5. 街の食堂
ザクッ、ザクッと土を裏返す規則的な音が、静かな庭に響く。
土の湿った匂いと、微かに混じる青草の香りを胸いっぱいに吸い込みながら、俺は大きく背伸びをした。
ううーんと声を漏らし、鍬を振るうために曲げたままだった腰を反らせる。
「ふう、こんなもんか」
夕暮れの風が、汗ばんだ肌を心地よく撫でていく。
ありがたいことに、ガルドさんに「一般人よりは死ににくい程度」と付与してもらった肉体強化のおかげか、長時間鍬を振るっても腰に痛みはない。
じんわりとした程よい疲労感が筋肉に残っているだけだ。
土に触れる作業は、どこか心を落ち着かせてくれる。
「汗だけでも流していくか」
俺は家に戻り、備え付けの湯船に生活魔法で水を張り、そのまま適温のお湯へと変えた。
水道というインフラがなくても、魔法一つでお湯に浸かれるのだから、この世界も捨てたものではない。
ちゃぷん、と肩までお湯に沈むと、体の芯からじんわりと疲れが溶け出していく。
さっぱりと洗い流した体に、今日市場で買ってきたばかりの平民風の服を身に着けた。
麻に近い素材なのか、肌に触れると少しごわごわとした摩擦を感じる。
不快で着られないほどではないが、前世で使っていた柔軟剤たっぷりのシャツと比べると、どうしても違和感がある。
「そのうち職人スキルで、肌触りのいいルームウェアでも作ってみるかな」
着替えを終え、服屋のおばちゃんに教わった食堂へと向かうことにした。
フェルディさんが造ったこの身体は、元の俺と同じ黒髪なのだが、なぜか少し長く、襟足が結べるほどの長さになっている。
日中は邪魔なので後ろで括っているが、風呂上がりの今は面倒くさい。
俺は歩きながら生活魔法で微風を生み出し、指先で髪を梳くようにして粗方乾かした。
そのまま結ばずに放っておくと、夜風が吹くたびに、無駄にサラサラとした黒髪が頬を掠めて揺れる。
通りを歩いていると、すれ違う人々の視線がチクチクと突き刺さるのを感じた。
どうやら黒髪というのはこの辺りでは珍しいらしい。
石を投げられたり、異端者と罵られたりしないだけマシだが、どうにも落ち着かない。
教えられた食堂に足を踏み入れると、肉の焼ける香ばしい匂いと、ジョッキがぶつかり合う陽気な音が鼓膜を打った。
夜九時も過ぎた時間だからか家族連れの姿はなく、革鎧を着た冒険者や、ガタイの良い職人風の男女がテーブルを囲み、賑やかに笑い声を上げている。
空いているカウンター席に腰を下ろすと、周囲の熱気に当てられたのか、自然と腹の虫が鳴った。
「いらっしゃい。お兄さん、一人かい?」
溌溂とした声に顔を上げると、エプロン姿の恰幅の良い女性店員が立っていた。
「ええ、一人です。今日この街に越してきたばかりで、服屋さんに美味しい食堂を聞いたら、ここを教えてもらったんですよ。おすすめのメニューってありますか?」
俺は長男時代に培ってきた「愛想の良いご近所スマイル」を全開にして尋ねた。
何事も第一印象が肝心だ。
女性は俺の顔をまじまじと見つめた後、ぽうっと頬を染め、少しの間フリーズしてしまった。
そして、ハッと我に返ったように慌ててメニューを指さす。
「そ、そうだね! お酒を飲まないなら、ボアとクラム芋の塩煮込みと黒パンはどうだい? ほら、あっちの冒険者が食べてるやつ。もう少しガッツリいきたいなら、コカ鳥の香草焼きにオーク肉のスープをつけるのもおすすめだよ!」
彼女が指差した先には、湯気を立てる肉料理を豪快に頬張る男たちの姿があった。
俺の細身の胃袋なら、塩煮込みとパンだけでも十分に満腹になりそうだ。
「じゃあ、ボアとクラム芋の塩煮込みと黒パンでお願いします。あと、お酒以外の飲み物はありますか?」
「それならリルの果実水があるよ。さっぱりしてて美味しいからね!」
「じゃあ、それも」
オーダーを済ませ、手持ち無沙汰に店内を見渡していると、奥のテーブルに座っていた剣士風の女性たちと目が合った。
彼女たちがキャッキャと手を振ってきたので、とりあえず無難ににっこりと会釈を返しておく。
「はい、お待ちどうさま!」
ドン、と木製のカウンターに置かれたのは、ゴツゴツとした肉をワイルドにぶつ切りにした煮込み料理だった。
野性的だが、胃袋を刺激する強烈にいい匂いが漂っている。
「いただきます」
無意識に両手を合わせ、目を閉じて呟く。
そして、スプーンの隣に添えられていた、この世界にも存在するらしい箸を手に取った。
まずは一口食べる前に、鑑定スキルをそっと発動させる。
脳内に図鑑のような情報が次々と浮かび上がった。
『ボア:サイのような一本角を持つ大型イノシシ』
『クラム芋:澱粉質が豊富な根菜』
なるほど。
煮込まれたボアの肉を口に運ぶ。
「……ん、美味い」
肉質は少し硬いが、噛めば噛むほど野性味溢れる肉の旨味がじゅわっと染み出してくる。
筋切りをして、お酒か果汁で叩いてから煮込めば、もっとホロホロに柔らかくなるはずだ。
一緒に入っているクラム芋は、長芋のような見た目のようだが、ニョッキのような、もっちりとした面白い食感だった。
これも今度市場で買ってみよう。
しかし、煮汁を啜って俺は少しだけ首を傾げた。
塩と香草の風味は効いているが、致命的に出汁の概念が抜け落ちている。
コンソメや魚粉、せめて野菜の甘みがあれば、もっと奥深い味になるのに。
「よし、明日は鶏ガラでも探してスープストックを作ろう」
心の中で密かに自炊への決意を燃やしつつ、俺は隣に置かれていた木の実のジュース、リルの果実水の入った木製ジョッキを手に取った。
鑑定で表示された実物は見た目はリンゴに近い、赤くて可愛らしい色をしている。
喉も渇いていたし、一気に喉へ流し込んだ。
「――っぶふぉっ!?」
次の瞬間、口内に爆発的な刺激が走り、俺は盛大に咽せた。
酸っぱい!! 甘味が一切ない! レモンの原液をそのまま絞り出したような、脳天を突き抜ける凄まじい酸味だ。
「ケホッ、ゴホッ……! す、すっぱ……!」
涙目で咳き込む俺を見て、先ほど手を振ってきた剣士風のお姉さんの一人が、クスクスと笑いながら近づいてきた。
「君、余所から来たの? リルはこの辺り特有の果物だから、知らなかったのね」
「そ、そうなんですね……今日、来たばかりで……」
顔を真っ赤にして答える俺の口に、彼女は「はい、これ」と、小さく切られた別の果物をヒョイッと放り込んだ。
じゅわっと広がる強い甘みに、舌の上で暴れていた酸味が急速に中和されていく。
「リルは疲労回復の効果が高いから、肉体労働者には意外に人気なのよ。ほら、あっちにいる肉屋の親父も一気にあおってるでしょ?」
彼女が指差した先では、厳つい顔のおっさんが、顔中のパーツを中心にギュッと寄せながら、果実水を一気飲みしていた。
あの顔を見れば、どれだけ酸っぱいか一目瞭然だ。
「私はイリア、冒険者よ。あなたの名前は?」
「あ、俺はりゅ……リーヤっていいます」
「リーヤね。もし街で困ったことがあったら、声をかけて。冒険者ギルドでイリアに連絡を取りたいって言えば、繋いでくれるから」
じゃあね、と片目をつぶり、投げキッスを残してイリアは自分のテーブルへと戻っていった。
彼女の仲間たちが「やったじゃん!」と歓声を上げているのが聞こえる。
女子が集まるとああいうノリになるのは、どの世界でも共通らしい。
俺は残った煮込み料理を食べ進め、最後に添えられていた黒パンを手に取った。
カッチカチである。
千切ろうとしても、鈍器のような硬さで抵抗してくる。
スープに浸して無理やり柔らかくしながら咀嚼した。
「……絶対に、ふわっふわの白いパンを焼いてやる」
俺は硬いパンを睨みつけながら、固く心に誓った。
明日、この食堂で使われていた食材や、出汁に使えそうなものを市場で買い漁ろう。
異世界での俺の生活水準を現代日本レベルに引き上げようと固く誓った。




