水が来る
壁は冷たく、掌の下で水の音がしている。
頭の上の光は、陽が動かないあいだも点いたままだった。溝の水面がその光を映して、白く揺れている。背中のほうで、イサが道具の束を括り直す音がしていた。縄が擦れる音が、一つ締まってはまた始まる。拭き終えた道具を順に束へ差し込みながら、イサは入口のほうへ一度顔を向けて、神官さまはもう下りてる頃だ、と誰にともなく言った。陽は、そうですか、と返したが、壁から手は離さなかった。
流れの口は陽の胸ほどの高さに開いていた。四角い口の縁は、壁と同じ灰色の面が内側へ折れ込んでいて、その奥は暗い。溝を流れてきた水が口の下の縁を越えて、暗がりの中へ落ちていく。落ちる音は、口の中で一度響いてから、どこか下のほうへ遠ざかっていった。
陽は口の縁に指を這わせていた。壁に当てていた手が、いつの間にか口の縁まで下りてきていて、指の腹が、そこにある筋を拾っていた。壁の面と、口の内側へ折れ込む面の、境目。まっすぐな、髪の毛ほどの細い筋。陽の指はそれを、右の端から左の端まで、ゆっくりなぞった。なぞり終えると、今度は縦の筋を探して、上から下へ。
指の下の筋はどこも欠けておらず、ざらつきも段差も無い。陽の指は筋の端まで行くと止まり、また戻って、同じところをなぞった。なぞりながら陽は口の奥を覗き込んだ。口の大きさのわりに、落ちていく水が細い気がしたが、どれくらいなら細くないのかは陽には分からない。
陽は口の縁に掌を当て直した。溝の水の音と、口の奥へ落ちる音と、背中のイサの縄の音。陽は口を開きかけて、冗談を探し、探しても何も出てこないのに気づいた。出てこないまま、声が出た。
「……もう少し、流れろ」
水の音が変わった。口の奥へ落ちる音が、一段、低く太くなった。溝の水面がわずかに引かれるように傾き、口の縁を越える水の厚みが増して、暗がりの中へ流れ込み、その音が壁越しに陽の掌へ伝わってきた。
背中の縄の音が止まっている。振り返ると、イサが道具を手に持ったまま、陽を見ていた。見ているのが陽の顔なのか、陽の手なのか、陽の手の下の口なのか、陽には分からなかった。イサは何も言わなかった。しばらくそうしていて、それから、手に持っていた道具を束へ差し込み、縄を締め直しはじめた。
陽は口から手を離した。水の音は変わったままだった。
なんで言ったんだろう、と陽は思った。手を離してから、少し遅れて、その問いが来た。ホカンの扉のときと同じように言ってみたら、同じように効くのか。試してみたかったのかもしれない。そう思ってみても、言う前に自分がそれを考えていた覚えは無かった。手が先に口の縁にあって、声が先に出ていた。
帰りは陽が泥の袋を持つことになった。イサが道具の束を背負い、陽が泥を詰めた袋を二つ、縄で括って両手に提げる。光る通路を戻り、階段を上がって、入口の四角い明かりの中へ出ると、外の石の前にはもう誰もいなかった。石の上に、布の包みを広げた跡だけが、うっすら湿って残っている。
道を下りはじめて何段目かで、右手の袋が落ちた。
縄は握っていたはずだった。握っているつもりで歩いていて、気づいたら袋が段の上に転がっていた。陽は立ち止まって自分の右手を見た。指は曲がっていて、何かを握っている形のまま、何も握っていない。
陽は袋を拾おうとしてしゃがみ、縄に指を掛けたつもりで持ち上げると、縄は指のあいだを抜けて、袋はまた段に落ちた。もう一度。指の腹が縄に当たっている感じが無い。縄の太さも、ざらつきも、指の先まで届いてこない。握り込んで、持ち上げて、三度目にやっと袋が浮いた。
前を下りていたイサが振り返り、段を二つ戻ってきて、陽の手から袋の縄を取った。取るとき、陽の指に一度だけ目を落としたが、何も言わなかった。二つの袋をまとめて自分の手に提げ、また前を向いて下りていく。陽は空いた両手を握ったり開いたりしながら、その後を追った。
握っても、握っている感じがしない。開いても、開いた感じがしない。陽は掌を自分の腿に押しつけて、布の手触りを探した。ホカンの穴でも、こんなふうになったことがあった。あのときも、しばらくすると戻った。
「いやー、なんか急に手がね」陽はイサの背中に向かって言った。「握力がどっか行っちゃったっていうか。担いだ疲れですかね。朝から重いもんばっかり持ってたし。いや、情けない。袋、すいません、持ってもらって」
イサは答えなかった。段の崩れかけたところで足を止め、袋を持ち替え、また下りていく。陽はもう一つ何か言いかけてやめた。やめると、道の両側の草が風に擦れる音と、二人の足音だけになった。
道の半ばを過ぎたあたりで、陽の指先に、腿の布のざらつきが戻ってきた。畑の縁まで下りたころには、指の腹が、自分の爪の硬さをちゃんと拾っていた。陽は両手を顔の前に上げて、指を一本ずつ曲げてみた。曲がる。曲がっている感じもある。
イサの背中の向こうで子どもが走ってくるのが見えた。
「かあちゃん! 水!」子どもは畦の上を跳ねるように駆けてきて、イサの袖を掴んだ。「水、増えてる! 水路の、上のほうまで来てる!」
陽は畦の脇の水路を見下ろした。朝、桶を汲んだあの溝だ。石で組んだ段を一つずつ落ちながら流れていた水が、段の縁を越えて、溝の上のほうまで満ちている。竹の樋から落ちる水も朝より太い。段になった田の、いちばん上の段の水口から、水が勢いよく流れ込んでいた。
畑にいた村の者が何人か、鍬を止めて水路を見ている。水路の縁まで下りてきて、しゃがんで水に手を入れる者もいた。誰も声を上げない。水が溝の上のほうを流れていくのを、手を濡らしたまま黙って見ていた。
「すげえ」陽は思わず言った。「めっちゃ来てるじゃん」
子どもがイサの袖を離して、水路の縁にしゃがみ込み、手を突っ込んではしゃいでいる。イサは泥の袋を提げたまま水路を見下ろしている。陽はイサの横顔を見た。イサは水路から目を上げて、陽を見た。上の、流れの口の前で陽を見ていたときと、同じくらい長く見ていた。それから何も言わずに、家のほうへ歩いていった。
陽は川原へ下りた。川原の浅瀬で、ツグミが流れに足を浸けていた。裾をたくし上げて石の上に腰を下ろし、膝から下を水に入れて、ぼんやりと流れを見ている。上から来る水は朝より明らかに多く、浅瀬の石がいくつか水の下に沈んでいる。ツグミは足首のあたりを流れが押していくのを、面白がるでもなく、ただ感じているような顔をしていた。
陽が隣に座ると、ツグミは流れから目を離さずに、足の指で水を蹴った。陽も裾をまくって足を流れに入れた。冷たい。朝、壁の中で聞いたのと同じ水が、ここまで下りてきて、足首を押していく。陽の足の指は、水の冷たさも、石のぬめりも、ちゃんと拾った。陽はしばらくそれを確かめるように足の指を動かしていて、ツグミはそれを横目で一度だけ見て、また流れに目を戻した。
夕飯のとき、鍬の男が畑から戻ってきた。戸口で足の泥を落としながら、水が来てる、と言った。誰に向けたのでもない言い方で、言ってから板の間に上がり、イサの隣に腰を下ろした。イサは椀を配る手を止めなかった。男はイサの横顔を見て、それから、向かいに座っている陽のほうへ目を移した。陽は椀を持ち上げてにっと笑ってみせた。男は笑い返さずに、自分の椀に目を落とした。
子どもだけが喋っていた。水路の水がどこまで来ていたか、樋から落ちる水がどれだけ太かったか。子どもは椀を持ったまま身振りで水の高さを示し、それから陽のほうへ向き直った。
「ねえ、見た? タツさんとこの田、畦が崩れて泥が入ってた」
椀を持っていないほうの手を、上から下へ振ってみせる。水が落ちていく様子らしかった。
「へえ」と陽は言った。
子どもはイサに、食べな、と言われて口に椀を当て、飲み込むとまた喋りだした。陽は相槌を打ちながら、自分の椀の中身を、いつもより早く片づけた。腹が減っていた。蓋を支えた腕がまだ少しだるい。
ツグミはいつもどおり二杯食べた。二杯目の途中で、足の指を一本ずつ動かしていて、陽はそれが、川原で水に浸けていたときと同じ動かし方だと気づいた。
その夜、陽は筵の上で起き上がった。隣の筵ではツグミが眠っていて、奥の暗がりからは子どもの寝息がしている。土間の熾の前には今夜は誰もいない。陽は戸口まで這うようにして出て、戸の外の、垣の脇にしゃがみ込んだ。
「アカリさん」
声を落として呼ぶと、少し間があって、いつもの声が返ってきた。
「はい、勇者クサカベイ」
「あのさ。水、増えたんだよ」陽は、自分の声が弾んでいるのが分かった。「上の、流れの口っていうの? あそこに手当てて、もう少し流れろって言ったら、流れたの。すごかったんだって。溝のてっぺんまで来てて、子どもが走ってきて、かあちゃん水って。俺がやったんだ、あれ。俺が」
「お見事です、勇者クサカベイ」
「でしょ。いやもう、自分でもびっくりしたっていうか。音がさ、ごぼって、太くなるの。手の下で。あれ、手に来るんだよ、振動っていうか。壁の向こうで水が、こう、ぐっと引っぱられる感じがして」陽は掌を広げて、その感じを思い出そうとした。掌はもう、垣の竹のささくれを、ちゃんと拾っている。「で、イサさんがこっち見てて。俺、何も言えなくてさ。珍しいでしょ、俺が何も言えないの」
「はい」
「いや、そこは否定してよ」陽は笑って膝を抱え、暗い空を見上げた。「でもさ、言っただけなんだよ。言っただけで、水の音が変わってさ。で、帰りにちょっと手が変になったけど、もう戻ったし。村の人もみんな見てて。これ、実績解除ってやつだよ。みんな喜ぶでしょ。畑、水いっぱいだし」
「はい」
陽は満足して、抱えた膝に顎を載せた。
そのとき、道のほうで足音がした。大股で土を踏む音が近づいてくる。陽が立ち上がる前に、垣の向こうから人影が現れて、戸口の前で止まった。月明かりに肩幅の広い影が浮かんでいる。タツだった。
陽は膝に手をついて立ち上がった。立ち上がりながら、顔が勝手に笑っていた。
「あ、タツさん。こんばんは。見ました? 水。すごいでしょ、今日。溝のてっぺんまで来てて。いや、田んぼもこれで」
タツは答えなかった。陽の顔を見て、陽の手を見て、また陽の顔を見た。月明かりの中で、タツの顔には笑いの影も無かった。陽の口の中で、続けるはずだった言葉が止まった。
「よそ者を上げたな」




