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名無しと勇者 〜転生先で「勇者」と呼ばれた俺と、「名無し」と呼ばれる少女〜  作者: 猫間じん


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12/36

川魚

月の頭から何日か経った。陽が目を覚ますと、隣の筵はたいてい空になっていて、昼過ぎになると、ツグミが草や根を抱えて川のほうから戻ってくる。陽が目を覚ましてから川原へ下りていく日もあれば、家の前に座って、子どもが石を並べて遊ぶのを眺めている日もあった。畑のほうを見ると、たいていイサの背中がそこにあり、夜になると、イサは熾の前で道具を拭いている。上への道の入口に人が集まっているのを、陽はあれから一度も見ていない。


その朝、陽が戸口で顔を洗っていると、袖を引かれた。


振り返るとツグミが立っていて、陽の袖をつまんだまま、もう片方の手で川のほうを指している。陽が、川? と訊き返すより先に、ツグミはその指を陽の胸へ向け、それから自分の胸へ向けた。最後に指を一本ずつ立ててみせる。一本、二本、三本。立てた指を陽の顔の前で揺らして、また川を指した。


陽は濡れた顔を袖で拭きながら、その指の動きを頭の中でなぞった。川。俺。お前。数。


「……魚捕るの、手伝えってこと?」


ツグミは答えずにもう歩きだしていた。土間の奥から子どもが顔を出して、ツグミの背中と陽の顔を見比べ、何か面白いことが始まると思ったのか、裸足のまま飛び出してきた。


川原へ下りると、ツグミは浅瀬の上手へ回った。陽がついて下りた日に、ツグミがいつもしゃがんでいたあたりだ。流れが岩に当たって二つに分かれ、分かれた片方が岸の窪みに入り込んで、ゆるく渦を巻いている。ツグミは裾を帯に挟んで水に入り、渦の縁にしゃがんで、水面をじっと見た。


陽は、ここだな、と思った。ツグミが待ち構えていて、自分が魚を追い込む。役割分担だ。陽は裾をまくって少し下手から水に入り、両手で水面を叩きながら、ツグミのほうへ上がっていった。


「はい、行ったー。そっち行ったよ、そっち。ほらほら」


水を叩くたびに石の陰から細い影が散り、その何匹かは確かにツグミのほうへ逃げていき、陽は得意になって、さらに大きく水を叩いた。


ツグミが立ち上がった。水を掻き分けて陽の前まで来ると、陽の手首を掴んで水面から引き上げ、そのまま陽の身体を押して、下手の、流れの速いほうへ向けた。向けてから陽を指し、下手の流れを指す。それから自分を指し、自分がさっきまでしゃがんでいた渦を指す。最後に、陽の顔の前で、また指を一本、二本、三本と立てた。


陽はしばらくその指を見ていた。


「……あ。え、勝負? そういうこと?」


ツグミは陽の手首を離して、渦のほうへ戻っていった。川原の石の上に座り込んだ子どもが、膝を抱えて笑っている。


「いや、言ってよ。言えないのか。いや、でも、えー」陽は下手の流れを振り返り、ツグミの背中を見て、子どもの笑い顔を見た。「……分かった。分かりました。やりますよ。やってやろうじゃないの」


言ってから、自分の声が思ったより本気だったことに気づいて、陽は少し可笑しくなった。可笑しくなったが、それで気が抜けることはなく、陽は下手の流れの中に足を踏ん張って、水面を睨んだ。


魚は見えた。見えるのに、捕れない。流れの中で細い影が石の陰に入っていくのを見て、そっと両手を沈め、石の両側から囲むように寄せていくと、手が届く前に影はもういない。陽はもう一度、もっと遅く手を寄せたが、同じだった。石をひっくり返してみても、いない。ひっくり返した石の下から泥が舞い上がって、あたりが濁り、濁りが流れていったあとには、さっきより影が減っていた。


上手で水が跳ねる音がした。見ると、ツグミが両手を胸に抱え込んで立ち上がり、岸へ上がっていくところだった。岸の平たい石の上に何かを置いて、また水に戻る。子どもが石のそばへ駆け寄り、覗き込んで、陽のほうへ向かって片手を挙げてみせた。


陽は下手の流れに向き直りかけて、その前に一度だけ、上手のツグミをちゃんと見た。


ツグミは渦の縁から少し離れて、浅いところを歩いていた。歩くといっても、ほとんど足を上げない。水の中で足の裏を石から石へ滑らせるようにして、流れの外側からゆっくり回り込み、回り込みながら両手を低く広げている。広げた手で水を押しているのか、押していないのか、陽の目には分からない。ただ、ツグミが回り込んだぶんだけ、石の陰にいた影が少しずつ渦の奥の、岸の窪みのほうへ寄っていくのが見えた。窪みの入口は狭く、奥は浅い。ツグミは入口の前にしゃがみ、そこでやっと手を水に入れた。


追いかけてない、と陽は思った。囲んでるんだ。


陽は下手の流れに向き直り、ツグミのやり方を思い出そうとした。追いかけない。待つ。手を水の上に止めて、止めたまま、長いあいだ動かない。陽は石の陰の近くにしゃがみ、両手を水面の少し上に浮かせた。流れが脛を押して、足の裏の石がぬるりと動く。影が一つ、石の陰から出てきて、陽の手の下で止まった。陽は息を止めたまま、手を下ろした。


足が滑った。


膝から先が流れに持っていかれ、陽の身体は横倒しに水の中へ落ちた。冷たさが脇腹から首まで一気に這い上がり、口と鼻に水が入って、陽は川底の石に手をついて起き上がった。咳き込みながら顔を上げると、びしょ濡れの前髪の先から水が垂れて、目の前がぼやけている。


川原で子どもが引っくり返って笑っていた。上手では、ツグミが水の中に立ったまま、こちらを見ている。


「……今の無し。今のはチュートリアル」


陽は岸へ上がって石の上に座り込んだ。服が肌に貼りつき、重たくて冷たい。袖を絞ると、思ったより多くの水が出た。子どもが笑いを引っ込めきれないまま近づいてきて、陽の足もとにしゃがみ、陽の踏んでいたあたりの流れを指さした。


「あそこ、苔の石だよ。ぬるぬるのとこに乗ったら、そりゃ転ぶ」子どもは自分の裸足を持ち上げて、足の裏を陽に見せた。「砂のとこか、でこぼこの石のとこに置くんだ。平らでつるつるの石は駄目」


「……先に言ってよ、それ」


「だって、あんちゃん、ねえちゃんの手伝いしてたじゃん」


陽は返す言葉が無くて、濡れた髪を掻き上げた。それから立ち上がり、子どもの言った砂のところを選んで、また流れの中にしゃがんだ。


一匹捕れたのは、日が高くなってからだった。捕ったというより、流れの速いところで足もとにぶつかってきた影を、両手で水ごと掬い上げたら、その中にいた。手の中で跳ねるのを胸に押しつけて抱え込み、陽は膝まで水に浸かったまま、声を上げた。


「捕った! 捕ったぞ、おい、見た? 今の見た?」


子どもが手を叩いた。陽はそれを抱えたまま岸へ上がり、ツグミが魚を置いている平たい石のところまで行って、その隣に自分の一匹をそっと置いた。


ツグミの側には魚が並んでいて、陽は数えるのをやめた。


ツグミが水から上がってきた。裾を帯から抜いて、濡れた手を腿で拭き、石の前にしゃがむ。陽も向かいにしゃがんだ。子どもがあいだに首を突っ込んでくる。ツグミは並んだ魚のいちばん端の一匹を指さして、陽の顔を見た。


「ネハ」


「ネハ」と陽は言った。


ツグミはそれで満足したように、端の一匹から順に、魚の背に指を一本ずつ置いていった。置くたびに短い音を一つ言い、音はどれも違っていて、陽にはどれも聞き取れない。指が端まで行って、最後の一匹の背に置かれ、最後の音が一つ出た。ツグミはそこで指を止めて陽を見た。


それから陽の一匹を指さし、もう片方の手の指を一本だけ立てて、陽の顔の前に突き出した。


「エナ」


陽はツグミの立てた指を見た。自分の一匹を見た。一匹。一本。


「……エナ」


ツグミが頷いた。


「ねえちゃんの勝ち!」子どもが石の向こうで跳ねた。「あんちゃんの負け!」


「いや分かってるよ。見りゃ分かるよ。言わなくていいよ」


ツグミが、笑った。


声を出して、肩を揺らして、しゃがんだまま少し後ろへ仰け反るようにして笑った。陽の濡れた髪を指さしたのか、陽の一匹を指さしたのか、どちらともつかない手つきで一度だけ何かを指して、また笑った。それから立ち上がり、並んだ魚を両腕に抱え上げた。陽の一匹も、同じように抱えた魚の山の上に載せた。


陽は何か言われるのを待っていた。昼休みの腕相撲でも、勝ったやつは何かしら言ったものだ。ツグミは何もしなかった。魚を抱えて川原の斜面を上がっていき、振り返りもしない。子どもがその後ろを跳ねながらついていった。


陽は濡れた服のまましばらく石の上に座っていて、それから立ち上がって二人の後を追った。


家の前ではイサが桶を出して待っている。ツグミが抱えてきたものを桶に空けると、イサは桶の中を覗き込み、覗き込んだまま眉を上げて、ツグミを見て、陽を見た。陽の濡れた服と、濡れた髪を見た。


「どっちが捕ったかは、訊かないでおくよ」


イサは桶を抱えて、裏の水路のほうへ回っていった。子どもがその後を追いかけて、ねえちゃんの勝ち、とまた言っている。ツグミは戸口の脇に腰を下ろし、濡れた足を日に当てて、目を閉じていた。


陽は濡れた服を脱いで、戸口の脇の垣に掛けた。借りた布を腰に巻いて日向に座ると、ツグミの隣になった。ツグミは目を開けずに、陽のほうへ少しだけ尻をずらして場所を空けた。空けただけで、それ以上は何もしない。家の裏から水を使う音が聞こえてきて、しばらくすると煙の匂いが流れてきた。子どもが裏から駆け戻ってきて、陽の前で立ち止まり、陽の腰の布を見て噴き出し、それからツグミの横にしゃがんで、ツグミの濡れた足の指を一本ずつつついた。ツグミは目を閉じたまま、つつかれた指だけをぴくりと動かした。


昼に出た椀には、焼いたものの身がほぐして入っていた。イサは何も言わずに椀を配り、ツグミの椀にだけ、ほかより多く盛った。ツグミはそれを当たり前のように受け取って食べ、陽は自分の椀の中を覗き込んで、この中に自分の一匹がどれくらい入っているのかを考えかけ、考えるのをやめて食べた。うまかった。


夕方、陽は乾いた服を着直して、もう一度川原へ下りた。手にまだ魚の匂いが残っている気がして、流れに両手を浸け、指のあいだまで擦った。擦りながら、エナ、と口の中で言ってみた。流れの音にまぎれて、自分の耳にもほとんど聞こえなかった。


顔を上げると、夕日が壁の上のほうを赤く照らしていた。その下、家の裏から始まる上への道の入口に、人が一人立っている。


タツだった。腕を組まずに、両手を下ろしたまま、道の先の、壁の上のほうを見上げている。陽が川原から見ていることには気づいていないようだった。


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