月の頭
目を覚ますと、板の間の奥の筵はもう空だった。ツグミの袋も無く、筵の上に、ツグミの形に潰れた跡だけが残っている。陽が身体を起こすと、土間の竈の前にいた子どもが振り返り、戸口の外を指さして、川、と言った。朝から川へ行ったらしい。陽は、ああ、と言って頷き、頷いてから、ゆうべの戸口の声を思い出した。
戸を叩いた男の声は大きく、戸口でしばらく何か言い合っていた。陽は筵の上で半分眠っていて、聞こえたのは、順、と、上がる、と、わしは、という切れ端だけだった。女の人のほうは、ほとんど返事をしていなかった。戸が閉まる音がして、それきり静かになったのを、陽はぼんやり覚えている。男が戸口で呼んだ名前も覚えていた。イサ。
そのイサは、土間の隅にしゃがみ込んで、ゆうべ布の上に並べてあった道具を一つずつ縄で束ねていた。先の曲がったもの、平たいもの、毛の束のついた棒。束ねた縄の結び目を引いて確かめ、確かめてはほどいて、もう一度結び直す。結び直しながら、口の中で何か数えている。陽が起きたのに気づくと、手を止めずに顎だけで竈の鍋を示した。
「食っときな。今日は月の頭だ」
「月の頭って、何かあるんですか」
イサは答えず、結び目をもう一度引いた。奥から、ゆうべ鍬を担いで帰ってきた男が出てきて、網を肩に掛けながら陽を見て、見ただけで何も言わずに戸口を出ていった。陽は鍋の残りを椀によそい、立ったまま掻き込んで、イサが道具の束を肩に担いで立ち上がるのを見ていた。
イサが戸口を出ると、陽もなんとなく後についた。
外はまだ薄暗く、谷の底に朝の靄が溜まっている。家の裏へ回ると、壁が急に近くなる。ゆうべ川原から見上げたときより、ずっと高い。灰色の面が空の半分を塞いでいて、その下のどこかから、水の落ちる音が途切れずに響いてくる。陽は首が痛くなるほど見上げてから、イサの背中に目を戻した。イサは壁を見上げない。足もとだけを見て、道具の束が揺れないように片手で押さえながら歩いていく。
上への道は家の裏から始まっていた。壁の足もとへ向かって斜面を斜めに上がる細い道で、ところどころに石が段のように据えてある。その入口に、もう五、六人が集まっている。村の男と女で、みんな手ぶらで、壁の上のほうを見たり、足もとを見たりしている。頭の上まで耳の尖った者も、一人混じっていた。その真ん中に、背の高い男が一人、腕を組んで立っていた。
ゆうべの声の男だ、と陽はすぐに分かった。肩幅が広く、首が太く、組んだ腕の上に顎を載せるようにして、近づいてくるイサを見ている。イサが入口の前で足を止めると、男は腕を組んだまま言った。
「来たか」
「来るさ、タツ。今年はうちの順だ」
「分かってる。順がうちじゃないのは分かってる」男の声は、集まった全員に聞かせるように大きかった。「だがな、イサ、上がったことのない者に、あそこは任せられん。順がどうこうじゃない」
「父さんから全部聞いてる」
「聞いてるのと、やったのとは違う」
「蓋を外す。内の壁を上から掻く。掻いた泥を……」イサは肩の道具の束を担ぎ直し、担ぎ直したところで言葉が途切れて、束の縄をもう一度指で確かめた。「……泥を、口の外へ出す。順番は全部言える」
「言えるのは知ってる」
タツはそれ以上は言わなかった。言わずに腕を組み直した。イサも黙った。二人のあいだには誰も入っていかない。集まった村の者は、タツを見て、イサを見て、またタツを見ている。
陽は、これは知っている、と思った。会議室で何度も見た形だ。どっちも正しいことを言っていて、どっちも引く理由がなくて、引いたほうが負けになる。こういうときは、誰か一人が間抜けな顔をして真ん中に出ればいい。
「あのー、すいません。部外者が口を挟むのも何なんですけど」陽は片手を挙げて、二人のあいだに半歩出た。「それ、二人で一緒に上がるって手は無いんですか。ほら、片方がやって、片方が見てる、みたいな。見て覚えるのも大事っていうか。俺も新人のころ、隣で先輩のやるの見てるだけの日とかありましたし。めちゃくちゃ暇でしたけど」
何人かが噴き出した。村の女の一人が口を押さえて笑い、その隣の男も肩を揺らした。タツも口の端を少し曲げた。
「面白い客だな、イサ」
「連れの連れだよ」
笑いはそこで止まった。タツは腕を組み直し、イサは道具の束を肩から下ろさなかった。村の者はもう陽を見ておらず、また、タツとイサを見ている。陽は挙げた手のやり場に困って、頭を掻いた。笑いは取れたのに、何も動かない。
道の下のほうから足音が上がってきた。
谷の下流へ続く道を、一人の人が歩いてくる。生成りの長い衣を着て、背に小さな荷を負い、手に杖を持っていた。村の者より色が白く、衣の裾に道の土がついている。集まっていた村の者が、その人のために道を空けた。空けながら何人かが頭を下げる。イサも下げ、タツも組んでいた腕をほどいて下げた。陽も慌てて頭を下げ、下げながら、これが神官か、と思った。女神の言っていた、治すのを仕事にしている人。回復役の本職だ。
神官は入口の前で足を止め、壁の上を一度見上げてから、集まった顔を見回した。イサの肩の道具を見て、腕をほどいたタツを見て、また壁を見た。
「今月は、誰が上がる」
誰も答えなかった。イサが口を開きかけ、タツがそれより先に一歩前へ出かけ、二人とも途中で止まった。神官はそれを見て、少しのあいだ待っていた。
「村のことだ」
神官はそれだけ言って、杖をつき、一人で道を上がりはじめた。
誰も動かなかった。
陽は、神官の衣の背中が石の段を一つずつ上がっていくのを見ていた。イサもタツも、村の者も、その背中を見ているだけで、足は一歩も出ない。道具の束はイサの肩に載ったままだ。陽はその場の全員の顔を順に見て、誰も何も言わないのを確かめてから、自分の足が勝手に前へ出るのを感じた。
「ちょっと、すいません」誰にともなく言って、陽は神官の後を追った。
道は見た目よりきつかった。石の段は一つ一つの高さが揃っておらず、ところどころで土が崩れて、段が斜めに傾いている。陽は二度ほど足を取られ、そのたびに手を地面について、神官との間を詰めた。神官は振り返らなかったが、陽が真後ろまで来たところで、杖を止めた。
「何か」
「あ、いや。すいません、急に」陽は膝に手をついて息を整えた。「あの、祈りに行くんですよね、上に。何のために祈るんです?」
神官は陽の顔を見た。怒った顔ではなかった。見慣れない者を見る顔で、それから少し考えるように壁の上を見上げた。
「昔から、そうする」
「昔から」
「月の頭に上がって、祈る。わたしの前の者もそうしたし、その前の者もそうした」神官は杖を持ち替えた。「怠れば、水が細る。それは知っている」
「なんで細るんです?」
神官は答えなかった。答えられないのを隠そうとする顔でもなく、陽の問いを、自分の知っていることの外にあるものとして、そのまま受け取ったような顔をしていた。しばらくして、神官は小さく頷き、また杖をついて上がっていった。
陽はそこで足を止めた。道の先で、灰色の壁に四角い暗がりが口を開けていて、神官の背中がその中へ入っていく。陽は追わなかった。振り返ると、道の入口に集まった顔が、みんなこちらを見上げていた。
陽が下りていっても、誰も何も訊かなかった。陽は入口の脇の石に腰を下ろし、村の者と同じように壁を見上げて待った。タツは腕を組んだまま動かず、イサは道具の束を足もとに下ろして、その横に立っている。誰も喋らない。壁の下から響く水の音だけが、さっきから少しも変わらずに続いている。
どれくらい待ったか、神官が道を下りてきた。上がっていったときと同じ速さで、杖をつき、段の傾いたところでは杖を先に置いて確かめてから足を下ろす。入口まで来ると、神官は集まった顔をもう一度見回し、誰にともなく小さく頭を下げて、谷の下流への道を帰っていった。衣の背中が畑の向こうに見えなくなると、村の者はばらばらに散りはじめた。
タツは最後まで残っていた。イサの足もとの道具の束を一度見て、何か言いかけ、言わずに背を向けて道を下りていく。下りながら、段の崩れかけたところを、見もせずに一つずつ跨いでいった。足の運びに迷いがない。どこが崩れるのかを、目ではなく足が覚えているような歩き方だった。イサは束を担ぎ直し、タツとは別の道を畑のほうへ下りていった。
昼、陽は川へ下りた。
家の前の畑を抜けて川原へ出ると、浅瀬の脇でツグミがしゃがんでいた。少し離れた流れの中で、この家の子どもが石をひっくり返しては何か探している。ツグミの前の石の上には、摘んだ草が何本も並べてあった。葉の細いもの、茎の太いもの、根に土のついたもの。陽が隣にしゃがむと、ツグミは並べた中から茎の太いのを一本取って、根もとの皮を爪で剥き、中の白いところをかじった。かじりながら、残りを陽の顔の前へ突き出す。
「ルヒ」
陽は茎を受け取った。ツグミを見ると、ツグミは茎を顎で示して、もう一度言った。
「ルヒ」
陽は、ツグミがやったように皮を剥いてかじった。青臭く、少し甘く、噛むと水が出てくる。
「ルヒ」と陽は言った。
ツグミが頷いた。それから並べた中から葉の細いのを一本取り、陽の顔の前で振ってみせる。陽はそれを指さして首を傾げた。
「ルヒ?」
ツグミは首を横に振り、葉を川へ放った。細い葉は流れに乗って、くるくる回りながら下っていった。
食える、だ。陽は手の中の茎を見下ろした。ヨリの林で赤い実を叩き落とされたとき、陽はそれを、駄目、だと思っていた。駄目、ではなくて、食えない、のほうだったのかもしれない。陽は残りの茎をかじりながら、並んだ草を一本ずつ指さしていった。ツグミは指されるたびに、頷くか、首を振るかする。首を振られた草は、陽が自分で川へ放った。
夕方、陽はイサの後について家へ戻った。陽が川原から上がってくると、イサが畦の上に立っていた。肩には朝と同じ道具の束が載っていて、手に土がついている。並んで歩きだしてしばらく、イサは前を向いたまま言った。
「今日は、誰も上がらなかった」
「神官さんは上がってましたけど」
「祈るだけだ。蓋は開けてない」イサは肩の束を担ぎ直した。「一月くらいなら、どうってことはない。二月続けて放っとくと、細る。……よその村で、去年、それを試したのがいてね」
「試したって」
イサはそれには答えず、少し歩いてから、ふうっと息を吐いた。
「次の月の頭は、落とせないってことさ」
陽は少し考えてから言った。
「タツさんと、ちゃんと話したら、何とかなりません? なんか、お互い言ってることは分かるっていうか。どっちも、上をちゃんとしたいって話じゃないですか。だったら、落としどころっていうか」
「話したさ」
イサはそれだけ言って口を閉じた。陽はその横顔を見て続きを待ったが、続きは無い。イサの足が少し速くなり、陽は半歩遅れてついていった。話したのなら、話し方の問題なのかもしれない、と陽は思った。どこかに、二人とも引ける言い方があるはずだ。
その夜、陽は筵の上で寝返りを打って、目を開けた。ツグミは隣の筵で眠っていて、奥の暗がりからあの男と子どもの寝息がしている。土間のほうに、竈の熾の赤い色が残っていた。
その前にイサが座っていた。膝の上に先の曲がった道具を載せ、布で、刃のところをゆっくり拭いている。拭いては熾の明かりにかざし、かざしてはまた拭く。布が金物を擦る音が、低く、途切れずに続いている。陽は筵の上で身体を起こしかけて、やめた。
次の月の頭まで、ひと月あった。




