段
いいですよ、と陽はあの夜に答えた。答えてから、何を引き受けたのかをイサに訊いた。イサは、上まで道具を担いで、あたしの言うとおりに手を貸してくれればいい、とだけ言い、それ以上は何も言わずに熾の前へ戻っていった。陽は筵の上で、担ぐ、という言葉を何度か口の中で転がし、昼に水甕の桶でふらついた自分の膝を思い出して、少しだけ後悔した。後悔しながら眠った。
次の月の頭の朝、陽はイサの道具の束を背負って、家の裏の道の入口に立っていた。
束は見た目より重い。先の曲がった掻き棒、平たい鋤のようなもの、毛の束のついた長い棒、それに縄と、口を布で縛った空の袋がいくつか。イサがそれを陽の背にくくりつけながら、縄の結び目を一つずつ引いて確かめ、確かめ終えると、陽の肩を掌で一度叩いた。陽が目を覚ましたときには、隣の筵はもう空だった。子どもの話では、また川だという。
入口には、前の月の頭と同じくらいの人が集まっていた。タツもいた。腕を組んで道の真ん中に立っている。村の者はタツとイサを見比べ、それから、イサの後ろで道具を背負っている陽を見て、また二人に目を戻した。
谷の下流から前の月と同じ衣の神官が上がってきた。杖をつき、背に小さな荷を負って、入口の前まで来ると、壁を一度見上げてから集まった顔を見回した。イサを見て、タツを見て、陽の背の道具を見た。
「今日は、落とせない」
神官はそれだけ言って、誰が上がるのかは訊かなかった。
タツが腕をほどき、その手を腰に当て、一度だけ壁のほうを見上げてから、イサに向き直る。口が開きかけて閉じ、もう一度開いた。
「今日だけだ」タツの声は、前の月ほど大きくなかった。「落とせんからな。今日は、落とせん」
それから陽の背の道具の束に目をやって、低く付け足した。
「……決めたわけじゃないぞ」
タツは道の脇へ一歩退いた。退いてそこで止まった。イサが道に足をかけると、村の者も左右に分かれて道を空けた。誰もイサの後に続かない。イサは振り返らずに上がりはじめ、陽は背の束を揺すり上げて、その後を追った。
脇を通り過ぎるとき、陽はタツの顔を見た。タツも陽を見ている。止めようとする顔ではなかったし、止める気があるなら、陽の腕を掴むくらいのことは簡単にできたはずだった。タツは何もしなかった。石の段を何段か上がったところで陽が一度だけ振り返ると、タツはまだ道の入口に立っていて、こちらを見上げていた。
石の段を上がるうちに、背の束が肩に食い込んできた。前の月、神官の後を追ったときは手ぶらだったから気づかなかったが、この道はところどころで段が崩れかけていて、そのたびに足を置く場所を選ばなければならない。陽はイサの足の置き場所を見て、同じ石を踏んだ。神官は二人の後ろから、杖をついて上がってきた。
壁の足もとの四角い暗がりの前で、神官は立ち止まった。入口の脇に平たい石が一つ据えてある。神官は荷を下ろし、その石の前に膝をついて、背の荷から布の包みを出して石の上に広げた。何かを並べ、両手を合わせて、低い声で何か唱えはじめる。陽にはその言葉の意味が分かった。水が絶えないように、上の口が詰まらないように、今月もよく流れるように。神官は同じことを、言い方を変えて何度も唱えている。
イサは神官の背中に一度だけ頭を下げて、暗がりの中へ入っていった。陽も続いた。
中は階段だった。入口から射し込む光が届くのは、最初の数段だけだ。イサは腰の袋から小さな油の灯りを出して、火を点けた。父さんから聞いてる、中は暗いから灯りを持って行け、とイサは言い、灯りを掲げて一段目に足を下ろした。陽は壁に片手をつき、背の束が壁に擦れないように身体を斜めにして、その後に続いた。
足が、段に合った。
陽は二段目でそれに気づいた。暗くて足もとはほとんど見えないのに、足の裏が次の段の縁を探す必要がない。下ろした足が、下ろしたところにちょうど段がある。三段目も四段目も同じだった。膝の曲がり方と段の高さが、最初から決まっていたように噛み合っている。慣れた高さだ、と陽は思った。どこで慣れたのかは、考える前に、背の束の重さに気を取られて流れていった。
イサのほうは一段ごとに灯りを足もとへ向け、段の縁を確かめてから足を置いている。陽はイサの背中にぶつかりそうになって、何度か足を止めた。
階段を下りきると、通路が奥へ続いていた。イサの灯りが壁の一部を黄色く照らしている。その光の輪の先は真っ暗だった。陽がイサの横に並び、一歩、奥へ踏み出したとき、頭の上が白くなった。
天井に近い壁がぼうっと光っている。陽の頭の上から、通路の奥へ向かって、光が一枚ずつ順に点いていく。イサの灯りの黄色い輪が、白い光の中で急に小さくなった。
イサが足を止め、灯りを持った手を下ろさないまま、光る壁を見上げている。
「……こんな灯りは、知らない」
「え、いつもこうなんじゃないんですか」
「父さんは、暗いって言った」イサは光る壁から目を離さなかった。「真っ暗で、灯りが無けりゃ何も見えないって。父さんが上がったときは、そうだった」
陽も壁を見上げた。ホカンの穴でもこうやって光った。陽が歩くと点いて、点いたまま、陽の頭の上をついてきた。ここも同じらしい。そういう造りの建物なんだろう、と陽は思った。
「たまたまじゃないですかね。今日は機嫌がいいとか」
イサは答えなかった。油の灯りの火を吹き消し、袋に戻して、光る通路を奥へ歩きだした。陽の頭の上で光は途切れずに点き続けた。
通路は長かった。陽が一歩進むごとに、頭の上の光が一枚ずつ先へ伸びていく。振り返ると、通ってきた後ろの光も消えずに残っていて、階段の下まで白い筋が続いていた。壁には継ぎ目の無い灰色の面がどこまでも続き、ところどころに、陽の背丈ほどの高さに四角い窪みがある。窪みの中は空っぽで、埃が積もっているだけだ。イサはその窪みの一つ一つを横目で数えるように見ながら歩いていて、数え終えたところで、右へ曲がった。父さんの言ったとおりだ、と小さく呟いたのが聞こえた。
通路の突き当たりから水の音がしている。
広い部屋だった。床の真ん中を、幅の広い溝が横切っていて、そこを水が流れている。溝の向こうの壁に四角い口が開いていて、水はその口へ向かって流れ込み、口の奥で落ちる音がする。谷から見上げた、あの水の出る口の、内側なのだと陽は思った。
溝の手前に、床から一段高くなった四角い箱のようなものが据えてあった。上に平たい蓋が載っている。
イサは背の束を下ろすように陽に言い、束をほどいて、道具を床に並べた。並べる順番まで決まっているらしく、掻き棒、平たいもの、毛の棒、袋、の順に置いていく。置き終えると、イサは箱の前に膝をついたまま、しばらく動かなかった。口の中で何かを唱えている。神官の祈りとは違う、もっと早口の、切れ目のない呟きで、陽の耳には、蓋、上から、泥、口の外、と切れ切れに届いた。一度終わりまで言うと、また頭から言い直す。二度目の途中で声が少し上ずり、イサは言葉を止めて、膝の上で両手を一度握って開いた。それから両手を蓋の縁に掛けた。
「蓋を外す」
イサは口に出して言い、蓋を引いた。蓋はわずかに浮いて横へずれた。イサはそれを箱の脇へ滑らせるように下ろし、下ろしたところで手を止めて、蓋の裏を覗き込んだ。
「内の壁を、上から掻く」
箱の中は暗く、底のほうで水の音がした。イサは掻き棒を差し入れて、内側の壁を上から下へ、ゆっくりと掻いていく。掻くたびに、泥のようなものが棒の先について上がってきて、イサはそれを袋の口へ落とした。一面を掻き終えると、隣の面へ。その隣へ。陽は手持ち無沙汰に、イサの手もとと、壁の光と、溝の水を順に見ていた。
儀式みたいだ、と陽は思った。朝礼で社訓を読み上げるのと、そう変わらない。入口の神官の祈りと、ここでイサがやっていることの区別が、陽にはつかなかった。どちらも決まった順番があって、決まった言葉があって、それをきっちりなぞっている。水はイサが掻く前から流れていた。
「そっちを持って」
イサが箱の奥の側を顎で示した。見ると、箱の奥の壁の上に、もう一枚、小さな蓋のようなものが斜めに立てかかっていた。イサが掻き棒をその下へ差し入れ、てこのように持ち上げると、蓋がこちらへ倒れかかってくる。
「支えて。倒さないで。あたしがその下を掻くまで」
陽は慌てて両手を伸ばし、蓋の縁を掴んだ。
重かった。石なのか、金物なのか、陽の知っているどの重さとも違う、指に食い込むような重さだった。陽は膝をつき、蓋の下に肩を入れかけて、イサに、手だけで、と言われて肩を引いた。両腕だけで支える。肘が伸びきらず、曲げたまま固まって、二の腕の内側が焼けるように熱くなった。
イサは蓋の下へ身体を半分入れて、奥の壁を掻いていた。掻く音が陽の腕のすぐ下から聞こえる。陽の腕が震えはじめた。震えは肘から手首へ、手首から指へ伝わって、蓋の縁がかたかたと鳴った。
イサは手を止めない。一面を掻き終え、袋に泥を落とし、もう一面へ移る。陽は奥歯を噛んだ。息を止めると腕の震えが少し収まり、息を吐くとまた震える。陽は息を細く吐きながら、自分の指の関節が白くなっていくのを見ていた。
「いいよ。下ろして」
陽は蓋をイサの手に渡すようにして、ゆっくりと元の位置へ倒した。倒し終えた途端、両腕から力が抜けて、陽は床に尻をついた。腕がまだ、自分のものではないように震えている。
イサは泥の詰まった袋の口を縛り、残りの手順を一つずつ口に出しながら片づけていった。泥を口の外へ出す。蓋を戻す。道具を拭く。最後に溝の縁に膝をつき、流れる水に手を浸して、しばらくそのままにしていた。
水は掃除の前と同じように流れていた。多くも少なくもならない。陽の目には、何も変わったようには見えなかった。
「これでいい」
イサは濡れた手を膝で拭いて立ち上がった。
陽も立ち上がり、震えの残る腕をぶらぶらさせながら、溝のほうへ歩いた。流れの口の前まで来ると、口の上の壁は、ほかの壁と同じ灰色で、陽の頭の上で光っている。陽はなんとなく、その壁に手を当てた。
冷たく、掌の下で、水の落ちる音が、壁越しに低く伝わってくる。
決めたわけじゃないぞ、とタツは言った。
陽は壁に手を当てたまま、その声を思い出していた。今日だけ。落とせないから。イサの手順は終わって、水はいつもどおり流れていて、それでも、今日のことは何も決まっていないのだと、あの男は言った。陽は掌を壁から離さずに、流れの口の暗がりを覗き込んだ。




