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翌日。
侯爵家の夜会へ向かうため、私たちは同じ馬車に乗り込んでいた。
本来なら、レオニード公爵は欠席する予定だったらしい。
だが、あの悪趣味な噂を払拭するため、今回は夫婦揃って顔を出すことになった。
「……」
「……」
車内には重苦しい沈黙が流れていた。
向かい合って座っているというのに、レオニード公爵は一向に視線を逸らさない。
氷を削り出したような青い瞳が、じっとこちらを見つめている。
落ち着かない。
まるで解剖台の上に乗せられた蛙にでもなった気分だった。
不意に、公爵が私の腕を掴んだ。
「わわっ」
びくりと肩が震える。
大きな手が私の手首を包み込み、脈を測るように親指が内側へ触れていた。
まるで珍しい生き物でも観察するみたいだ。
レオニード公爵は私の動揺など気にも留めず、ただ静かにこちらを見つめていた。
「緊張しているのか」
「い、いえ……」
「脈が早い」
まるで医者だ。
確かに心臓は落ち着きなく鳴っている。
けれど、腕を握っただけでそんなことがわかるものなのだろうか。
「……殿下に謝るべきか考えていました」
取り繕う余裕もなく白状すると、公爵はわずかに首を傾げた。
「謝るべきか?」
「その……枕で殴った件です」
公爵は「ああ」と小さく頷いた。
「確かに君が俺へ謝罪するとしたら、それしかないな」
そう言いながら立ち上がる。けして広くはない馬車内で彼が立ち上がると、かなり圧迫感があった。
嫌な予感がした。
案の定、公爵は私の隣へ移動してきた。
逃げ場がなくなる。
「なぜ躊躇う」
横から覗き込まれる。
近い。
近すぎる。
「……悪いことをしたと思っておりませんので」
観念して答えた。
「ほう」
「先に私の尊厳を傷付けたのは殿下です。ですから、あの件については今も反省しておりません」
レオニード公爵はしばらく瞬きを繰り返し――それから笑った。
あの笑顔だ。
整いすぎていて、どこか不気味な笑顔。
人間が笑っているというより、彫像に笑顔だけを描き足したような違和感がある。
「それでも謝ればいいだろう」
柔らかい声音だった。
だが内容は少しも柔らかくない。
「君にはその方が向いている」
「……は?」
意味がわからなかった。
なにか失礼なことを言われた気はする。
だが、どの辺りが失礼なのか上手く言語化できなかった。
私の困惑を見て、公爵は続けた。
「君が言っただろう。持たざる者は、持たないことで己の価値を証明する、と」
心臓が嫌な跳ね方をした。
「あれは面白い考え方だった」
面白い。
まるで珍しい虫でも見つけた時のような言い方だった。
「確かに君は姉君ほど目立たない」
さらりと言い放たれた言葉は的確に、私の胸を抉った。
「君にも長所はあるのだろう。だが比較対象が姉君ではな。周囲から見れば君は不出来な妹という位置に押し込められる」
馬車の揺れに合わせて、公爵の声が静かに続く。
「だから君は全てから逃げた」
「違います」
「俺から逃げ回っていたのにか?」
返事に詰まる。
レオニード公爵は責めているわけではない。
ただ観察結果を述べているだけだ。
だから余計に腹が立つ。
こちらの感情など考慮せず、勝手に分析されているような気分になる。人を勝手に分析しないで欲しい。
その時、馬車がゆっくり停止した。
侯爵邸へ到着したらしい。
***
夜会が始まっても、私の胃は痛いままだった。
レオニード公爵は普段なら私と別行動を取る。
だが今日は違った。
噂を否定するためなのだろう。公爵は私のすぐ傍を離れない。
そのおかげで夫婦仲は良好に見えるだろうが、私としては全く落ち着かなかった。
時折、見知らぬ貴族たちがこちらを窺うように視線を向け、何事か囁き合いながら離れていく。
――あの噂だ。
間違いない。
「皆、何かから逃げている」
不意に後ろから声がした。
「……はい?」
「君だけではないということだ」
私は思わず眉をひそめた。
「い、今、その話の続きをなさるんですか?」
「不思議だからな」
「何がです?」
公爵は即答した。
「君が俺を殴ったことだ」
またその話だ。
いい加減忘れてほしい。
「姉君と比較されて腹が立ったか?」
「……」
わからなかった。
少なくとも、それだけではない気がしていた。
しかし、それを認めたくもなかった。
すると公爵が私の顎を持ち上げた。
「殿下――」
「違うな」
断定だった。
「俺はそう思わない」
その瞬間、私の中でなぜか急速に公爵への反発心が湧き上がった。
「いいえ。悔しかったのです」
気付けば言い返していた。
「結婚して、ようやく姉とは違う幸せを手に入れたと思っていました。それなのに結局、お姉様には敵わないとわかって――」
「君は姉に勝ちたいのか?」
静かな一言だった。
だが私の言葉を止めるには十分だった。
「勝ちたいなら努力すればいい」
「なっ……!」
思わず声が裏返る。
「先ほど殿下ご自身が仰ったではありませんか! 並の努力では勝てないと!」
「並の努力ではな」
公爵はあっさり頷いた。
「だが努力など一種類ではない」
そして本当に研究の話でもするかのような顔で続ける。
「姉君より時間を費やす」
「無理です」
「人を頼る」
「無理です」
「姉君が苦手な分野を探す」
「見つかりません」
「姉君を堕落させる」
「論外です!」
公爵は少しだけ目を細める。
「なるほど」
何がなるほどなのだ。
「やはり君はあの時、姉君への劣等感から俺を殴ったわけではないのだな」
意味がわからなかった。
だが、その言葉が妙に胸に引っ掛かった。
「では殿下は、私がなぜ殴ったと思っているのですか」
私の問いかけに、公爵は首を振っただけだった。
「それは君自身が見つけるべきだ」
「……便利なお言葉ですこと」
「本気だ」
公爵は即答した。
「君が気付かなければ意味がない」
「自分のことは自分が一番よく知っています」
「いいや」
レオニード公爵は笑う。
あの完璧な笑顔で。
「君は自分を見ないようにしている」
息が詰まった。
「知りたくないことを見ない」
嫌なほど透き通った瞳が真っ直ぐに私を見つめている。
「考えたくないことを考えない」
逃げたい。
今すぐ、この場から逃げ出したかった。
「やりたくないことから逃げる」
夜会の喧騒が遠のいていく。
笑い声も。
音楽も。
人々の話し声も。
全部が、まるで水の中に沈められたみたいに、遠く曖昧になっていく。
「それでは息苦しいだろう」
その言葉に、胸の奥が強く軋んだ。
ずっと隠していた傷口を、何の躊躇いもなく指で抉られたような痛みだった。
――違う。
――そんなことはない。
否定したいのに、言葉が出てこない。
本当はわかっていたのだ。
姉と比べるのをやめられないことも。
姉に勝てないと決めつけていることも。
傷つくのが嫌で、最初から諦めていることも。
私を苦しめているのは、優秀な姉ではなく――……。
「……うるさい」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
レオニード公爵は何も言わずに、ただ静かに私を見下ろしていた。
その視線が堪らなく苦しかった。
……――私を苦しめているのは私自身だ。
そんなこと、ずっと前からわかっていた。




