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名無しと勇者 〜転生先で「勇者」と呼ばれた俺と、「名無し」と呼ばれる少女〜  作者: 猫間じん


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9/36

上の水

川沿いの草の上で一晩を過ごし、目を覚ますと、背中がしっとり湿っていた。筵はもう無く、敷いたのは岸の枯れ草を寄せ集めただけのもので、陽が身体を起こすと、草の切れ端が髪からも袖からもぱらぱら落ちる。川霧が低く流れていて、向こう岸は白く滲んで見えない。ツグミは少し離れた石の上にしゃがみ、紐から葉の包みを一つ外して、中の干した何かを歯で千切っていた。陽が起きたのに気づくと、包みの残りを陽のほうへ突き出して、自分はもう立ち上がりかけている。


陽は受け取ったものを噛みながら歩きだした。硬く、塩の味がして、噛んでいるうちに少しずつ甘くなっていく。昨日の分かれ目から上へ入った道は、川から少し離れて斜面の中ほどを通っていて、朝のうちは霧の中を歩くことになった。足の下の感じが、昨日までの岸の石とまるで違う。


道が平らだった。土の道ではない。灰色の硬い面が、斜面を削った幅いっぱいに続いていて、継ぎ目も割れ目もほとんど見当たらない。雨の溝も轍の跡もなく、ところどころに土が流れ込んで草が生えているだけで、その草をどけると、下の面はつるりとしたままだった。陽はしゃがんで手のひらを当ててみた。冷たく、ざらつきも少ない。村の道は踏み固めた土で、畦は草で、家の土間も土だった。この道だけが、誰かがきのう仕上げたような顔をして、誰も通らない山の中に延びている。


「すげえな、これ」陽は立ち上がって、先を行くツグミの背中に言った。「国道じゃん。誰が直してんの、これ」


ツグミは振り向かない。陽も答えを待っていたわけではなく、言ってしまってから、自分の声が霧の中に吸われていくのを聞いていた。


霧が晴れてくると、道の下に川がまた見えてくる。昨日より川幅が狭く、水の色が青みを帯びて、流れも速い。山が両側から寄ってきていて、日の当たる斜面と当たらない斜面がはっきり分かれている。しばらく行くと道が川のほうへ下りて、川原のすぐ上を通るようになり、そこで陽は、川の中に立っている柱を見た。


太い石の柱が、流れの中に並んでいる。こちらの岸から向こうの岸まで、間を置いて、同じ太さ、同じ高さで立っていて、上には何も渡っていない。柱の頭は平らに切られ、水に洗われた根もとには苔と枯れ枝が絡まっていた。こちらの岸の、道の脇にも、柱の続きのような石の台が一つあって、その先はいきなり空だ。


橋だったのか、と陽は思った。流されたのか。


ツグミは柱のほうを見もせずに、その脇を通り過ぎていく。陽は少し足を緩めて柱を見ながら歩き、見ているうちにツグミとの間が開いたので、小走りで詰めた。詰めて並んだところで一度振り返ると、柱は水の中で朝の光を受けて、ただ立っていた。


昼が近づくころ、ツグミは道を外れて川原へ下りた。何も言わず、手も振らず、道の端から斜面の草の中へ踏み込んで、そのまま石の上を川のほうへ下りていく。陽は道の上でしばらく迷い、迷ってから後を追った。休憩だろうと思ったし、腹も減っていた。


川原の端に、流れが岩で堰かれて、浅く広がった所がある。水は膝に届かないほどで、底の石が一つずつ透けて見える。ツグミは袋を下ろし、裾をたくし上げて帯に挟むと、水の中へ入っていった。足音を立てない。水を蹴らない。流れに逆らう向きに一歩ずつ進み、ある所で止まって、腰を折り、両手を水の上に浮かせたまま動かなくなった。


陽は川原の石に腰を下ろして、それを見ていた。何をしているのか、見ているうちに分かってくる。浅瀬の石の陰に、細い影がいくつか、流れに頭を向けて揺れていた。ツグミの手は水の上で止まっていて、指先だけが水面に触れている。長い。陽が足を組み替え、組み替えたのを後悔するくらい長く、ツグミは止まっていた。


組み替えた拍子に、目が足もとへ落ちる。腰を下ろした石の脇に、岩の陰になって流れから外れた溜まりがあり、水がそこだけ止まっていて、顔が一つ映っている。若い顔だった。頬に肉が薄く、目の下に何も溜まっていない。四十四年ぶんの疲れがどこにも付いていない顔が、陽が瞬きをすると、一緒に瞬きをする。知っていたはずのことだった。白いところで声が軽かったときから、手の甲の皺が違ったときから。それでも陽は、溜まりから目を上げる前に、自分の頬を指で一度つまんでいた。つまんだ頬は、水の中の顔と同じだけ薄かった。


浅瀬に目を戻すと、ツグミはまだ止まったままでいる。それから、手が水に入った。


跳ね上がった飛沫の中から、ツグミの両手が出てくる。手の中で銀色のものが身体をよじっていて、ツグミはそれを胸に押しつけるように抱え込み、水を跳ねかしながら岸へ上がってきた。陽は思わず立ち上がって、「うそ」と言った。「素手? いまの素手?」


ツグミは陽の前まで来て、手の中のものを陽の顔の高さに持ち上げた。魚は掌より少し長く、背が青黒くて、腹が白い。まだ跳ねていて、尾がツグミの手首を叩いている。ツグミは片手でそれを押さえたまま、もう片方の手の指で魚を指した。


「ネハ」


陽は魚を見て、ツグミの顔を見た。ツグミは魚を指したまま、陽を見ている。


「……魚?」陽は魚を指して言った。「魚。さかな」


ツグミは首を横に振った。もう一度、指で魚を突くようにして言う。


「ネハ」


「ネハ」


ツグミが頷いた。


陽はその頷きを見て、それから自分の口の中にまだ残っている音を、舌の上で転がすようにもう一度確かめた。ネハ。ツグミはもう魚から指を離して、川原の石の平たいのを探しに行っている。陽は突っ立ったまま、魚、と頭の中で言いかけ、ネハ、と言い直した。言い直した理由は自分でもよく分からない。


ツグミは平たい石の上に魚を置き、別の石で頭を一度叩いて動かなくすると、また浅瀬に戻っていった。陽は、じゃあ火は俺が、と言いかけて、自分が火を起こせないことを思い出す。村では鍋の番が起こした火を使っていたし、ゆうべは火を焚かずに寝た。陽は代わりに、川原に打ち上げられた流木を拾い集めることにした。乾いたのを選び、細いのと太いのを分けて、腕に抱えられるだけ抱えて戻る。戻ってくると、平たい石の上の魚は三匹に増えていた。


火はツグミが起こした。袋から出した小さな道具を擦り合わせて、枯れ草の中に火の粒を落とし、息を吹きかけて育てる。陽はその手もとを覗き込んで、どうやっているのかを見ようとしたが、手が速すぎて、気づいたときにはもう草が燃えていた。陽の拾った流木は、細いほうから順にツグミの手で火にくべられていき、太いのは脇に避けられた。


ツグミは細い枝を魚の口から尾へ通し、火のまわりの砂に斜めに挿していく。脂が落ちて、火の中で小さく弾ける。川の音の中に、その弾ける音と、焼ける匂いが混ざってくる。陽は膝を抱えて、魚の皮の色が変わっていくのを見ていた。腹が鳴り、鳴ったのをツグミに聞かれた気がして、陽は咳払いをしてごまかした。


焼けた一匹を、ツグミが砂から抜いて陽に渡す。陽は枝ごと受け取って、熱い、熱い、と言いながら左右の手で持ち替え、ようやく端のほうにかじりついた。皮が香ばしく、身がほろりと崩れて、口の中が熱い。塩も何もついていないのに、うまい。陽はもう一口かじり、三口目にかかろうとして、手の中の枝が引っ張られるのを感じた。


ツグミが陽の手から魚を取っていた。取りながら、魚を指して「ネハ」と言う。


「ネハ」と陽は言った。


ツグミは陽のかじった魚をそのまま自分の口へ持っていき、自分の分はまだ砂に挿したまま、陽の食べかけの背のところを大きく一口かじった。陽は空になった手を見て、ツグミを見て、砂に挿してあるもう一匹を見た。


「え、それ俺の。いや、いいけど。そっちのは?」


ツグミは答えず、かじった魚を陽に返してよこした。背のいちばん厚いところが半月の形に無くなっている。陽はそれを受け取って、しばらく見てから、残りを食べた。ツグミは砂からもう一匹を抜いて、何事もなかったように自分の分を食べはじめた。


火の始末はツグミがした。砂に挿したまま冷めかけていた最後の一匹を葉でくるんで袋にしまい、火に砂をかけ、足で踏んで、骨は川へ投げる。陽は流木の燃え残りを脇へ寄せる役をやり、寄せながら、手についた脂を川の水で洗い、濡れた手を振りながら道へ戻ると、日はもう高いところを少し過ぎていた。


午後の道は、川からだんだん離れて、山の奥へ入っていった。斜面が急になり、道はそれを大きく折り返して上っていく。灰色の面は相変わらずどこまでも平らで、平らなぶん、坂のきつさがそのまま脚に来た。陽は途中で何度か立ち止まって膝に手をつき、そのたびに先を行くツグミの背中が小さくなって、陽は立ち止まったことを後悔しながら、また足を動かした。


ツグミの歩き方は朝と変わらないのに、どこか違う、と陽は思う。脇を見ない。木の実の生っている枝にも、道端の水の湧いている所にも、朝のようには足を寄せない。まっすぐ前だけを見て、ときどき顔を少し上げ、上のほうの何かを確かめるようにして、また前を見る。


この先に何か大事なものがあるんだな、と陽は思った。目的地のマーカーでも見えてるみたいな歩き方だ。ツグミがわざわざ村を出て、朝から晩まで歩いて、脇目も振らずに向かう先だ。人か、物か、場所か。昨日の分かれ目で腕を上げて指した、あの指の先にあるもの。陽はそれが何なのか想像しかけて、想像できるものが何も無いことに気づき、代わりに足もとを見て歩いた。


日が傾きはじめたころ、何度目かの折り返しを上がりきった所で、急に前が開けた。


山と山のあいだが広がって、谷になっている。谷底を川が通り、川の両側に畑が段になって並んでいて、その段の途中に、屋根がいくつも固まっているのが見えた。村だ。煙が上がっている。そして谷の奥、川がいちばん上から出てくるあたりに、灰色のものが横に長く、谷を塞ぐように延びていた。


石の堤だ、と陽は思った。道と同じ色で、道と同じように継ぎ目の無い、高い壁が谷を横切っている。その真ん中より少し下のところに、四角い口が開いていて、そこから水が出ていた。白く泡立った水が口から吐き出されて、下の川へ落ちていく。遠くて音は届かないが、落ちる水の白さは、ここからでもはっきり見えた。陽に見えたのは、それだけだった。石の堤と、水の出る口。


ツグミの足がそこで少しだけ速くなった。坂を下りはじめ、陽はそれについて谷へ下りていった。道は村のほうへ続いている。畑の段のあいだを抜けて、屋根の固まっている所へ入っていく道だ。陽は村へ入るのだと思っていた。ところがツグミは、村へ入る手前の分かれ目で、道を外れた。


村のほうではなく、川のほうへ。畑の縁を回り、草の斜面を下って、ツグミは川原へ出ていく。石の堤のすぐ下の、水の出る口から落ちてきた流れが、少し先で穏やかになる所だ。陽はわけが分からないまま後を追い、川原の石を踏んだ。


ここまで来ると水の落ちる音が聞こえる。頭の上から、低く、途切れずに響いていて、見上げると灰色の壁が空の半分を塞いでいた。落ちてきた水は、壁の下で一度大きく渦を巻いてから、川原の脇を広く浅く流れていく。流れは澄んで、底の石が夕日の色に染まっていた。


ツグミは袋を下ろした。流れの縁に膝をつき、両手を石について、身体を前へ倒す。


口を、水につけた。


手ですくわずに、じかに。ツグミは流れに顔を寄せたまま、長いあいだ水を飲んでいた。陽は少し離れた所に立って、それを見ていた。やがてツグミは顔を上げ、濡れた口を手の甲で拭い、そのまま川原の石の上に腰を下ろした。膝を立て、腕を膝に回して、流れと、流れの上の灰色の壁を見上げている。


それきり、ツグミは動かなかった。陽はしばらく待った。ツグミが立ち上がるのを、どこかへ歩き出すのを、誰かが来るのを、何かが起きるのを待った。水の音は変わらず、壁は動かず、日だけが少しずつ沈んでいく。ツグミの横顔は静かで、口もとがほんの少し緩んでいて、笑っているのとは違うが、陽がこれまで見たどの顔よりも、何かが足りている顔をしていた。


陽も流れの縁にしゃがんだ。真似をして口をつける気にはなれず、両手ですくって口へ運んだ。


冷たかった。昨日の川の水とも、穴の底の水とも違う、歯に沁みるほどの冷たさで、喉を下りていくのが分かる。陽はもう一度すくって飲み、手のひらの水をこぼしながら、ツグミの横顔と、頭の上の壁を代わる代わる見た。


これだけ? 朝から歩いて、脇目も振らずに歩いて、着いた先がこの川原で、やったことが水を一口飲んで座ることだけ。陽は、ツグミがまだ何かを待っているのだと思おうとした。ここは途中で、明日になれば、この壁のどこかを上っていくのかもしれない。それとも、道を間違えたのか。村へ入る分かれ目を、うっかり行き過ぎて、引き返し方が分からなくなっているのか。


「……迷った?」陽はツグミの横に腰を下ろして、小さく言った。「いや、迷ってないよな。迷ってる顔じゃないもんな、それ」


ツグミは壁を見上げたまま、短い音を一つ漏らした。陽に向けたのかどうかも分からない、息に音が混ざっただけのようなもので、陽は聞き返さなかった。


日が山の端にかかり、川原の石から色が抜けていく。壁の影が川原の上に長く伸びてきて、二人を呑み込んだ。水の音は、暗くなると大きくなったように聞こえる。陽は膝を抱えて、明日のこと、今夜のことを考えかけた。泊まる所。食べる物。昨日の晩のように、また草の上で寝るのだろうか。そう思っているところで、ツグミが立ち上がった。


袋を背負い、陽のほうを見ずに、川原の斜面を上がっていく。陽は慌てて立ち、尻についた砂を払いながら後を追った。ツグミは畑の縁に出て、村の真ん中のほうではなく、壁にいちばん近い端へ向かっていく。壁の影の中に低い屋根の家が一軒ある。


戸口の隙間から明かりが漏れていた。ツグミは足を緩めず、その明かりへまっすぐ歩いていった。


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