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名無しと勇者 〜転生先で「勇者」と呼ばれた俺と、「名無し」と呼ばれる少女〜  作者: 猫間じん


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半分の会話

戸口の前でツグミが足を止めたとき、陽はまだ畑の縁を回っている途中だった。追いついて横に並ぶと、戸の隙間から漏れる明かりがツグミの頬に細い筋を引いていて、中からは鍋の煮える音と、何かを擦る音が聞こえてくる。ツグミは戸を叩かない。声もかけず、明かりの前に立ったまま、中の音を聞いているように見えた。


陽が、叩く? と訊きかけたところで、戸が内から開いた。


出てきたのは女の人で、片手に布、もう片方の手に木でできた何かの道具を持っていた。布で道具の柄を拭きながら戸口に立ち、拭く手を止めないまま、ツグミを見て、陽を見て、またツグミを見る。陽より少し背が低く、袖をまくった腕が太かった。明かりを背にしていて、顔の半分が影になっている。


ツグミが話しはじめた。陽がツグミの声をこんなに続けて聞くのは初めてだった。短い音がいくつも連なって、途中で少し高くなり、低くなり、息継ぎのところで一度だけ川原のほうを指さして、また続く。陽には一つも分からない。分からないが、ツグミが急いでいないことは分かる。言葉を探しているふうでも、頼み込んでいるふうでもなく、道の分かれ目で行き先を選ぶときと同じ調子で、ツグミは音を並べていった。


女の人は道具を拭きながら聞いていて、ツグミの指が川原を指したところで、手が止まった。


「上の水を?」女の人は眉を上げた。「わざわざ、あれを飲みに?」


ツグミが短く何か言う。女の人は、ふうん、と鼻から息を抜いて、また柄を拭きはじめた。拭きながら、目だけが陽のほうへ動いた。


「……その人は?」


ツグミが陽を見ずに、音を二つ三つ並べた。


「ああ、連れか」


陽は、そこでようやく自分の番が来たと思った。一歩前に出て、両手を胸の前で広げる。村の戸口で何度もやった手つきが、考えるより先に出てきた。


「どうも、夜分にすいません! 連れです。連れの、ヨウっていいます。こう見えて一応、勇者やってまして。レベルはまだ低めですけど」


「ゆうしゃ」


「そう、勇者。女神さまに呼ばれて、はるばる下りてきたっていう、あの。いや、あのって言われても困りますよね。俺も最初はそうでした。怪しい者じゃないです、って言うと余計怪しいのは分かってるんですけど、本当に怪しくないんで。飯も食いますけど、よく寝ますし、よく働きます。たぶん」


女の人はしばらく陽の顔を見ていた。それから口の端が持ち上がって、布を持った手の甲で口もとを押さえ、肩を揺らした。


「よく喋る勇者だね」


「よく言われます」


「知らないね、勇者ってのは」女の人は笑ったまま首を振った。「まあいい。入んな。狭いよ」


女の人は戸を大きく開けて、脇へ退いた。陽は、どうもどうも、と頭を下げながら、胸の内で小さく拳を握っていた。通った。村の戸口はどこでも同じで、最初の十秒で笑いが取れれば、だいたいのことは何とかなる。


ツグミは陽より先に敷居をまたいでいた。中は土間と、一段上がった板の間が一つで、奥に竈がある。竈の火が土間を赤く照らしていて、鍋から湯気が上がっている。壁際に甕が三つ並び、そのうちの一つの縁に柄杓が掛けてあった。梁からは束ねた草や網が下がり、板の間の隅に、さっき女の人が拭いていたのと同じような道具が、布の上にいくつも並べてある。先の曲がったもの、平たいもの、細い棒の先に毛の束がついたもの。どれも使い込まれて色が変わっているのに、刃のあるところだけが明かりを弾いていた。


ツグミは袋を下ろして、板の間の端に腰をかけた。足を土間に垂らし、背中を柱に預けて、竈の火を見ている。


屋根の下にいる。


陽は土間に突っ立ったまま、それを見ている。ヨリでは、ツグミは一度も家の中に入らなかった。飯は戸口の外で受け取り、夜は村の外れの木の根もとで袋にもたれて眠った。陽は筵を借りてその横で寝て、それを、ツグミが遠慮しているのだと思っていた。いまツグミは、初めて来た家の板の間に座って、自分の家の火を見るような顔で、竈を見ている。


陽は口を開けた。竈の前にしゃがんで鍋の中を木の匙でかき回している女の人の背中に向かって、訊こうとした。火を受けたその上着の背は、青く染めた布だった。


「あの子が——」


女の人が振り向いた。「うん?」


陽はあとに続くはずだった言葉を探した。名無しでもいいんですか、とか、ヨリでは、とか。探しているうちに、板の間の端のツグミが目に入った。柱に背を預けて竈の火を見ている横顔は、こっちの話に少しも用のない顔をしていて、陽は開けた口をそのまま閉じ、閉じてから、急いで別の言葉でふさいだ。


「あの子、めちゃくちゃ食うんで。先に謝っときます。ほんとに、すごい食うんで」


「いいよ」女の人は鍋に向き直った。「食うのはいいことだ」


奥の暗がりから子どもが一人出てきた。陽の胸くらいの背丈で、寝ていたのか、目をこすりながら女の人の袖を引き、引きながら陽とツグミを見比べて、目を丸くした。女の人が子どもの頭に手を置き、何か短く言うと、子どもは頷いて、甕の縁から柄杓を取り、椀に水を汲んでツグミのほうへ持っていった。ツグミが受け取って飲む。子どもはその横にしゃがみ込み、ツグミの袋と、紐に下がった残りの葉の包みを、珍しそうに眺めている。眺めていた顔が一度こちらを向いて、竈の火が子どもの目に入った。黒目のまわりに輪が二つ重なっていて、外の輪と内の輪とで色が違う。陽はそれを見て、見ただけで、何も言わなかった。陽の分の水は、女の人が汲んでよこした。


飯は鍋の中身を椀に分けたものだった。穀物の粒を煮崩したところに青い葉と、細かく裂いた何かの干物が入っていて、湯気の中に川の匂いがする。女の人が椀を配り、板の間に四つ並べたところで、戸口のほうで足音がした。


戸を開けて入ってきたのは男の人で、肩に鍬を担いでいた。鍬を戸の脇に立てかけ、土間で足の泥を落とし、顔を上げて、陽とツグミを見る。見ても驚かず、女の人のほうへ目をやった。


「客だよ」女の人が言った。「上の水を飲みに来たんだとさ」


「ほう」男の人は板の間に上がって、女の人の隣に腰を下ろした。「そりゃ、ご苦労なこった」


陽は二人を見比べた。女の人と男の人が並んで座っていて、竈の火が二人の顔を同じ色に染めている。額の形が似ていた。目もとも似ている。男の人の髪は黒く、頬に張りがあって、腕も女の人と同じくらい太い。並んでいると、どちらが先に生まれたのか、陽には見分けがつかなかった。


陽は椀を膝に置いて、男の人のほうへ身を乗り出した。


「お兄さんですか? いやあ、似てますね。目もとがそっくり」


子どもが噴き出した。椀を持ったまま身体を折って笑い、笑いながら男の人を指さした。


「じいちゃんだよ」


「え?」


「じいちゃん。かあちゃんの、とうちゃん」


陽は男の人を見た。男の人は椀を口に運びながら、目だけで少し笑っていた。女の人は何も言わずに匙を動かしている。陽は子どもに目を戻し、子どもがまだ肩を震わせているのを見て、ああ、と思った。からかわれている。よそ者が来たら、とりあえず一つ担いでおく。どこの村にもある冗談だ。


「うまいなあ」陽は子どもを指さして笑い返した。「いまの間、完璧。危うく信じるとこだった。じいちゃんね。はいはい、じいちゃん」


子どもはもっと笑った。男の人は何も言わず、椀の中身をすすっている。陽は、うまく乗れたと思い、少し満足して、自分の椀に口をつけた。


熱く、塩が効いていて、干物の味が穀物の粒に沁みている。陽はひと口ごとに、うまい、と言いそうになるのを我慢して、三口目で我慢しきれずに言った。女の人は、そうかい、と言っただけで、自分の椀には手をつけずに、鍋の具合を見ている。


ツグミは、陽が半分も食べないうちに椀を空にしていた。空になった椀を膝に置き、何も言わずに鍋のほうを見ている。女の人は、それを見て、何も言わずにツグミの椀を取り、鍋から二杯目をよそって返した。ツグミは受け取って、また食べはじめる。子どもが目を丸くしてそれを見ていて、見られていることにツグミは構わない。


二杯目が半分になったところで、ツグミは椀を置き、袋の口を開けて、中から葉にくるんだものを取り出した。葉を広げると、昼に川原で焼いた魚が一匹、冷えて身の締まった姿で出てくる。ツグミはそれを頭からかじり、椀の中身と交互に口に運んだ。子どもが身を乗り出して魚を見て、ツグミの顔を見て、また魚を見る。ツグミは子どもに目もくれず、骨ごと噛み砕いていく。


「あんた、それ、どこで」と女の人が言いかけて、やめた。「……まあ、いいか。食いな」


陽は、先に謝っといてよかった、と思いながら、自分の椀の残りを平らげた。女の人がまた何も言わずに、陽の椀にも二杯目を入れた。


食べ終わると、女の人は椀を集めて甕の水ですすぎ、男の人は板の間の奥で網の繕いを始めた。子どもはツグミの横に張りついていて、ツグミの紐に下がった輪を指でつついては、ツグミの顔を窺っている。ツグミはつつかれるままにしていて、ときどき、子どもの指を払うでもなく、自分の指で輪を揺らしてみせた。陽は板の間の端に座って、竈の火が小さくなっていくのを見ていた。


腹が温かく、足の裏がじんじんする。朝から歩き通しで、坂を上り、川原に座り、また歩いて、いまここにいる。陽はさっきの戸口のことを思い出した。勇者です、と言って、笑いが取れて、入んな、と言われた。ヨリでは村の人が最初から勇者さまと呼んだが、ここでは誰も知らず、知らなくても通った。やっぱり最初の十秒だ、と陽は思い、自分でもよく分からない満足のようなものを、膝を抱えて味わった。


女の人が甕の脇から筵を二枚引き出してきて、板の間の奥、網の山の手前に並べて敷いた。敷きながら、ここ、と顎で示し、示したあとはもう背を向けて、竈の灰を掻き寄せている。ツグミは子どもを袖にぶら下げたまま筵の上に移り、袋を頭の下に押し込んで横になった。子どもは男の人に呼ばれて、名残惜しそうに奥の暗がりへ戻っていく。陽はもう一枚の筵の端に腰を下ろし、借りた筵の手ざわりが、ヨリで借りたものと同じくらい粗いことに気づいて、なぜか少し笑った。横になると、梁が見えた。梁の上に屋根の裏が見え、その向こうの見えないところで、上から落ちる水の音がかすかに続いている。ツグミはもう目を閉じていて、息が静かだった。


竈の火がほとんど熾になったころ、戸口のほうで、戸を叩く音がした。


叩き方が強い。陽は身体を起こした。女の人が灰を掻く手を止め、男の人が網から顔を上げた。ツグミは目を閉じたまま動かない。戸の向こうから、低くて大きな男の声がした。


「イサ。起きてるだろう」


女の人はしばらく戸を見ていた。火掻きを竈の脇に立てかけ、布を肩に掛けて、戸口のほうへ歩いていく。戸に手をかける前に、もう一度だけ振り返って、陽とツグミのほうを見た。戸の向こうの声が、もう一度言った。


「今年の順の話だ」


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