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***


 翌日。

 侯爵家の夜会へ向かうため、私たちは同じ馬車に乗り込んでいた。


 本来なら、レオニード公爵は欠席する予定だったらしい。

 だが、あの悪趣味な噂を払拭するため、今回は夫婦揃って顔を出すことになった。


「……」

「……」


 車内には重苦しい沈黙が流れていた。


 向かい合って座っているというのに、レオニード公爵は一向に視線を逸らさない。

 氷を削り出したような青い瞳が、じっとこちらを見つめている。


 落ち着かない。


 まるで解剖台の上に乗せられた蛙にでもなった気分だった。

 不意に、公爵が私の腕を掴んだ。


「わわっ」


 びくりと肩が震える。

 大きな手が私の手首を包み込み、脈を測るように親指が内側へ触れていた。


 まるで珍しい生き物でも観察するみたいだ。

 レオニード公爵は私の動揺など気にも留めず、ただ静かにこちらを見つめていた。


「緊張しているのか」

「い、いえ……」

「脈が早い」


 まるで医者だ。

 確かに心臓は落ち着きなく鳴っている。

 けれど、腕を握っただけでそんなことがわかるものなのだろうか。


「……殿下に謝るべきか考えていました」


 取り繕う余裕もなく白状すると、公爵はわずかに首を傾げた。


「謝るべきか?」

「その……枕で殴った件です」


 公爵は「ああ」と小さく頷いた。


「確かに君が俺へ謝罪するとしたら、それしかないな」


 そう言いながら立ち上がる。けして広くはない馬車内で彼が立ち上がると、かなり圧迫感があった。

 嫌な予感がした。

 案の定、公爵は私の隣へ移動してきた。

 逃げ場がなくなる。


「なぜ躊躇う」


 横から覗き込まれる。

 近い。

 近すぎる。


「……悪いことをしたと思っておりませんので」


 観念して答えた。


「ほう」

「先に私の尊厳を傷付けたのは殿下です。ですから、あの件については今も反省しておりません」


 レオニード公爵はしばらく瞬きを繰り返し――それから笑った。


 あの笑顔だ。


 整いすぎていて、どこか不気味な笑顔。

 人間が笑っているというより、彫像に笑顔だけを描き足したような違和感がある。


「それでも謝ればいいだろう」


 柔らかい声音だった。

 だが内容は少しも柔らかくない。


「君にはその方が向いている」

「……は?」


 意味がわからなかった。

 なにか失礼なことを言われた気はする。

 だが、どの辺りが失礼なのか上手く言語化できなかった。

 私の困惑を見て、公爵は続けた。


「君が言っただろう。持たざる者は、持たないことで己の価値を証明する、と」


 心臓が嫌な跳ね方をした。


「あれは面白い考え方だった」


 面白い。

 まるで珍しい虫でも見つけた時のような言い方だった。


「確かに君は姉君ほど目立たない」


 さらりと言い放たれた言葉は的確に、私の胸を抉った。


「君にも長所はあるのだろう。だが比較対象が姉君ではな。周囲から見れば君は不出来な妹という位置に押し込められる」


 馬車の揺れに合わせて、公爵の声が静かに続く。


「だから君は全てから逃げた」

「違います」

「俺から逃げ回っていたのにか?」


 返事に詰まる。

 レオニード公爵は責めているわけではない。

 ただ観察結果を述べているだけだ。


 だから余計に腹が立つ。

 こちらの感情など考慮せず、勝手に分析されているような気分になる。人を勝手に分析しないで欲しい。


 その時、馬車がゆっくり停止した。

 侯爵邸へ到着したらしい。


***


 夜会が始まっても、私の胃は痛いままだった。


 レオニード公爵は普段なら私と別行動を取る。

 だが今日は違った。

 噂を否定するためなのだろう。公爵は私のすぐ傍を離れない。


 そのおかげで夫婦仲は良好に見えるだろうが、私としては全く落ち着かなかった。


 時折、見知らぬ貴族たちがこちらを窺うように視線を向け、何事か囁き合いながら離れていく。


 ――あの噂だ。

 間違いない。


「皆、何かから逃げている」


 不意に後ろから声がした。


「……はい?」

「君だけではないということだ」


 私は思わず眉をひそめた。


「い、今、その話の続きをなさるんですか?」

「不思議だからな」

「何がです?」


 公爵は即答した。


「君が俺を殴ったことだ」


 またその話だ。

 いい加減忘れてほしい。


「姉君と比較されて腹が立ったか?」

「……」


 わからなかった。

 少なくとも、それだけではない気がしていた。

 しかし、それを認めたくもなかった。

 すると公爵が私の顎を持ち上げた。


「殿下――」

「違うな」


 断定だった。


「俺はそう思わない」


 その瞬間、私の中でなぜか急速に公爵への反発心が湧き上がった。


「いいえ。悔しかったのです」


 気付けば言い返していた。


「結婚して、ようやく姉とは違う幸せを手に入れたと思っていました。それなのに結局、お姉様には敵わないとわかって――」

「君は姉に勝ちたいのか?」


 静かな一言だった。

 だが私の言葉を止めるには十分だった。


「勝ちたいなら努力すればいい」

「なっ……!」


 思わず声が裏返る。


「先ほど殿下ご自身が仰ったではありませんか! 並の努力では勝てないと!」

「並の努力ではな」


 公爵はあっさり頷いた。


「だが努力など一種類ではない」


 そして本当に研究の話でもするかのような顔で続ける。


「姉君より時間を費やす」

「無理です」


「人を頼る」

「無理です」


「姉君が苦手な分野を探す」

「見つかりません」


「姉君を堕落させる」

「論外です!」


 公爵は少しだけ目を細める。


「なるほど」


 何がなるほどなのだ。


「やはり君はあの時、姉君への劣等感から俺を殴ったわけではないのだな」


 意味がわからなかった。

 だが、その言葉が妙に胸に引っ掛かった。


「では殿下は、私がなぜ殴ったと思っているのですか」


 私の問いかけに、公爵は首を振っただけだった。


「それは君自身が見つけるべきだ」

「……便利なお言葉ですこと」

「本気だ」


 公爵は即答した。


「君が気付かなければ意味がない」

「自分のことは自分が一番よく知っています」

「いいや」


 レオニード公爵は笑う。

 あの完璧な笑顔で。


「君は自分を見ないようにしている」


 息が詰まった。


「知りたくないことを見ない」


 嫌なほど透き通った瞳が真っ直ぐに私を見つめている。


「考えたくないことを考えない」


 逃げたい。

 今すぐ、この場から逃げ出したかった。


「やりたくないことから逃げる」


 夜会の喧騒が遠のいていく。

 笑い声も。

 音楽も。

 人々の話し声も。

 全部が、まるで水の中に沈められたみたいに、遠く曖昧になっていく。


「それでは息苦しいだろう」


 その言葉に、胸の奥が強く軋んだ。

 ずっと隠していた傷口を、何の躊躇いもなく指で抉られたような痛みだった。


 ――違う。


 ――そんなことはない。


 否定したいのに、言葉が出てこない。

 本当はわかっていたのだ。


 姉と比べるのをやめられないことも。


 姉に勝てないと決めつけていることも。


 傷つくのが嫌で、最初から諦めていることも。


 私を苦しめているのは、優秀な姉ではなく――……。


「……うるさい」


 ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど弱々しかった。


 レオニード公爵は何も言わずに、ただ静かに私を見下ろしていた。

 その視線が堪らなく苦しかった。


 ……――私を苦しめているのは私自身だ。


 そんなこと、ずっと前からわかっていた。


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