上がる朝
夜明け前、戸を一度だけ押すような音がして、陽は目を覚ました。筵から這い出て戸を開けると、まだ青い暗がりの中に、タツが立っていた。鍬を一本、肩に担いでいる。
「来い」
それだけ言って、タツは背を向けた。陽は草履をつっかけて後を追った。タツは家の裏の道へは行かず、畑の縁を回って、段になった田のほうへ下りていく。いちばん上の段は、昨日の昼、水口から水が勢いよく流れ込んでいた田だった。タツはその縁で足を止めずに、一段下りた。
上の段の畦の縁に、筋が一本残っていた。畦の土が帯のように薄く削れて、その上の草が、みな同じ向きに寝ている。細い竹の樋はその少し脇に渡してあって、樋の口のまわりにも泥がこびりついていた。筋は畦を越えたところから下の段へ落ちていて、落ちた先で、下の段の畦の一か所をえぐっていた。
下の段の畦は、人の肩幅ほどのところで崩れていた。崩れた土が田の中へ流れこみ、泥の色が田の半分ほどに広がっている。稲の根もとが泥に埋まって、何本かは横に倒れていた。えぐれた畦の底からは、水がまだ細く、田の外の溝へ抜けていく。
子どもが夕飯のときに言っていたのは、これのことだった。
タツは崩れた畦の前で止まった。陽のほうは見ずに、泥の広がった田を見ていた。
「わしの田だ」
陽は何か言おうとした。いつもなら、こういうときに出てくる言葉がある。場を少しでも軽くする、どうでもいい一言が。探しても、何も出てこなかった。
「……直します」
タツは答えなかった。陽はタツの肩の鍬に手を伸ばし、タツは黙ってそれを陽に持たせた。陽は崩れたところの縁に立ち、泥をすくって、えぐれた穴へ積んだ。鍬は、鍬の男と畑に出たときに握ったものより重く感じた。積んだ泥は、積んだそばから水に崩されて、穴の底へ流れていく。もう一度すくって積むと、今度は鍬の刃が畦の縁に当たって、縁の土まで一緒に崩れた。
タツが鍬を取り上げた。
「もういい」
タツは陽を脇へどかせるようにして崩れたところの前に立ち、田の脇に積んであった藁を泥に混ぜ、鍬の背で叩いて、穴へ詰めていった。詰めては叩き、叩いてはまた詰める。陽に手を貸せとは言わなかった。陽は鍬の届かないところに立って、それを見ていた。畦の崩れたところが元の高さに戻るころには、東の空が白くなっていて、抜けていた水は止まっていた。積み直したところだけ、土の色がまわりより濃い。タツは鍬を肩に戻し、陽を見ないまま、上の段の畦を踏んで帰っていった。
日が昇ると、道の入口に人が集まっていた。月の頭でもないのに、前の二度と同じくらいの数の村の者が家の裏に立っていて、その真ん中にタツがいる。イサも、鍬の男も、畑から上がってきたままの格好で輪の中にいた。陽が近づいていくと何人かが振り返り、陽の顔を見て、すぐにまた前を向いた。
輪の外からは、話は切れ切れにしか聞こえなかった。よそ者、という言葉が一度、水、という言葉が何度か。タツの声がいちばん大きく、イサの声はほとんど聞こえない。陽は輪の端で足を止め、どう入っていけばいいのかを考えて、とりあえず何か言おうと口を開けたところで、隣に立っていた村の男が陽のほうを見ないまま、小さく首を横に振った。陽は口を閉じて、そのまま輪の外に立っている。
話は長くかからなかった。年寄りの声が一つ、次の月の頭の朝だ、と言い、それで輪がほどけた。村の者はそれぞれの畑のほうへ散っていき、タツは最後にイサのほうを一度見てから、何も言わずに自分の家へ下りていった。イサは誰とも目を合わせずに陽の横を通り過ぎ、家へ入った。
陽は、畦の上で鍬を担ぎ直していた鍬の男を捕まえた。
「あの、今の、何が決まったんです?」
男は鍬を肩に載せたまま陽を見て、少し考えるような間を置いた。
「月の頭に決める」
「何を?」
「決めることを、だ」
男はそれだけ言って、畑のほうへ下りていった。陽は畦の上に一人で残されて、決めることを決める、と口の中で繰り返す。会議の日取りを決める会議みたいだ、と思い、そう思っても何も分からないので家へ戻った。イサは土間で、甕の縁に掛けた柄杓を外して拭いていた。
「あの、大丈夫ですか。なんか、俺のせいで」
「水甕」イサは柄杓を甕の縁に掛け直した。「朝のうちに満たしといて。今日は二つでいい」
陽は何か続けようとして、イサがもう背を向けて竈の灰を掻きはじめたのを見て、桶を取りに戸口へ出た。水路の水は、まだ溝の上のほうまで満ちていた。
その夜、イサは熾の前に道具を並べ、掻き棒の刃を根もとから先へ、布でゆっくり拭いた。陽は筵の上からその背中を見ているうちに眠った。
それから何日か、似たような日が続く。陽は朝、水路へ桶を下ろしに行き、半分ずつ汲んで何度も往復した。ツグミは朝のうちに川へ下り、昼過ぎに草や根を抱えて戻ってきて、戸口の脇でそれを選り分けた。子どもがそれを覗き込み、ツグミが捨てた葉を拾っては川へ投げに行った。イサは昼は畑に出て、夜になると熾の前に座る。布は三日目の夜に新しいものに替わり、古い布は黒ずんだまま畳まれて竈の脇に置かれた。五日目の夜には、掻き棒の柄に巻いた縄が緩んでいたらしく、イサはそれをほどいて、新しい縄で巻き直していた。
三日目の昼、陽は畦の上でタツとすれ違った。タツは鍬を担いで向こうから歩いてきて、陽を見ると、道の端へ寄りもせず、そのまま歩いてくる。陽は、どうもどうも、と片手を上げて道を譲り、ついでに、今日も暑いですね、と言った。タツは陽の顔を見て、足を止めた。
「畦は、わしが積んだ」
それだけ言って、また歩きだした。陽は上げた手を下ろして、しばらくその背中を見ていた。畦の下の段の、タツの田の縁に、積み直したところが見えた。そこだけ、まだ土の色がまわりと違っていた。
水路の水は、日ごとに低くなっていった。二日目にはもう段の縁を越えていなかったし、四日目の朝には、竹の樋から落ちる水が、陽が初めて桶を汲んだ朝と同じくらいの太さに戻っていた。陽は樋の下に桶を置いて、満ちていくのを見ていた。いつもの量だった。陽は桶を半分だけ満たして、担いで戻った。
六日目、イサは畑に出なかった。子どもが朝から熱を出していて、イサは板の間の奥で、子どもの額に濡れた布を当てては替えている。陽が昼に水甕の桶を置きに戻ったときも、道具は熾の前に並べたままだった。夕方には熱が引いて、子どもが起き上がり、粥が欲しいと言った。イサはようやく息をついて、子どもの髪をくしゃりと撫でた。そこへツグミが川から戻ってきて、抱えてきた根の中から白っぽい細いのを一本選び、黙って子どもの枕もとに置いた。イサはそれを見て、ツグミを見て、根を刻んで子どもの粥に入れた。陽が覗いたとき、道具はまだ朝と同じ並びのまま熾の前にあった。
その夜も、イサは熾の前に座った。
陽は筵の上でしばらくその背中を見ていたが、やがて起き上がり、熾の前まで這っていってイサの向かいに腰を下ろした。布が柄を擦る音がしていて、熾の赤が磨かれた刃に映って揺れている。
「それ、要らないんじゃないですかね」
イサの手は止まらなかった。
「掃除。だって、俺が言ったら、水、来たじゃないですか」陽は熾の明かりの中で、自分の右手を広げて見せた。「あそこの口に手当てて、もう少し流れろって言ったら、流れた。みんな見たでしょ。だから、道具とか、上がる順番とか、そういうの、もう」
言っているうちに、自分の声が少しずつ速くなっているのに陽は気づいたが、止まらなかった。
「掃除なんか要らない。俺がやれば水は来る」
イサは答えなかった。
布を持ち替え、刃を裏返して、また根もとから先へ拭いた。陽の顔は見ない。陽は広げた手のやり場に困って膝の上に戻し、熾が小さく爆ぜる音を聞いていた。イサは拭き終えた刃を明かりにかざし、かざしたまましばらく動かず、それから次の道具を取った。陽はもう一つ何か言おうとして、言う言葉が見つからないまま筵に戻った。横になると、隣でツグミが寝返りを打った。目は閉じたままだ。
次の月の頭の朝が来た。
陽が目を覚ましたとき、熾の前に道具は無かった。前の月の朝は、イサが陽の背に束をくくりつけた。今朝は、陽が起きるのを待つ者はいなかった。戸口の外へ出ると、イサが道具の束を自分で背負って家の裏へ歩いていくところで、束は陽が前に背負ったときより小さく見えた。一つ一つがきっちり巻かれていて、縄の端まで揃っている。陽は戸口に立ったまま、その後ろ姿を見送り、少し遅れて後を追った。
道の入口には、前の二度より多いくらいの村の者が集まっていて、誰も喋っていなかった。タツが道の真ん中に立っている。腕は組んでおらず、手ぶらだった。イサが入口まで来て、止まる。タツとイサのあいだは三歩ほどで、村の者はその二人を見ていた。陽は輪の外に立ち、いつの間にか隣にツグミがいるのに気づいた。今朝は川へ行かなかったらしい。
誰も口を開かなかった。
イサが肩の縄をほどいた。背の束を下ろし、両手で抱え直して、タツのほうへ一歩出る。
タツに渡した。
タツは受け取った。束の重さを確かめるように一度持ち直してから肩に担ぎ、担いだまま、イサの顔を見た。イサはタツの顔を見ずに、入口の脇に置いてあった桶を取った。空の桶の縁を片手で掴んで、タツの後ろに立った。
谷の下流から神官が上がってきた。神官は入口の前で足を止め、道具を担いだタツを見て、桶を持ったイサを見て、何も言わずに先に道を上がりはじめた。タツがその後に続き、イサがその後に続く。三人の背中が、石の段を一つずつ上がっていった。
陽は動かなかった。隣でツグミが何か短く言った。息に混ざったような、音が二つか三つ。陽がツグミの顔を見ると、ツグミは上がっていく三人の背中を見ていて、陽のほうは見なかった。陽は何も訊かなかった。
村の者は、三人が道の曲がり角に消えるまで見送ってから、黙って散っていった。陽とツグミは入口の脇の石に腰を下ろして、そこで待った。ツグミは袋から根を一本出してかじり、半分になったのを陽に突き出した。陽は受け取ってかじった。青臭い根の味が口に残って、それを舌で転がしているうちに、日が高くなっていった。陽は撚りかけの縄を指に巻いては外し、ツグミは膝を抱えて壁の上のほうを眺めている。壁の下から響く水の音は、朝から少しも変わらない。畑のほうで誰かが鍬を振る音がして、それが止むと、今度は遠くで子どもが誰かを呼ぶ声がした。熱の下がったあの子の声だった。陽は石の上で尻の位置をずらし、空を見上げ、また道の曲がり角を見た。曲がり角には誰も現れない。ツグミが根の残りを袋にしまい、しまった手で陽の膝を一度だけ軽く叩いて、また壁の上を眺めはじめた。何の合図なのか、陽には分からなかった。
昼過ぎ、三人が降りてきた。タツが先頭で束を担いでいて、束の縄は朝と同じように揃っていたが、刃の先に乾いた泥がついている。神官はそのまま谷の下流へ帰っていき、タツは入口の脇で束を下ろして、イサのほうへ押しやった。イサは何も言わずにそれを受け取り、桶と一緒に抱えた。タツは陽とツグミのほうを一度だけ見て、自分の家のほうへ下りていった。
戸口の前で待っていた子どもがイサに駆け寄り、済んだの、と訊いた。イサは束を抱え直しながら、済んだよ、とだけ言った。
家に戻ると、イサは道具を一つずつ出して熾の前に並べ、泥のついた刃を布で拭きはじめた。前の月と同じ手つきで、陽は戸口の脇に座ってその背中を見ている。
なんでこうなったのか、陽には分からなかった。前の月はイサが上がって、今月はタツが上がり、イサは桶を持った。どうしてそう決まったのか、誰が決めたのか、陽の見ていたところでは、誰も何も言っていなかった。自分のせいだろうか、と陽は思いかけた。自分があの日、上がったから。思いかけたところで、夜明けに見た、積み直したばかりの畦の、まわりより濃い土の色が浮かんだ。それ以上は考えなかった。イサの背中に向かって何か訊こうとして開いた口を、そのまま閉じた。イサは刃を拭き続けていて、振り返らない。
夕方、陽は川原へ下りた。浅瀬のほうから子どもの声が聞こえてくる。熱の下がったあの子を含めて五、六人の子どもが、川原の石の上に並んで座り、声を揃えて何か歌っていた。同じ節を何度も繰り返し、途中で誰かが外すとみんなで笑って、また頭から始める。
祭の歌だよ、と、通りかかった村の女が陽に言った。もうすぐ先の祭だからね。




