6. 懐かしい出会い
朝、微かな鳥のさえずりで目を覚ました。
こんな穏やかな目覚めは初めてだ、というか鳥のさえずりを聞いたことが前世も含めた人生で初かもしれない。
今はまでは、何故そうなるのか分からない妹達の謎の寝相で、顔面にかかと落としを食らうこともない、ぎゃん泣きする弟妹の声もしない静かな朝。
小さな子供って兄弟が身を寄せ合って寝ているあの狭いスペースでも夜と朝で身体の向きが百八十度変わってたり、何故か人の顔面に乗り上げて寝たり……どうやって移動しているのか本当に謎だ。
少し懐かしく寂しい気持ちもあるが、弟妹達はきっと俺の記憶もないから元気に過ごしているだろう。
ふと腹の虫が自己主張を始めてようやく食材のストックが皆無であることに気がついた。
朝食を兼ねて市場へ繰り出すしかない。
出かける前に、首元で鬱陶しく揺れる無駄にサラサラとした長髪を一つにまとめ、襟足の内側に隠すようにねじり上げた。
首筋を抜ける朝の冷気が心地よい。
これなら遠目にはショートヘアに見えるはずだ。
まだちょっと自分の髪型が床屋で刈った短髪で無いことに気持ちの上で慣れない故の苦肉の策だった。
路銀の入った革袋を腰に提げ、俺は家を後にした。
季節は四月。
肌を撫でる朝の風はひんやりとしているが、日差しには確かな春の温もりがある。
日本と同じで、春は過ごしやすい気候のようだ。
朝の市場は昼間よりも遥かに熱気に満ちていた。
荷車に山積みにされた野菜や、声を張り上げる商人たちの熱気で鼓膜が震える。
腹ごしらえに、屋台で薄焼きの丸いパン生地に肉と野菜を挟んだ軽食を買ってみた。
かぶりつくと、パリッとした生地の食感の後に、肉の脂と果物ベースの酸味のあるソースが口いっぱいに広がる。
「……美味い」
香辛料のピリッとした刺激が絶妙だ。
俺は周囲に気づかれないようこっそり鑑定を発動し、脳内に浮かび上がった特製ソースのレシピを今日の自炊リストにしっかりと刻み込んだ。
目当ての肉屋を探して歩いていると、昨日果実水をしかめっ面であおっていた筋肉ダルマの親父さんを見つけた。
店先には丸太のように太い動物の足が吊るされ、親父さんが分厚い刃物でそれを薄く削ぎ落としている。
ガルドさんやバルガスさんを彷彿とさせる圧倒的な威圧感に一瞬怯んだが、意を決して声をかけた。
「あの、ボアの肉が欲しいんですが」
振り返った親父さんは、意外なほど人懐っこい笑顔を浮かべた。
「ボアの肉をどんな風に食べるつもりだい?煮込みにするか、それとも焼くか……」
「色んな調理法を試したいんです。あと、ボアでもコカ鳥でもいいので、余っている骨を安く譲っていただけませんか?」
親父さんがピタリとナイフを止めた。
「ん?骨なんて買ってどうするんだい、お兄さん。肉なんてほとんどこびりついてないぞ?」
「じっくり煮込んでスープの出汁を取るんです。そこに腹の肉を合わせて、煮込み料理を作ろうかと」
途端に、親父さんの目がスーッと細められた。
鋭い眼光が俺の全身をねぶり回すように観察してくる。
無精髭の生えた顎を撫でる太い指先。
何かこの世界の禁忌でも口にしてしまっただろうか。
心臓が早鐘を打ち始めた。
「腹の肉を煮込んで、わざわざ骨で取ったスープを合わせるだと?」
低い声が響いた直後、親父さんは「ガハハ!」と腹の底から響くような豪快な笑い声を上げた。
「あんた、ただの優男かと思ったら、随分と料理の何足るかを分かってるじゃないか!」
バシィッ!と肩を叩かれ、痛みに思わず顔が歪む。
「そういうことなら、焼いて食う用の背肉も少し持っていきな!こいつは筋切りをしてサッと焼くだけで最高に美味いからよ!」
親父さんは上機嫌にボアとコカ鳥の骨をずっしりと重い麻袋に詰め込んでくれた。
肉の代金だけで骨はおまけだという。
さらに、煮出した後の骨は塩気さえなければ砕いて畑の肥料になるという農家の裏技まで教えてもらった。
「兄さん、この後は買い物はないのかい?重いだろうし置いといてやるから、帰りに寄ってもいいんだぜ。マジックバッグや収納魔法が使えるなら別だが、そんな代物はよっぽど上位の冒険者じゃねぇとお目にかかれないからな」
その言葉に、背筋に冷たい汗が伝った。
危ない。
危うくここで空間収納に放り込むところだった。
常識を知らないということは恐ろしい。
「あとは帰るだけなんで大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
俺はずっしりとした麻袋の重みを両腕でしっかりと受け止め、店を離れてから人目のつかない路地裏に身を潜め、こっそりと空間収納へ荷物を放り込んだ。
通りに戻り、色鮮やかな野菜や果物をいくつか買い足しながら歩を進める。
ふと、周囲の喧騒から少し切り離されたような、落ち着いた店構えの商店が目に留まった。
店先には精緻な意匠の茶器が並び、乾いた茶葉の香りが漂っている。
その棚の片隅に、見慣れた焦茶色の粒が入った瓶を見つけた。
店内に足を踏み入れると、紅茶の香りに交じって、あの深く焙煎された特有の香ばしい匂いが漂っている。
「……これは、珈琲?」
思わず唇からこぼれ落ちた呟きに、店の奥から顔を出した初老の店主が目を丸くした。
「おや、お若いのに珈琲をご存じですか?異国では嗜好品として人気があるそうなのですが、この街ではまだ珍しく、ご購入される方どころか名前をご存知の方すらおりませんでしたが」
「俺、遠くからこちらに越してきたので……」
俺が曖昧に濁すと、店主は深く納得したように頷いた。
飲み物が水や果実水だけでは味気ないと思っていたところだ。
ミルクさえ手に入ればカフェオレも夢ではない。
「あの、珈琲はいくらですか?」
「豆が一袋で銀貨三枚です。豆を挽く器具を全てセットにしますと、金貨一枚になりますね」
嗜好品なだけあって、想定以上の強気な価格設定だった。
しかし、金貨一枚を支払う手にもう迷いはない。
異世界に降り立って初めて、元の世界を感じられるものに出会えたのだ。
珈琲豆と手挽きのミル、それに抽出用の道具一式を抱え、俺は弾むような足取りで家路についた。




