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  *


 レオニード公爵が命じれば、使用人たちはすぐに下がるだろう。

 そう思ったが、口にはしなかった。


「下がってちょうだい。二人きりになりたいの」


 私がそう告げると、侍女たちは静かに一礼し、一人、また一人と部屋を後にしていく。


 やがて寝室には、私とレオニード公爵だけが残された。

 扉が閉まる音がやけに大きく聞こえた。


「君の姉君から手紙が届いたと聞いてね」


 レオニード公爵は当然のように言ったその言葉に、ぞくり、と背筋が冷える。

 その言い方ではまるで、誰からどんな手紙が届いたかを把握する権利が自分にあると言っているようではないか。


 ……いや、おそらく本気でそう思っているのだろう。


 公爵夫人に届く手紙なのだから、自分が確認して何が悪いのか――その程度の認識なのかもしれない。


 だが私は嫌だった。

 姉との手紙は数少ない安らぎだ。

 まして姉も、自分の書いた手紙をレオニード公爵に読まれるなど想定していないだろう。


 私が言葉を失っている間にも、公爵はまるで気にした様子もなくソファへ腰を下ろした。


「座らないのか」

「……結構です」

「そうか」


 公爵は特に気を悪くした様子もなかった。

 ただ私を見上げた。

 その青い瞳には不満も怒りもなく、純粋な疑問だけが浮かんでいた。


「随分と遠慮深いな」


 遠慮ではない。拒絶だ。

 だが、この男にはその違いが分からないらしい。

 レオニード公爵は片眉をわずかに持ち上げたが、それ以上は追及しなかった。


「好きにするといい」


 そして話題を切り替える。


「君と姉君は頻繁に文を交わすのか」

「……はい。それなりには」

「そうか」


 公爵は頷いた。


 そして次の言葉を、あまりにも自然に口にした。


「では返書で、マゴス北部の情勢について姉君の見解を聞いてくれ」


 頭が真っ白になった。

 レオニード公爵と話していて、脳が停止したのはこれで二度目だった。


「……はい?」

「北部では反王権派の動きが活発化している。今年の不作も深刻だ。このままでは冬を待たずに食糧不足が始まる可能性が高い。さらに有力諸侯の何人かが――」

「お、お待ちください!」


 慌てて遮る。

 公爵は不思議そうに口を閉じた。


「なぜ私がお姉様との手紙で、そのような話をしなければならないのですか?」


 沈黙。


 レオニード公爵は数度まばたきをした。

 本当に質問の意味が分からないらしい。


「俺が姉君の見解を聞きたいからだ」

「でしたら殿下ご自身がお姉様へ手紙を送ればよろしいのでは……」

「面倒だ」


 即答だった。

 あまりにも即答だった。


 私は思わず言葉を失った。

 公爵は深々とため息を吐いた。


「俺が公的に姉君へ文を送れば、君の父上が出てくる」

「それは……」

「君の父上が出てきたら、俺はなにをするべきか。

 信頼を得るために文を送り、夜会に顔を出し、場合によっては自ら夜会を開く。

 君の父上は狩猟が好きだったな。ならば狩猟にも付き合わなければならない」


 そこで公爵はソファに深く身体を沈めた。


「面倒だ」


 二度目だった。

 本当に面倒なのだろう。

 その声音には心の底からの疲労が滲んでいた。


 だが私からすれば、だから何だとしか思えない。

 貴族なら誰だってやっていることだ。

 私ですら父に連れ回されて夜会へ出席し、愛想笑いを覚え、礼儀作法を身につけた。


 しかしレオニード公爵は違った。


「俺は政治に興味がない」


 低い声が落ちる。


「社交にも興味がない。権力にも興味がない」


 そこまでは聞いたことがあった。

 だが次の言葉には、今まで感じたことのない熱があった。


「俺が知りたいのは、まだ誰も知らないものだ」


 青い瞳が僅かに細められる。


「海の向こうで使われている言葉。誰も解読できない文字。異国の数字。見たこともない植物。地図にも載っていない土地に生きる獣」


 先ほどまでの気怠げな男とは別人だった。


「この世界には、まだ解き明かされていないものが無数にある」


 声は静かだった。

 だが瞳だけが熱を帯びている。


「病を治す薬草がどこかにあるかもしれない。飢饉を防ぐ穀物が存在するかもしれない。誰も知らない法則がどこかに眠っているかもしれない」


 まるで夜空を見上げる少年のようだった。


 いや。


 子供より性質が悪い。


 子供なら成長と共に諦める。


 だがこの男は公爵になった今でも本気で追いかけ続けている。


「俺はそれを知りたい」


 その瞬間の彼の顔は、公爵でも貴族でもなかった。

 ただ知識を渇望する探求者だった。


「だが現実には金が要る」


 熱が引く。


 公爵は再び現実へ引き戻されたように目を伏せた。


「書物を運ぶ商船も必要だ。学者も研究者も雇わなければならない。未知の土地を調査するなら人員も装備もいる。すべて金がかかる」


 淡々と語る。


「公爵という立場を維持できなければ、その全てが失われる」


 そこで彼は私を見た。

 理解したか、と問いかけるように。


「……つまり、殿下は研究を続けるために公爵でいるのですね」

「研究」


 公爵の眉が僅かに寄った。


「随分と安い言葉で片付ける」


 吐き捨てるような声だった。


「俺が欲しいのは答えだ」


 青い瞳が真っ直ぐこちらを見据える。


「人はなぜ病にかかるのか。星はなぜあの軌道を描くのか。異国の民はなぜあの文字を使うのか」


 そして小さく息を吐いた。


「知りたいと思ったものを知りたいだけだ」


 面倒な男だ。

 本当に面倒な男だった。

 だが、ほんの少しだけ理解した気もした。


 この男にとって公爵位は目的ではない。

 ただ知るための手段なのだ。

 だから政治にも社交にも興味がない。

 しかし次の言葉で、その僅かな理解は吹き飛んだ。


「君の姉君と結婚できれば話は早かったのだがな」


 頭痛がした。


「姉君は政務に優れていると聞く」


 その声は嫌にまっすぐだった。


「戦の助言もしている。税制改革にも関わった。暴動への対応も成功させている」


 人嫌いの公爵でも、姉の功績はよく知っているようだった。


「彼女に政務を任せれば、俺は探求に専念できた」


 やっぱり頭痛がした。

 つまりこの男は、姉に政務を押し付けて自分は好きなことをしようとしていたのである。


 もちろん、その「好きなこと」が遊びではなく研究であることは分かる。


 実際、彼が生み出した功績は数え切れない。


 異国の数学の体系化。


 小麦の品種改良。


 鉄の加工技術の発展。


 どれも国に利益をもたらした。


 それでも。


 それでも妻に仕事を丸投げしようとしていた事実は変わらない。


「……つまり」


 額を押さえる。

 嫌な予感しかしなかった。


「殿下は私を通して、お姉様に政務をさせたいのですか」

「その通りだ」


 即答だった。


「なぜそんな顔をする」


 レオニード公爵は立ち上がった。

 数歩で私の目の前まで来る。


「幸い姉君は君を可愛がっている」


 そう言って私の肩を押し、半ば強引に文机へ座らせた。


「妹からの相談なら喜んで答えるだろう」


 コツ コツ コツ

 ペンが置かれる。

 インクが置かれる。

 羊皮紙が置かれる。


「君は手紙を送るだけでいい。宝石でもドレスでも好きなだけ用意しよう」


 私は机の上を見つめた。

 宝石。

 ドレス。

 高価な贈り物――。

 ――社交界では、それらは愛情の証になる。


 冷徹な公爵に溺愛される妻。

 周囲はそう見るだろう。


 きっと羨む者も出てくるだろう。

 妬む者も生まれるかもしれない。


 今まで私が姉へ向けていた感情を、今度は誰かが私へ向ける。


 そう思うと胸が高鳴った。


 見てほしい。


 羨んでほしい。


 妬んでほしい。


 絞りカスではないのだと証明したい。


「ではまず北部の――」


 私は黙ってペンを取った。

 インクを付ける。


 そして――……。


 羊皮紙の中央に大きくバツ印を書いた。

 ぴたり、と声が止まる。


「……なんだ、それは」


 困惑した声だった。


「バツ印です」

「気でも狂ったか」

「いいえ」


 私は立ち上がった。

 向かい合う。


「お姉様にそのような手紙は送りません」


 レオニード公爵の眉間に深い皺が刻まれる。


「愚かな」


 冷たい声だった。


「俺は君たちを不幸にしたいわけではない」

「存じております」

「ならばなぜだ」


 私は息を吸った。


「お姉様を利用したくないんです」


 沈黙。


 数秒後。公爵は鼻で笑った。


「美しい姉妹愛だな」

「違います」

「違わないだろう」


 冷ややかな目が私を見る。


「君の姉君は多くの人間に利用されようとしている。だから自分だけは利用したくない。健気な話だ」

「違う」


 思わず声が強くなった。

 公爵が僅かに目を見開く。


「これは私の矜恃です」


 一歩踏み出す。


「みんなお姉様を利用しようとする」


 父も。


 貴族たちも。


 そしてレオニード公爵も。


「その中で私まで利用したら、私は何者でもなくなるではありませんか」


 公爵はさらに眉をしかめた。

 全く理解していない。


「殿下は何でも持っているから分からないのです」


 胸の奥から言葉が溢れ出す。


「持たない人間は、持たないことでしか特別になれないんです」


 姉ほど賢くない。


 姉ほど美しくない。


 姉ほど愛されない。


 だから。


 だからせめて――。


「私は、お姉様を利用しない人間でいたいんです」


 それだけは譲れなかった。


「献身でも美談でもありません」


 声が震える。


「これは私の生き方なんです」


 沈黙が落ちた。


 どれだけ黙っても、言ってやったという達成感は感じなかった。

 ただ、重苦しい閉塞感だけが胸を締め付けていた。


 自分でも分かっていた。


 持たざる者だとか。

 特別になりたいだとか。

 そんなものは結局、私の劣等感の裏返しでしかない。


 姉になれなかった私が。

 姉に勝てなかった私が。


 唯一しがみついている意地を、今さら曝け出してしまったのだ。

 こんなことを言うつもりはなかった。

 今まで誰にも言わなかったのに。


「……や、夜会の支度がありますので……!」


 耐えられなくなった。


 私はレオニード公爵が何か言う前に頭を下げ、そのまま逃げるように部屋を飛び出した。


 背後から追ってくる足音は、聞こえなかった。


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