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***


 それから後のことは、あまり覚えていない。


 鮮明に覚えていることといえば、近くにあった枕を引っ掴み、公爵の顔面に全力で叩き込んでいたことだけだ。


 気が付けば私は、自室として用意されていた部屋のベッドに転がっていた。


 どうやってここまで戻ってきたのすら覚えていない。

 初夜が台無しになったことだけは確かだった。


 頭だけは嫌に冴えていた。

 そして冴えた頭で思い返すのは、自分の愚かさばかりだった。


 なにがアルヴェルト家の血を未来へ繋ぐ、だ。

 なにが、『まさか、お姉様より先に私が結婚するなんて思いませんでした』、だ。


 嫌な女。

 本当に嫌な女だ。

 あんなことを言ってしまった自分が恥ずかしかった。


 姉は何も自慢しなかった。

 何も誇らなかった。

 私を見下したことだって一度もない。


 それなのに私は、心のどこかで勝った気になっていたのだ。

 いや。

 確かに、勝ったと思ったのだ。


 白状しよう。

 私は調子に乗っていた。


 「マゴスの宝石」と呼ばれる男から求婚されて、浮かれていた。


 姉より先に結婚できることが嬉しかった。


 ずっと私の前を歩き続けていた姉を、ようやく追い越せたのだと思った。


 才能では勝てない。

 知性でも勝てない。

 人格でも勝てない。


 それでも女としての幸せなら、私の方が先に手に入れられたのではないか。

 ――そんな風に思ってしまった。


 その結果がこれだった。


『本当は君の姉君の方と結婚したかった』


 そりゃそうだ。私だって男なら自分ではなく姉と結婚したい。


 惨めだった。


 情けなかった。


 恥ずかしかった。


 胸の奥がじくじくと痛む。

 結局のところ、私は最後まで姉に勝てなかったのだ。


 才能でも。

 人望でも。

 そして――女としても。


「お姉様……」


 ――私、女としての幸せでも、あなたには勝てなかったよ。


 翌朝。

 私が想像していたようなことは、何ひとつ起きなかった。


 夫との初夜をすっぽかしただけではない。その顔面を枕で殴って、出ていってしまったのだ。


 相手はアルヴェルト公爵家当主である。


 いくら考えても無罪放免で済むような話ではなかった。


 不敬罪で謹慎とか。

 精神に異常があるとして別邸へ幽閉とか。

 いや、まさか結婚して一日で離縁なんてことは――さすがにない、と思いたい。


 政治に疎い私が思いつく罰などその程度だったが、実際にはもっと恐ろしい処罰があるのかもしれない。

 そう考えると、胃が締め付けられるように痛くなった。


 ――だが、何も起きなかった。

 本当に、何も。


 その日一日、私は怯えながら過ごした。

 侍女が部屋に入ってくるたびに肩を震わせた。

 来客を知らせるノックが聞こえるたびに心臓が跳ねた。

 ついに呼び出しか、と。

 とうとう裁きの時が来たのか、と。

 だが、誰も私を責めなかった。


 次の日になると、もしかしたらレオニード公爵が恩情をかけてくれたのかもしれないと思い始めた。

 あの人は冷たいが、公正な人物として知られている。

 酔った女の失態くらいは見逃してくれたのかもしれない。

 そんな都合のいい解釈で自分を丸め込んでみた。


 さらにその次の日。

 私は公爵夫妻として夜会へ出席することになった。

 久しぶりにレオニード公爵と顔を合わせたのは、その夜会へ向かう馬車の中だった。


 そして私はようやく理解した。


 公爵が私に恩情をかけたわけではなかったのだと。

 彼はただ――私に興味がなかった。


 向かいの席に座るレオニード公爵は書類に目を通していた。

 こちらを見ることはなかった。

 話しかけることもない。

 気まずそうな様子すら、ない。


 まるで一人で馬車に乗っているかのようだった。


 私が何度か視線を向けても、反応はない。

 そもそも視界に入っているのかすら怪しかった。


 あの日。

 結婚初日の夜。


 私は彼の顔面を枕で殴った。

 普通なら忘れようのない出来事だ。

 少なくとも、殴られた側は覚えているだろう。

 ――だというのに。


 レオニード公爵は何事もなかったかのように書類をめくっている。


 気にしていないのだ。

 本当に、それだけだった。


 枕で殴られたことなど、とっくに忘れてしまったかのように。


 いや。


 もしかしたら覚えてはいるのかもしれない。


 覚えていてなお、取るに足らない出来事として処理しているだけなのかもしれない。

 どちらにせよ結果は同じだった。


 私という人間は、彼の関心を引くほどの存在ですらない。


 その事実を理解した瞬間。


 あの日告げられた言葉よりも静かに、じわじわと胸が痛んだ。


『本当は、君の姉君の方と結婚したかった』


 あれは確かに拒絶だった。

 だが今目の前にあるのは、拒絶ですらない。


 無関心。


 その冷たい横顔が、私には、わざわざ嫌うほどの価値すらないと告げている。

 私はそっと視線を落とした。

 馬車の窓に映る自分の顔が、少しだけ泣きそうに見えた。

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