### 2
***
それから後のことは、あまり覚えていない。
鮮明に覚えていることといえば、近くにあった枕を引っ掴み、公爵の顔面に全力で叩き込んでいたことだけだ。
気が付けば私は、自室として用意されていた部屋のベッドに転がっていた。
どうやってここまで戻ってきたのすら覚えていない。
初夜が台無しになったことだけは確かだった。
頭だけは嫌に冴えていた。
そして冴えた頭で思い返すのは、自分の愚かさばかりだった。
なにがアルヴェルト家の血を未来へ繋ぐ、だ。
なにが、『まさか、お姉様より先に私が結婚するなんて思いませんでした』、だ。
嫌な女。
本当に嫌な女だ。
あんなことを言ってしまった自分が恥ずかしかった。
姉は何も自慢しなかった。
何も誇らなかった。
私を見下したことだって一度もない。
それなのに私は、心のどこかで勝った気になっていたのだ。
いや。
確かに、勝ったと思ったのだ。
白状しよう。
私は調子に乗っていた。
「マゴスの宝石」と呼ばれる男から求婚されて、浮かれていた。
姉より先に結婚できることが嬉しかった。
ずっと私の前を歩き続けていた姉を、ようやく追い越せたのだと思った。
才能では勝てない。
知性でも勝てない。
人格でも勝てない。
それでも女としての幸せなら、私の方が先に手に入れられたのではないか。
――そんな風に思ってしまった。
その結果がこれだった。
『本当は君の姉君の方と結婚したかった』
そりゃそうだ。私だって男なら自分ではなく姉と結婚したい。
惨めだった。
情けなかった。
恥ずかしかった。
胸の奥がじくじくと痛む。
結局のところ、私は最後まで姉に勝てなかったのだ。
才能でも。
人望でも。
そして――女としても。
「お姉様……」
――私、女としての幸せでも、あなたには勝てなかったよ。
*
*
*
翌朝。
私が想像していたようなことは、何ひとつ起きなかった。
夫との初夜をすっぽかしただけではない。その顔面を枕で殴って、出ていってしまったのだ。
相手はアルヴェルト公爵家当主である。
いくら考えても無罪放免で済むような話ではなかった。
不敬罪で謹慎とか。
精神に異常があるとして別邸へ幽閉とか。
いや、まさか結婚して一日で離縁なんてことは――さすがにない、と思いたい。
政治に疎い私が思いつく罰などその程度だったが、実際にはもっと恐ろしい処罰があるのかもしれない。
そう考えると、胃が締め付けられるように痛くなった。
――だが、何も起きなかった。
本当に、何も。
その日一日、私は怯えながら過ごした。
侍女が部屋に入ってくるたびに肩を震わせた。
来客を知らせるノックが聞こえるたびに心臓が跳ねた。
ついに呼び出しか、と。
とうとう裁きの時が来たのか、と。
だが、誰も私を責めなかった。
次の日になると、もしかしたらレオニード公爵が恩情をかけてくれたのかもしれないと思い始めた。
あの人は冷たいが、公正な人物として知られている。
酔った女の失態くらいは見逃してくれたのかもしれない。
そんな都合のいい解釈で自分を丸め込んでみた。
さらにその次の日。
私は公爵夫妻として夜会へ出席することになった。
久しぶりにレオニード公爵と顔を合わせたのは、その夜会へ向かう馬車の中だった。
そして私はようやく理解した。
公爵が私に恩情をかけたわけではなかったのだと。
彼はただ――私に興味がなかった。
向かいの席に座るレオニード公爵は書類に目を通していた。
こちらを見ることはなかった。
話しかけることもない。
気まずそうな様子すら、ない。
まるで一人で馬車に乗っているかのようだった。
私が何度か視線を向けても、反応はない。
そもそも視界に入っているのかすら怪しかった。
あの日。
結婚初日の夜。
私は彼の顔面を枕で殴った。
普通なら忘れようのない出来事だ。
少なくとも、殴られた側は覚えているだろう。
――だというのに。
レオニード公爵は何事もなかったかのように書類をめくっている。
気にしていないのだ。
本当に、それだけだった。
枕で殴られたことなど、とっくに忘れてしまったかのように。
いや。
もしかしたら覚えてはいるのかもしれない。
覚えていてなお、取るに足らない出来事として処理しているだけなのかもしれない。
どちらにせよ結果は同じだった。
私という人間は、彼の関心を引くほどの存在ですらない。
その事実を理解した瞬間。
あの日告げられた言葉よりも静かに、じわじわと胸が痛んだ。
『本当は、君の姉君の方と結婚したかった』
あれは確かに拒絶だった。
だが今目の前にあるのは、拒絶ですらない。
無関心。
その冷たい横顔が、私には、わざわざ嫌うほどの価値すらないと告げている。
私はそっと視線を落とした。
馬車の窓に映る自分の顔が、少しだけ泣きそうに見えた。




