橋が落ちてから
朝いちばんの仕事は水甕だった。土間の隅に並んだ甕は三つで、どれも陽の腰ほどの高さがある。イサはそれを朝のうちに満たすと決めていて、陽が筵の上で起き上がるころには、もう戸口に桶を二つ並べて待っていた。桶の脇には天秤の棒が一本立てかけてある。
「今日は手があるからね」イサは顎で棒を示した。「あんた、担いでみな」
陽は棒を肩に載せ、両端の縄に桶を引っかけて、家の裏の水路まで下りた。水路は畑の縁に沿って掘られた細い溝で、壁のほうから来た水が、石で組んだ段を一つずつ落ちながら流れていく。溝の縁に竹を割った樋が差し込んであって、そこから落ちる水を桶で受けるらしい。先に来ていた隣の家の女が、樋の下から桶を引き上げて、陽に場所を空けてくれた。女は自分の桶を棒に掛けると、しゃがんだ姿勢から膝を伸ばすだけで立ち上がり、そのまま斜面を上がっていく。棒は肩の上で少しも傾かなかった。陽は桶を一つずつ樋の下に置き、満ちるのを待って、また棒に掛けた。
立ち上がろうとして、立てなかった。
棒が肩に食い込み、膝が笑って、桶が左右に揺れて縁から水がこぼれる。陽はもう一度、腰を落として踏ん張り、息を止めて持ち上げた。持ち上がりはしたが、一歩目で桶が脛に当たり、二歩目でまた水がこぼれた。家までの斜面を半分上がったところで、陽は棒を下ろして肩をさすった。
後ろからイサが上がってきた。イサも棒を担いでいて、両端の桶は陽のものより一回り大きく、縁まで水が張っている。イサはそれを揺らしもせずに陽の横を通り過ぎ、通り過ぎざまに陽の桶を覗いて、何も言わずに上がっていった。桶の水面が、イサの歩く調子に合わせてわずかに揺れているだけで、一滴もこぼれない。
陽は自分の桶を見下ろすと、どちらも三分目ほどしか残っていなかった。
結局、陽は桶を半分ずつにして運ぶことにした。半分なら持ち上がるし、こぼれるのも少ない。そのかわり往復の数は倍になって、陽が四つ目の往復に入ったころには、イサの分の甕は二つとも満ちていた。三つ目の甕を満たし終えたとき、陽のふくらはぎはぱんぱんに張っていて、肩には棒の形の赤い筋がついていた。
陽が甕の縁に手をついて息を整えていると、隣の家の女がもう二度目の水を運んで、戸口の前を通り過ぎていった。
「上等だよ」イサは甕の縁に柄杓を掛けながら言った。「初めてにしちゃ」
「初めてじゃないんですよ、実は。前のとこでも一回、桶持ったことあって」陽は肩をさすりながら笑った。「そのときも、全然持てなかったんですけど。筋力がたぶん、初期値のままなんですよ」
イサは、そうかい、と言って、甕の水面を覗き込んだ。覗き込んだまま少し首を傾げている。
「朝のうちに満たしとくんだ。昼に汲むと、濁ってる気がしてね」
「濁るんですか」
「気がするだけかもしれない。気のせいでもいい」
イサは柄杓で一杯すくって飲み、残りを甕に戻した。
昼前、陽は畑の縁で子どもに呼ばれた。
子どもは畝のあいだの溝にしゃがみ込んで、木の棒で土を掘っていた。陽が覗き込むと、棒の先で何かを叩いて、こつこつと鈍い音を立ててみせる。掘った穴の底に、土と同じ色をした硬いものが横たわっていた。丸い。太さは陽の腕ほどで、穴の両端の土の中へ、まっすぐ続いている。
「見て。ほら」
子どもは棒で土をさらに掻き出した。土の下から出てきた部分に、筋が一本、ぐるりと巻いている。筋の手前と向こうで、表面の色がわずかに違う。継ぎ目だ、と陽は思った。二本の管がそこで繋がっている。
陽はしゃがんで拳の背で管を叩いてみた。中が空っぽの音がした。
「これ、何?」
「昔の水の道」子どもは得意そうに言った。「畑を掘ると、あちこちから出てくるんだ。じいちゃんの畑にも、タツのとこの畑にも」
「水、通ってないの?」
「通ってないよ。昔のだもん」
子どもはそれ以上は知らないようだった。棒で管の上の土を払い、払い終えると、今度は穴を埋めはじめる。陽は埋められていく管を見ていた。水が通っていない水の道が、畑の下を、まっすぐどこかへ向かっている。陽はそれがどこへ向かっているのかを見ようとして顔を上げ、畑の向こうの壁を見て、また管に目を戻した。土がかぶさって、もう継ぎ目は見えなかった。
昼に戻ると、子どもは真っ先にイサのところへ走っていって、水の道が出た、と報告した。イサは椀を配る手を止めずに、子どもの泥だらけの膝を見た。
「どこを掘った」
「じいちゃんの畑の、端っこ」
「埋めたかい」
「埋めた」
「なら、いい」イサは子どもの椀を差し出した。「掘るのはいいけど、掘りかけで放っとくんじゃないよ。畝が崩れる」
子どもは椀を受け取って、陽の隣に座った。座りながら、埋めたよね、と陽に確かめるように言い、陽が頷くと、満足そうに椀に口をつけた。
昼過ぎ、陽は鍬の男と畑に出た。
子どもにじいちゃんと呼ばれている、あの男だ。鍬を振る腕は陽よりずっと太く、陽は今でも、あの呼び方を子どもの冗談だと思っている。
男は畝の土を返していた。陽は鍬をもう一本借りて、男の隣の畝で真似をした。刃が土に入る角度が悪いのか、陽の鍬は表面を削るだけで、深く入らない。男は何も言わずに陽の鍬の柄を掴み、握る位置を拳一つぶん下にずらしてから、自分の畝に戻った。ずらされた位置で振り下ろすと、刃が土に沈んだ。
しばらく黙って土を返した。畑の下のほうに、水の張られた田が段になって並んでいて、その水面に空が映っている。どの段にも同じ高さまで水が入っていた。段と段のあいだには竹の樋が渡してあって、上の段からあふれた水が、次の段へ細く落ちていく。ほかの田にも人が出ていて、畦に立って水面を眺めたり、樋の口に詰まった草を指で取ったりしているが、水を足したり抜いたりしている者は一人もいない。
「これ、毎年こんな感じなんですか」陽は鍬を止めて、額の汗を拭いた。「なんか、すごいちゃんとしてるっていうか。田んぼ、全部同じ高さまで水入ってるじゃないですか。こういうのって、年によって、雨が少なくて困るとか、不作で大変とか、あるでしょ」
男は鍬を振り下ろし、土を返してから顔を上げた。
「凶作?」
「そう、凶作。ありません? 俺のいたとこだと、ニュースでよく」
「橋が落ちてから、そんなもの一度もない、と聞いてる」
男はそれだけ言って、また鍬を振り下ろした。土の塊が返り、湿った黒い面が上を向く。
「田に水を入れる日も、毎年同じだ」
陽は鍬の柄に顎を載せて、男の横顔を見た。橋が落ちてから。陽の頭に、上がってくる途中の川で見た石の柱が浮かんだ。流れの中に、上に何も渡っていないまま立っていた柱。あれか、と陽は思った。あの橋が流されてから。大水か何かで流されて、それからずっと、この谷では凶作が無い。
十年か二十年か、長く見ても、この男が子どものころの話だろう。そのあいだ一度も凶作が無いのなら、この谷はよほど運がいいか、恵まれているかのどちらかだ。
「へえ。いい土地なんですね、ここ」
男は答えずに土を返し続けた。陽も鍬を握り直して、ずらされた位置で振り下ろした。
日が傾くまで、二人は畝を三本ずつ返した。陽の畝は男の畝より浅く、ところどころで土の塊が返りきらずに横倒しになっていて、男は自分の畝を終えると、陽の畝の端まで来て、倒れた塊を鍬の背で一つずつ起こしていった。陽が謝ると、男は鍬を肩に担いで、田の水面のほうへ顎をしゃくった。見ると、段になった田の水が夕日を映して、どの段も同じ色に光っていた。
夕方、ツグミが川のほうから戻ってきた。両腕に草と根を抱えていて、戸口の前でそれを下ろすと、中から茎の太いのを一本抜いて、皮を剥きながら陽のほうへ突き出した。
「ルヒ」
「ルヒ」陽は受け取ってかじった。昼のあいだ土の匂いばかり吸っていた口の中に、青臭い甘さが広がった。「うまい。いや、ルヒ。ルヒね」
ツグミは陽の言い直しには構わずに、次の一本を剥きはじめた。子どもが寄ってきて、剥かれた皮を拾っては川のほうへ投げている。陽は茎をかじりながら、戸口の脇に腰を下ろした。肩の赤い筋が座ると余計に痛んだ。
夜、陽は筵の上で仰向けになって、梁を見ていた。
隣の筵ではツグミが眠っている。土間では熾が赤く、奥の暗がりからは子どもの寝息が聞こえる。一日じゅう桶と鍬を振り回したせいで、肩も腰も腕も、身体のどこを動かしても痛むのに、目が冴えて眠れなかった。
陽は片手を顔の上に持ち上げて、指を一本折った。
ネハ。魚。川の上のほうへ歩いた日に、ツグミが素手で捕った魚を突き出して言った。
二本目を折った。ルヒ。食える。川原で草の茎を渡されて、かじって、言い返した。
三本目。エナ。一つ。陽の一匹を指さして、指を一本立てて。
三本折ったところで、陽の手は止まった。
どれもツグミから来ていた。どれもツグミが指さして、音にして、陽が言い返して、ツグミが頷いた。そうやって一つずつ覚えた。それ以外に覚えた言葉は一つも無い。
では、村の人の言葉はどうだ。イサの「担いでみな」も、子どもの「昔の水の道」も、あの男の「橋が落ちてから」も、陽は一つも覚えていない。覚えるまでもなく最初から分かった。ヨリの村でもそうだった。桶の男も、鍋の番も、口を開いた瞬間から何を言っているのか分かった。
ツグミの言葉だけが音のままで届く。指さして、繰り返して、頷いてもらわなければ、一つも分からない。
陽は折った三本の指を眺めた。なぜなのかは、分からなかった。この辺りの古い言い回しか何かなのだろうか。村の言葉とは別の、年寄りが使うような、どこかの谷の言葉。ツグミがどこから来たのか陽は知らないし、知らないのだから、そういうこともあるのだろう。
三つとも、陽が自分の口で言い返して覚えた。陽は折った指をそっと握り込んで、握ったまま、しばらく胸の上に置いていた。
土間のほうで布が擦れる音がして、顔を向けると、熾の前に座っていたイサが立ち上がって、こちらへ歩いてくるところだった。手には何も持っていない。イサは陽の筵の足もとで立ち止まり、陽が身体を起こすのを待ってから、しゃがみ込んだ。熾の赤い光が、イサの顔の片側だけを照らしている。
イサはしばらく、何も言わなかった。
「あんた、上まで担いでくれないか」




