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私は逃げるようにレオニード公爵へ背を向けた。
向かう先などどこでもよかった。
これ以上あの人と話したところで、どうせ平行線だ。
何を言われても、きっとまた言い返せなくなる。そう思った。
だから、とにかくこの場から離れたかった。
しかし、背後からは一定の距離を保ったまま、レオニード公爵がついてくる気配がする。
彼は何も言わない。
それなのに、その沈黙がどうしても私には、
――逃げたな。
そう言われているような気がして、胸の奥がちくりと痛んだ。
「アルヴェルト公爵夫人」
目の前を塞ぐように、一人の男が進み出てきた。
先ほどから何度もこちらを窺っていた貴族の一人だ。
初めて「夫人」と呼ばれて、心臓がどきりと跳ねる。
「え、ええ……」
思わず足を止めてしまった。
それが失敗だった。
「夫婦仲が大層よろしいようで安心いたしましたよ」
男はにこやかに笑った。
「なにせ、妙な噂がございますからなぁ。夫人もさぞ辟易しておられるのでは?」
「う、うふふ……嫌ですわ。私は、そのような噂など……」
「おや、ご存じない?」
「さぁ……」
男の目が愉快そうに細められる。
自分でも意味の分からない相槌を打ちながら、私は必死に話題を逸らそうとした。
だが、男は獲物を逃がすまいとするように身を乗り出してくる。
思わず、助けを求めるように後ろを振り返った。
だが、レオニード公爵は何も言わなかった。
つい先ほどまであれほど饒舌だったというのに、今は貝のように口を閉ざしている。
どうやら、助けるつもりはないらしい。
「わ、私はそろそろ……」
「おやおや、公爵夫人。お顔の色が優れませんな」
男は意味ありげに目を細めた。
「きちんとお休みになっておられますかな?」
嫌な予感がした。
――そして。
「もしよろしければ、いい“枕”を紹介いたしましょうか」
周囲から、くすりと笑い声が漏れた。
ついに露骨な嫌味まで口にし始めたのだ。
いつの間にか、人の輪ができていた。
貴婦人たちは扇の陰で囁き合い、若い令嬢たちは好奇心を隠しきれない顔でこちらを見ている。
皆、面白がっている。
夫を枕で殴った妻。
そんな下世話な噂の当事者を、近くで眺めてみたいだけなのだ。
普段の私なら、愛想笑いでやり過ごしただろう。
適当に曖昧な返事をして笑っていただろう。
そうして嵐が過ぎるのを待ったはずだった。
けれど今日は違った。
レオニード公爵に散々言葉を突きつけられていた。
逃げるな。
見ないふりをするな。
その言葉にすら、何一つとして言い返せなかった。
その悔しさが、まだ胸の奥で燻っている。
だから――
「あのね、あなた……っ」
「あら! イザベラ!」
私の声を遮るように、鈴を転がしたような明るい声が響いた。
その澄んだ声に、周囲の視線が一斉に集まる。
「お、お姉様……」
黒髪がシャンデリアの光を受けてキラキラと輝いていた。
深い青のドレスはしなやかな身体の線を美しく際立たせ、華やかな貴族たちの人だかりの中にあっても、姉の姿だけは不思議なくらいよく目立った。
周囲より頭一つ分背が高く見えるのは、きっとその堂々とした立ち姿のせいだ。
「イザベラ、大変なの」
姉は神妙な面持ちで私に駆け寄ると、そっと手を包んだ。
「手紙に書き忘れていたのだけれど、お兄様が落馬して足を怪我してしまったのよ。幸い、大事には至らなかったのだけれど……」
そんな大事なことを、手紙に書き忘れるはずがない。
これは私をこの場から連れ出すための嘘だった。
……ああ、そうだ。
お姉様は昔から嘘が苦手だった。
だから、いざ嘘をつく時には、どうしても分かりやすくなってしまう。
どうして忘れていたのだろう。
「……あ、あら、ごめんなさい。お話の途中でしたのに……」
申し訳なさそうに微笑む姉を見た途端、男の下卑た笑みは気まずそうな苦笑いへ変わった。
姉はこうして人の懐へ入るのが上手だった。
裏表のない人柄を皆が知っているからこそ、多少見え透いた嘘であっても、誰も責めようとはしない。
かえって、自分の邪さを目の当たりにして、気まづくなってしまうのだ。
後方で見ていた令嬢たちが、ひそひそと囁き始めた。
姉はいつも人の注目を集める。
もちろん、それは好意ばかりではない。
姉の美貌や才能を妬み、隙を探そうとする人間も大勢いた。
そして厄介なことに、姉と親しくなった者まで陰口の対象になってしまうのだ。
――媚びを売っている。
――取り入ろうとしている。
――あの方に利用されている。
そんな噂を立てられ、居心地の悪さに耐えきれなくなって離れていく者を、私は何人も見てきた。
だから姉は誰か一人を特別扱いしない。
誰とでも穏やかに接し、誰とも深く結びつこうとはしなかった。
そうすることでしか、周囲との均衡を保てなかったのだ。
人が好きなのに、人の輪の中心へは入れない。
お姉様は、昔からそんな人だった。
……それなのに。
どうして私は、お姉様が私の悪評を流したかもしれないなどと思ってしまったのだろう。
お姉様に、そんなことができるはずもないのに。
「お姉様。お兄様のお話、少し奥で伺いましょう」
私は男に軽く会釈すると、姉に話を合わせてその場を離れた。
「……お姉様、助けてくださってありがとうございます」
「お礼なんていらないわ。私は何もしていないもの」
姉はくすりと微笑み、手の甲で私の髪を優しく撫でた。
「イザベラ。前に会った時より少し疲れているみたいね」
「……」
返事ができなかった。
それより気になったのは、姉が頑なに後ろのレオニード公爵へ挨拶をしないことだった。
まさか。
お姉様は、レオニード公爵のことが好きなのではないか。
だからこそ、悟られないようにわざと距離を置いているのではないか。
――嫌だった。
先ほどようやく打ち消したはずの疑念が、またゆっくりと鎌首をもたげる。
「イザベラ……?」
返事もできずにいる私を、姉が心配そうに覗き込む。
「本当に顔色が悪いわ。少し外へ――」
「最近、妙な噂が立っている。それで少し参っているのだろう」
不意に背後から肩を抱き寄せられた。
「うわっ……!」
驚いて振り返る。
今まで一言も口を挟まなかったレオニード公爵が、突然会話へ割り込んできたのだ。頼んでもいないのに。
「妹の身体を乱暴に扱うのはおやめくださいまし」
姉の声が鋭くなる。
次の瞬間、今度は姉が私の腕を掴んで引っ張った。思わずたたらを踏む。
「……乱暴、か」
レオニード公爵が片眉を上げた。
「以前の手紙といい、君は俺のことを誤解しているようだ」
「……手紙?」
姉の顔色が変わった。
「まさかとは思いますが、公爵殿下。妹に宛てた手紙をお読みになったのですか」
「無論」
レオニード公爵は平然と答えた。
「夫婦なのだから、検閲する権利くらいあるだろう」
姉はぽかんと口を開いたまま固まった。
「信じられない……」
小さく漏れた呟きには、本物の困惑が滲んでいた。
そして次の瞬間、さらに強く私の腕を引いた。
「公爵殿下が、お噂に違わぬお方だということがよく分かりました」
いつになく硬い声だった。
そのまま姉は私を連れて歩き出す。
姉も怒ってその場から立ち去るということをするのだな、と思った。
こんな風に、お姉様が誰かと争う姿など見たことがなかった。
だが数歩も進まないうちに、再びレオニード公爵が私の肩を掴んだ。
「わ、わわ……!」
さっきから二人の間を行ったり来たりだ。
「このまま君たちを行かせると、俺の悪い噂を吹き込まれそうだ」
「今さらでございますわ」
姉はぴしゃりと言い返した。
その冷たい態度に、私の中で「お姉様はレオニード公爵が好きなのでは」という仮説が、音を立てて崩れていく。
「イザベラは、太陽みたいに笑う子なんです」
その一言が妙に耳の奥に残った。
姉は昔からそう言う。
私のことを、『太陽』だと。
背後で、ふっと鼻で笑うような吐息が聞こえた。
「太陽、ね」
「公爵殿下の前で、イザベラが笑ったことがおありですか」
「笑顔でいることは、それほど重要なのか?」
姉は真っ直ぐレオニード公爵へ向き直った。
「公爵殿下にとっては、重要ではないのかもしれません」
凛とした声だった。
「ですが、私にとっては重要なのです」
背筋を伸ばし、真っ直ぐ公爵と向き合う姉の姿は、まるで一本の剣のようだった。
ただ小さくなって、話が終わるのを待つしかできない私とは、まるで違っていた。




