発つ
陽が目を開けたとき、ツグミは木の根もとに立っていた。袋を背負い、紐に下げた葉の包みが朝の風にかすかに揺れている。歩き出す気配はなく、陽が筵の上で身体を起こすと、ツグミは陽のほうを一度見て、また道の先へ目を戻した。村の屋根の上では、もう煙が何本か上がりはじめている。
陽は跳ね起きて筵を丸めた。借りた筵で、返さなければならない。丸めたそれを脇に抱え、撚りかけの縄を指に巻きつけたまま、陽は村の中へ走りだした。走りながら、自分の荷がこれで全部だと気づいて、少し可笑しくなる。背負うものも、まとめるものも無い。筵を返せば、手に残るのは縄一本だけだった。
筵を借りた家の戸口では、鍋の番がもう火を起こしている。陽が息を切らして筵を差し出すと、鍋の番は受け取らずに陽の顔を見て、それから陽の背中の向こう、村の外れの木のほうへ目をやった。
「行くのかね」
「あ、はい。お世話になりました。ほんとに。飯、めちゃくちゃうまかったです。この何日かで一生分くらい食った気がします」
鍋の番は筵を受け取って戸口の脇に立てかけ、立てかけたまま、手を筵から離さずにいる。
「朝の分がある。食っていけばいい」
「いや、それがですね」
言いかけたところで、戸口の声を聞きつけたのか、隣の家から人が出てきた。昨日盆の縄を綯い直していた年寄りで、その後ろから、手を塞いだ男が顔を出す。男の手のひらの赤い線は、もうだいぶ薄くなっている。向こうの家の軒下からは、屋根に上がっていた子どもが走ってきて、陽の足もとで止まった。桶の男も、空の桶を棒に下げたまま道の途中で足を止めていて、ほかの家の戸口にも、何人かの顔が覗いている。陽のまわりに、いつのまにか小さな輪ができていた。
「勇者、行くの」
「行くの。ごめんね。また来るかもしれないし、来ないかもしれない。勇者って、たぶんそういう職業だから」
子どもは笑わずに、陽の指に巻いた縄を見て、それから陽の顔を見上げている。
「居たらいい」と年寄りが言った。「寝るとこはある。飯もある。怪我をする者はこの先も出る。あんたの手があれば、神殿まで担いでいかずに済む」
「いやあ、そう言ってもらえると、ほんとありがたいんですけど。俺なんか居たら、そのうちこの村の粥、全部食べちゃいますよ。いや、食べるのは連れのほうか。昨日の見たでしょ、あれ。二人分の食費がね、村の財布をね、こう」
陽は両手で何かを絞る仕草をした。年寄りは少し笑い、鍋の番も口の端を動かし、桶の男は棒を肩から下ろして、指を三本立てて陽に見せた。
「三往復? あ、昨日の。三往復じゃ足りなくなるって? でしょ、でしょ。ほら、やっぱり俺いないほうがいいんですよ、村の水のためにも」
桶の男が声を出して笑い、戸口の顔のいくつかも笑った。手を塞いだ男は笑わなかった。陽は男のほうへ向き直り、男が笑わなかったぶんを取り返すつもりで、もう一つ続けた。
「それにほら、勇者が一つの村にずっといると、ほかの村の人が困るじゃないですか。勇者の取り合いになって、村同士で揉めて、そのうち勇者を巡って大きな戦が」
言いながら、陽は途中から自分でも何を言っているのか分からなくなっていた。子どもは陽の顔を見上げたまま首を傾げていて、年寄りは笑うのをやめて、ただ頷いている。男の顔はさっきと同じで、陽は口を閉じ、閉じてからもう一度開けて、「……とにかく、行きます」とだけ言った。
鍋の番が筵から手を離した。
「そうかね」
それだけ言って、鍋の番は戸口の中へ戻っていく。陽はその背中に頭を下げた。二十年やってきた角度で下げて顔を上げると、鍋の番はもう鍋の前にしゃがんでいて、背中のまま一度頷いた。年寄りが手を上げて「転ぶなよ」と言い、子どもは陽の縄の端を一度だけ引っぱってから手を離す。
陽は歩きだした。手を塞いだ男が、村の外れのほうまで付いてくる。付いてくるだけで何も言わず、木の根もとで立っているツグミの姿が見えるところまで来て、男は足を止めた。
「名無しと行くのか」
陽は振り向いた。男は陽を見ていて、その向こうのツグミのことも見ている。
「あれと一緒じゃ、街の門は通れんぞ。泊めるところも無い。食い物も、自分で要る」
陽は口を開けかけて、閉じた。何を言うつもりだったのかは、閉じてしまうと自分でも分からない。男の顔は硬く、陽にはそれが、ツグミのことを悪く言っている顔に見える。言い返す言葉はいくつも浮かんだのに、一つも口に出さず、陽はただ片手を上げて振った。
男はそれ以上言わなかった。陽が振った手を見て、それから自分の手に目を落とし、塞がった手を一度握って、開く。男は村のほうへ戻っていき、振り返りはしなかった。
陽は一人で村の外れまで歩いた。振り返ると、戸口の輪はもうほどけていて、鍋の番の家の屋根から煙が上がっている。子どもが一人、まだ道の真ん中に立ってこちらを見ていて、陽が手を上げると、手を上げ返してから、土台のほうへ走っていった。
陽はツグミのところまで行き、息を整えてから、村のほうを親指で差した。
「お待たせ。筵、返してきた。みんなによろしくって。……いや、言ってないか。まあいいや。行こう」
ツグミは陽の口もとを見ていた。何を言われたのかは、ツグミには何も渡っていないようだった。陽が道の先を指さそうと腕を上げかけたときには、ツグミはもう歩きだしていた。
道は村を出ると、谷をゆるく下っていく。畑の脇を抜け、低い林を抜けるうちに、水の音が近くなってきた。ツグミの足は速く、陽は小走りと早歩きを交互にして、その背中から離されすぎないようについていく。ツグミは一度も振り返らない。袋の紐の葉の包みと、紐に通した輪が、歩くたびに揺れている。陽は歩きながら喋った。天気がいいとか、道が平らで助かるとか、この川には魚がいそうだとか、全部ツグミの背中に向かって言った。背中は何も返さなかったが、陽は喋るのをやめない。やめると、さっき手を振ったときの、男の硬い顔が戻ってきそうな気がしていた。
朝の分を断ったことを、陽は昼前には後悔していた。腹が鳴り、鳴るたびに陽はそれを冗談にしてツグミの背中へ言ったが、背中は答えない。林の中で、ツグミはときどき道を外れて茂みに手を入れ、何かを摘んでは口へ運んでいた。陽も真似をして、道の脇の低い木から赤い実を一つもいで口へ持っていきかけた。その手を、いつのまにか戻ってきていたツグミの手が叩いた。実が地面に落ちて転がる。ツグミは落ちた実を足先で茂みのほうへ押しやり、それから自分の摘んだ、見た目のずっと地味な黒い粒を陽の目の前に掲げて、口に入れてみせた。
「……食えるのはそっちで、こっちは駄目ってこと? 赤いほうが絶対うまそうなのに。見た目、完全にレアアイテムじゃん」
ツグミは答えずに、また先へ歩いていく。陽は叩かれた手の甲をさすりながら、黒い粒の生っていた茂みを探したが、どれがそれなのか分からなかった。
林の中で、陽は一度だけ遅れた。木の根に足を取られて膝をつき、立ち上がったときには、ツグミの背中がずいぶん先にある。陽は小走りで追いかけ、追いつくまでのあいだ、背中は少しも速さを変えなかった。追いつくと、息が上がっていて、喋るのがしばらく止まった。止まっていても、ツグミの足音と自分の足音と、近づいてくる水の音があって、それで足りた。
林が切れると、川があった。広い川で、岸に沿った道がそこで二つに分かれている。一つは流れに沿って下へ、一つは流れを遡って上へ延びていて、ツグミは分かれ目の手前で止まった。陽は少し遅れて、まだ林の出口あたりにいた。
ツグミが振り返った。
道のどちらかを見るのではなく、ツグミは陽を見ていた。陽とのあいだに空いた距離を、目で測るように見ている。陽が息を切らしながら、あと十歩、あと五歩と近づいていくあいだ、ツグミはそのまま動かない。陽が分かれ目の手前まで来ると、ツグミは前へ向き直り、流れを遡るほうの道へ足を踏み出した。
道を間違えそうになって、確かめたのかな、と陽は思った。どっちにしても、迷っている感じはしない。ツグミの足は、分かれ目のあとも少しも緩まなかった。
上へ向かう道は、しばらく川のすぐ脇を通っている。石の多い岸で、ツグミは石から石へ足もとを見ずに渡っていき、陽は一つずつ足を置いて、それでもときどき滑った。川の音が大きく、陽が何か言っても、自分の声が水の音に紛れていく。陽は喋るのを少し減らし、減らしても困らないことに、歩いているうちに気づいた。気づいてからも、ときどき思い出したように何か言い、言ったあとで、それがツグミに向けたのか自分に向けたのか分からなくなって、また黙った。
日が高くなるにつれ、川の水面が眩しくなっていく。対岸は遠く、低い土手の向こうに畑らしいものが広がっていて、人の姿は見えない。陽の足は石に何度か取られ、そのたびに両腕を広げて身体の釣り合いを取った。脛が張り、ふくらはぎが重くなって、足の裏が石の丸みをいちいち拾う。ツグミの背中は、石の上でも道の上でも同じ速さで進んでいく。途中で一度、ツグミは岸へ下りてしゃがみ、両手で川の水をすくって飲んだ。陽も隣で同じようにしゃがみ、穴の底の水より少しぬるい水を、手のひらから二度すすった。顔を上げると、ツグミはもう岸を上がりかけていて、陽は濡れた手を腿で拭きながら後を追った。
どれくらい歩いたか分からなくなったころ、岸の道が少し高いところへ上がって、川の上流のほうまで見渡せる場所に出た。川は山のあいだから出てきていて、その先は霞んでいる。ツグミはそこで足を止め、陽が追いつくのを待たずに腕を上げて、流れの来る先、山のあいだへ入っていくほうをまっすぐ指した。
陽は、どこへ、と訊きかけて口を開け、開けたまま閉じた。訊いても渡らないことは分かっていたし、渡ったとしても、その先の答えを自分が受け取れるとは思えなかった。
「上のほう?」陽は指の先を見た。「上のほうね。了解」
ツグミは腕を下ろして、また歩きだした。陽はその後ろについて、指されたほうへ足を向けた。




