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――とうとうレオニード公爵と二人きりになってしまった。
執務室は意外なほど整然としていた。
あの日、「知らないもの」について語っていた時の彼を思い出す。
未知の言語。
未知の数字。
未知の植物や動物。
それらを口にしていた時だけ、レオニード公爵の瞳は少年のように輝いていた。
だから私は勝手に想像していたのだ。
執務室には異国の地図や見たこともない標本が並び、山のような書物に埋もれているのだろうと。
だが実際は違った。
机の上も書棚も綺麗に整理されている。
どこにでもある貴族の執務室だった。
侍女が退出すると、レオニード公爵は片眉を上げた。
「座れ」
短い命令。
けれど私の足は、まるで床に縫い付けられてしまったみたいに動かなかった。
「……結構です」
すると公爵は小さく鼻を鳴らした。
また遠慮していると思ったらしい。
そしてそのまま本題へ入った。
「夜会で妙な噂を聞いてな」
「噂、ですか……?」
「ああ」
氷のような青い瞳が私を真っ直ぐに見つめていた。
「君が俺を枕で殴ったという噂だ」
心臓が止まりそうになった。
忘れようとしていた記憶が、一気に蘇る。
初夜。枕。顔面。――そして逃走。最悪である。
「それは……」
「もっとも、今のところは悪趣味な冗談として扱われているようだが」
頭の奥が冷えていく。
一ヶ月近く経ってから、なぜ今になってそんな噂が出始めたのか。
一体どこから漏れたのだろう。
「そ、そんな……。あ、明日は侯爵家の夜会がありますのに……」
動揺がそのまま口から零れた。
「案ずるな」
低い落ち着いた声だった。
不思議とそれだけで少しだけ呼吸が戻る。
「幸い、君は社交界でそれほど目立つ存在ではない」
さらりと胸を刺された。
だが今は反論する余裕もない。
「そんな君が俺を枕で殴ったなど、真面目に信じる者は少ない」
それは確かにそうだった。
「明日の夜会には俺も出席する。しばらく夫婦で行動を共にしていれば噂は消えるさ」
ふっ、と。
レオニード公爵が微笑んだ。
――笑うんだ。
思わず息を呑んだ。
いつも冷たく閉ざされていた口元が柔らかく弧を描いている瞬間を、私は初めて見た。
けれど。
なぜだろう。
その笑顔は少しも温かく見えなかった。
まるで職人が完璧に彫り上げた彫像が微笑んだようだった。
それは、ただ笑顔という形だけを貼り付けたような不自然さがあった。
「他になにか?」
気付けば無表情に戻っていた。
「い、いえ……」
慌てて首を振る。
「ご迷惑をおかけして申し訳ございません」
「構わない」
本当に興味がないような声だった。
それ以上会話が続くことはなく、私は深く礼をして執務室を後にした。
***
部屋へ戻ると、文机の上に散らばった手紙が目に入った。
すぐ戻るつもりで出しっぱなしにしていたのだが、今は返事を書く気分にはなれなかった。
片付けてもらおうとベルへ手を伸ばした、その時だった。
ふと、一文が目に留まる。
――レオニード公爵は優秀な方ですが、イザベラの夫としては相応しくありません。
指先が止まった。
先ほど読んだ時は気にも留めなかった文章だ。
なのに今は、どうしても引っ掛かる。
どうしてわざわざ『イザベラの夫としては』などと書いたのだろう。
まるで私以外の誰かであれば相応しいと言っているみたいではないか。
「……考えすぎよ」
自分に言い聞かせるように呟く。
姉がそんな含みを持たせるはずがない。
ただの偶然だ。
ただの言葉の綾だ。
そう思うのに、胸の奥のざわつきは消えてくれなかった。
無意識のうちに、何度も同じ行を目でなぞっていた。
読めば読むほど、余計な考えが頭をもたげてくる。
そういえば――姉だけは知っていた。
初夜が最悪の形で終わった、そのわずか四日後。
姉から届いた手紙には、レオニード公爵との関係を心配する言葉が綴られていた。
けれど、姉はその前日の夜会に参加していない。
私たち夫婦が初めて揃って出席した夜会だったというのに。
ならば、どうしてわかったのだろう。
どうして私たちの関係が上手くいっていないと知っていたのだろう。
嫌な音を立てて心臓が脈打った。
考えるな。
考えるな。
そんなことを考えてはいけない。
そう思うほど、頭は勝手に記憶を掘り返していく。
◆
遠い昔の記憶だ。
まだ私が姉を妬み、そして同じくらい憧れていた頃。
ある日、私はこっそり尋ねたことがあった。
「お姉様はどうして誰とも結婚しないの?」
姉は少しだけ目を丸くした。
それから、ふわりと笑った。
「それはね」
黒曜石のような瞳が優しく細くなる。
「お姉様の心は、もう誰に捧げるか決めてしまったからよ」
当時の私はその意味を理解できなかった。
けれど今ならわかる。
あれは姉が社交界へ出たばかりの頃だった。
そして社交界には、一人だけいたのだ。
姉と並び立てるほど美しく。
姉と同じくらい優秀で。
誰もが特別だと認めざるを得ない男が。
――レオニード・アルヴェルト。
◆
違う。
違う、違う。
そんなはずがない。
お姉様はそんな人じゃない。
私の知る姉は、誰よりも優しくて、誰よりも清らかだった。
誰かを押し退けてまで何かを欲しがるような人ではない。
――それなのに。
どうしてこんなにも辻褄が合ってしまうのだろう。
気付けば、手紙を机に叩きつけていた。
ぐしゃり、と乾いた音が響く。
綺麗に伸ばされていた羊皮紙が無惨に歪んだ。
「違う……」
掠れた声が漏れる。
「お姉様が、そんなこと……」
言葉の続きが出てこない。
疑いたくなかった。
疑うこと自体が裏切りのような気がした。
だって、お姉様はお姉様なのだから。
誰よりも美しくて、誰よりも優しくて、誰よりも正しい人だ。
――そう信じていた。
だから怖かった。
もし、そのお姉様が――……。
私と同じように誰かを欲しがり、私と同じように嫉妬し、私と同じように醜い感情を抱くのだとしたら。
胸の奥で何かが軋む。
一度生まれてしまった疑念は、もう無かったことにはできそうになかった。




