出して、久遠の顔を覗き込んだ。
「はっ、じゃないが」
『朝ですよ、起きてください!』
「まだ夜明け前じゃないかぁ!」
『神獣の気配がします! のんきに寝てる場合じゃないですってば!』
久遠の顔色が変わった。手早く寝袋を畳み、昨夜まとめておいた荷物をさっと背負う。
「どうする」
『やりすごしましょう』
二人は巨木の幹に背を押し付けた。まもなく、木々の合間を縫って一柱の神獣が現れた。
『……来ましたぁ! 近い近い近い』
「……しっ、黙れって」
『……いまわたしに命令しました?』
寝ぼけ眼の久遠は「うわ、めんどくさいひとだ」とげんなりした。
神獣は、漆黒の毛並みでヒグマの姿をしていた。獰猛さは感じない。落ち着いている様子だ。
『ヒグマのオシラサマって具合ですか。バックパックに、化粧水のスプレーがあります。取り出せますか?』
いのりの指示通り、久遠の背負うバックパックには小さな化粧水のスプレーが入っていた。
中の無色透明な液体は、光の加減で虹色に光る。
「偏光、してる」
『液晶霊素です。身体にまんべんなく吹いてください。アルマの器で魔力を流し込みます』
久遠が自分の身体に霧吹きすると、いのりが指を組んで祈った。
『天の福音を預かりし……』
「その祝詞みたいなの」
『うるさいですね。トドゥル人なら宇宙を揺蕩う〝星の声〟に願掛けくらいするでしょう?』
アルマの器から水色の燐光が漏れ出し、久遠の身体を透明にしていく。
『器の液霊噴霧立体容積投影を応用した熱霊光学迷彩です。十数分は持続するはずです』
いのりは霊体を消した。アルマの器がふわふわと久遠の肩にとまる。
「いのっ……!」
『霊体を非表示にしただけです。取り乱さないで』
ヒグマのオシラサマは透明な二人の存在に気づくことなく、目前を通り過ぎていった。
アルマの器が小声で言う。
『……よく見ていてください。彼らが神獣と呼ばれる所以です』
ヒグマのオシラサマは、樹海に敷設された木道に歩み寄っていった。木道の末端はあちこちが朽ち、腐葉土と化していた。オシラサマは腐った木道に歩み寄ると、静かに屈んで、何やら作業めいたことを始めた。よく見ると、角材のようなものを咥えている。あれは……。
「木道を数万年にわたって整備してきたのは、オシラサマだったのか?」
久遠は呆けたように呟いた。
まもなく神獣は立ち去り、久遠の透明化も解けた。




