第5話 わたくしの意思を、どなたが決めていらっしゃいますの?
「お兄様。ひとつ、試してみたいことがございますわ」
翌朝、わたくしは朝食の席で宣言した。
「何かな?」
「わたくしが、自分の意思で行動できるかどうか。それを確かめます」
ニールは、少し意外そうな顔をした。
「具体的には?」
「キャンディさんに、親切にしてみますわ」
言った瞬間、胸の奥がざわついた。
親切にする。
あの娘に?
なぜ、そんなことをしなければならないのだろう。
……いえ、違う。
これは実験ですわ。自分の意思で行動できるかどうかを確かめるための。
「いい考えだと思うよ」
ニールはうなずいた。
「ただし、無理はしないでくれ」
「無理などいたしませんわ。わたくしを誰だと思っていらっしゃるの?」
いつものように胸を張った。
けれど、内心では不安が膨らんでいた。
もし、親切にできなかったら?
それは本当に、わたくしの意思なのだろうか。
◇
昼休み。
キャンディは中庭のベンチに座っていた。
わたくしは用意してきた菓子箱を手に、彼女の前へ歩いていった。
「キャンディさん」
「イライザ様。どうなさいました?」
彼女は警戒するように、わずかに身を引いた。
無理もない。
これまでのわたくしは、彼女に親切にしたことなどなかったのだから。
「こちらを差し上げますわ」
菓子箱を差し出す。
キャンディは目を丸くした。
「えっ……私に、ですか?」
「ほかに誰がいるとおっしゃるの?」
少し言い方がきつくなった。
いけない。
わたくしは息を整え、言い直そうとした。
「その……よろしければ、召し上がってくださいませ」
言えた。
普通に。
嫌味を交えずに。
胸の奥にあったざわめきが、少しだけ弱まった。
「ありがとうございます。うれしいです」
キャンディが笑った。
その笑顔を見たとき、わたくしは不思議な気持ちになった。
これまで、彼女が困った顔をするのを見ると、妙な満足感があった。
けれど今は、そうではない。
彼女が喜んでいる。
それだけのことなのに、悪い気はしなかった。
わたくしは、少しだけ肩の力を抜いた。
できた。
自分の意思で、親切にできたのだ。
そう思った、そのときだった。
「ところで、キャンディさん」
口が、勝手に動いた。
「あなた、最近アンソニー様とずいぶん親しくなったそうですわね」
笑顔が消えた。
キャンディは戸惑ったように菓子箱を抱え直す。
「それは……」
「身分の違いというものを、少しはお考えになった方がよろしいのではなくて?」
胸の奥が、すっと静かになった。
同時に、手の中にあった菓子箱が妙に重く感じられた。
何をしているの?
わたくしは、今、何をしているの?
「イライザ様……?」
キャンディの声が遠く聞こえた。
わたくしは一歩、後ずさった。
「……失礼いたしますわ」
それだけ言い残し、逃げるように中庭を離れた。
◇
「つまり、親切にすること自体はできたんだね」
ニールは、わたくしの話を聞き終えると、そう言った。
「ええ。最初は、確かに自分の意思でできたと思いますわ」
「そのあと、急に嫌味を言ってしまった?」
「そうですわ」
わたくしは両手を握りしめた。
「どうして、あんなことを言ってしまったのでしょう。あの娘に菓子を渡して、それで終わりにすればよかったのに」
「ゲームの筋書きが、君にそうさせたのかもしれない」
「でも、最初はできたのです!」
声が大きくなった。
ニールは黙ってわたくしを見ていた。
「親切にすることはできました。嫌味を言う必要なんてなかった。それなのに、どうして……」
言葉が続かなかった。
悔しかった。
自分の行動を、自分で決められない。
そんなことがあってよいはずがない。
「イライザ」
ニールが静かに言った。
「君が最初に親切にできたことは、重要だと思う」
「……何が重要なのです?」
「少なくとも、君の意思が完全に消えているわけじゃない。君は自分で菓子を渡すことを選んだ。そのあと、何かに引き戻されたように見える」
わたくしは顔を上げた。
「では、どうすればよいのです?」
「それを、これから一緒に探そう」
ニールは少し考えてから続けた。
「君が何かをしようとしたとき、どうしてそうしたいのか、少しだけ立ち止まって考えてみてほしい。理由がわからないなら、無理に答えを出さなくてもいい」
「……それだけですの?」
「今はね」
拍子抜けするほど、簡単な話だった。
けれど、わたくしには必要なことなのかもしれない。
これまで、わたくしは自分の行動に疑問を持ったことなどなかった。
嫌いだから嫌味を言う。
気に入らないから困らせる。
それが当然だと思っていた。
でも、本当にそうなのだろうか。
◇
その夜。
わたくしは自室の鏡の前に立っていた。
鏡の中には、いつもと変わらないわたくしがいる。
イライザ・ラガン。
ラガン家の娘。
誇り高く、誰にも引けを取らない貴族令嬢。
……そして、ゲームの中の悪役令嬢。
「わたくしは……」
口に出しかけて、やめた。
自分が何者なのか。
その答えは、まだわからない。
けれど、ひとつだけ決めた。
明日も、自分の意思で行動してみよう。
たとえ、うまくいかなくても。
たとえ、また失敗しても。
わたくしの意思が、どこかに残っているのなら。
それを、見つけてみせますわ。




