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名無しと勇者 〜転生先で「勇者」と呼ばれた俺と、「名無し」と呼ばれる少女〜  作者: 猫間じん


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7/36

食う

ツグミは肩をすくめると、陽の返事を待たずに斜面を下りはじめた。谷の下流へ向かう道は、村の真ん中を通っている。陽は撚りかけの縄を握ったまま、その後ろを追った。ツグミの足は速く、斜面の途中で一度も振り返らない。陽が屋根のところまで下りきるころには、もう空き地の向こうの道へ出かけていた。


「勇者さま」


呼ばれて振り向くと、鍋の番をしている者が家の戸口に立っていて、手に持った杓子で家の中を差している。中から湯気と、穀物の煮える匂いが流れてきた。昼の飯どきだった。


「あ、どうも。いや、あの、実は俺ら、ちょっと先を急いでて」


言いかけたところで腹が鳴り、鍋の番は何も言わずに、杓子で中を差したまま動かない。陽は道の先を振り返った。ツグミが止まって、こちらを見ている。鼻がわずかに上を向いていて、湯気の流れてくるほうを嗅いでいるのが遠目にも分かる。


「……じゃあ、ちょっとだけ。ちょっとだけいただきます。ツグミ、ちょっと、こっち」


陽が手で「来い」を掻くと、ツグミは道を戻ってきて、戸口の前で止まった。陽が先に敷居をまたいで振り返り、もう一度手を掻く。ツグミは戸口の外に立ったまま中を覗きもせず、敷居の手前の地面に腰を下ろして、袋を膝の上に抱えこんだ。


「いいって、入って。遠慮しないで。ほら、ここ座るとこあるから」


陽は身振りを大きくした。入れ、座れ、食え、を手と顔で全部やってみせても、ツグミは地面に座ったまま動かない。陽は鍋の番の顔を見たが、鍋の番は陽を見ずに炉のほうへ戻って、杓子で鍋を掻き回していた。


この村は、ツグミを泊めなかったのに。陽はそう思いかけて、それ以上は考えなかった。遠慮しているのだろうと受け取り、受け取ったまま家の中の筵に座る。中は薄暗く、炉の燠が赤く、壁際に皿と椀が伏せて積んであった。戸口の四角の向こうに、地面に座ったツグミの背中が見える。袋を抱えた肩が少しも動かず、中を振り返りもしない。


鍋の番が椀を取り、粥をよそって、杓子の柄で鍋の縁を一度叩いた。もう一つ椀を取って同じだけよそい、また一度叩く。叩いた数を口の中で確かめるように、鍋の番の顎がわずかに動いている。それから二つの椀を両手に一つずつ持つと、陽の前を素通りして、戸口から外へ出ていった。


陽は筵の上で、空の手のまま座っていた。戸口の外で、鍋の番が椀の一つをツグミの前の地面に置き、もう一つを持ったまま振り返って、陽を見ている。陽は立ち上がって外へ出た。


鍋の番は陽の手に椀を渡し、家の中へ戻って、干し魚を裂いたのを皿に盛ってまた出てきた。皿を二人のあいだの地面に置くと、戸口の柱に肩を預けて立つ。陽はツグミの隣に腰を下ろし、三人が戸口の前にいる形になった。柱に預けた鍋の番の肩は、陽がこの村で見てきた人たちの服と同じ、くすんだ赤土色をしている。その隣で見ると、ツグミの袖の継ぎは、一枚ずつがどれも違う色の布で、布目の粗さもまちまちだった。


ツグミはもう食べていた。椀に口をつけて傾け、粥を流しこむ。息を継ぐあいだにも、指が皿の魚へ伸びている。陽が一口すするうちにツグミの椀は半分になり、陽が魚を一切れ取るうちに、皿の魚は三切れ減っていた。粥は塩が薄く、魚のほうが塩辛い。二つを一緒に口へ入れるとちょうどいいのだと陽が気づいたころには、ツグミはとっくにそうやって食べていた。


「すごいね。大食いキャラだ。いや、いいんだけど。うまいもんね、これ」


ツグミは答えずに椀を傾け、空になった椀を地面に置くと、今度は陽の椀のほうへ目をやる。陽は椀を胸のほうへ引いた。ツグミの手は椀には来ずに、陽の膝の上の、さっき取った魚の切れ端へ伸びてきた。


指が、魚をさらっていった。


「あっ、ちょ、それ俺の」


魚はもうツグミの口の中にある。陽は覆いかけた手のまま固まり、その手で今度は椀のほうを庇って、庇いながら膝を立て、身体ごと横を向いた。椀を抱えこんで背中を丸めた陽の格好を見て、ツグミが吹き出した。口の中の魚を落としそうになって慌てて手で押さえ、押さえた手の下でまだ笑っている。


「笑うな。笑うなって。取ったの、そっちだから」


言いながら陽も笑っていて、椀を抱えたまま笑った拍子に椀が傾き、粥が少し膝にこぼれた。ツグミはそれを見て、また肩を揺らしている。


そこへ、村の男が一人、鍋の番に何か用があるらしく家のほうへ歩いてきた。戸口の前まで来て、敷居の手前に座っているツグミを見ると、男は足を止めた。止めたまま少し迷うように立っていて、それからツグミの脇を、身体を斜めにしてすり抜けるように回って、家の中へ入っていく。ツグミは男の足を一度だけ目で追い、また椀に戻った。


鍋の番が、柱に預けていた肩を起こした。空になったツグミの椀を拾って中を覗き、黙って家の中へ入っていく。戻ってきた椀には、粥がもう一度入っていた。鍋の番はそれをツグミの前に置いてから、杓子の柄で自分の掌を一度叩いた。


皿を下げに来たのは、別の者だった。腰の曲がりかけた年寄りで、地面の皿が空になっているのと、ツグミの前の二つ目の椀と、陽の膝の粥の染みとを順に眺めてから、鍋の番に向かって言う。


「勇者さまより食う連れってのは、初めて見たね。皿が足りなくなる」


鍋の番が口の端だけで笑い、陽も笑った。笑ってからツグミのほうを見ると、ツグミは二つ目の椀を傾けていて、年寄りの言ったことには何の反応もしていない。今の、面白かったんだけどな、と陽は思い、言い直す言葉を探しかけて、探す前にやめた。年寄りの言葉は陽に届いていて、ツグミには届いていない。分かってはいても、それがまだ何か困ることだとは思わなかった。ツグミは椀の底を指で拭って舐め、年寄りを見上げる。年寄りが陽の膝の染みを指差して笑っているのを見て、自分の膝を見て、陽の膝を見て、それでやっと笑った。


年寄りは空の皿を重ねて抱え、家の脇へ回った。脇の日なたに盆が一つ立てかけてあり、年寄りは皿を置くと、その盆の前にしゃがみこむ。盆の縁に巻いた縄がほつれていて、年寄りはほつれた端を歯で噛み切り、新しい縄を縁に沿わせて、巻いては締め、巻いては締めていく。指の節は太いのに、手つきは速い。


ツグミが椀を置いて立ち上がり、年寄りの肩越しに盆を覗きこんだ。覗いただけでは足りなかったのか、手を伸ばして、縄の束の端をつまみ上げる。


「こら、それはまだ」


年寄りは縄の束をツグミの手から抜き取り、束の端を元の位置に戻して、また巻きはじめた。声は怒っていなかった。ツグミは手を引っこめ、覗く位置を少し下げて、巻いては締める年寄りの指をしばらく黙って見ている。陽も隣から覗いていた。年寄りの指は、縄を引くたびに一度止まって、締まり具合を指の腹で確かめてから次へ進む。自分が撚った草の縄よりずっと細い縄が、年寄りの指のあいだで隙間なく締まっていく。陽は握っていた自分の縄を見下ろし、見比べて、そっと背中に回した。年寄りはそれを見ていたのかいないのか、顔も上げずに、最後の一巻きを締めて歯で端を切った。


「ほら、できた」


盆を立てかけ直すと、年寄りは腰を伸ばして、陽の背中のほうへ一度だけ目をやった。何も言わなかった。


日が傾くまで、二人は家の前にいた。陽は戸口の前に座って、通りかかる村の人に手を上げ、手を上げられた人は少し頷いて通り過ぎていく。桶の男が通ったときには、陽のほうから「今日も二つ担いでますね、それ、何往復するんですか」と話しかけて、男に指を三本立てさせ、「三往復。えらい」と言って男を少しだけ笑わせた。ツグミは家の日なたで袋を枕にして、半分眠っている。腹の上に置いた手が、息に合わせて上がったり下がったりしている。屋根に上がっていた子どもも一度来て、ツグミから少し離れたところにしゃがみ、ツグミが寝返りを打つまで、じっとその顔を見ていた。ツグミが片目を開けると、子どもは跳ねるように立って走っていった。鍋の番は夕方にもう一度鍋を掛け、もう一度二人分をよそって外へ持って出てきた。杓子の柄で鍋の縁を叩く音が、戸口の中から二度聞こえる。


夕の椀を半分ほど食べたところで、ツグミが椀の中の何かを指差した。粥の中に沈んでいた、刻んだ青い葉だった。ツグミはそれを指したまま陽の顔を見て、短く何か言う。一つの、区切られた音だった。陽が首を傾げると、ツグミは葉を指でつまみ出して陽の目の前に掲げ、もう一度同じ音を言ってから、葉を口に入れた。陽は口の中で真似しかけたが、うまく形にならないまま、その音はどこかへ行ってしまった。


ツグミは夕の椀を食べきれなかった。残った粥の上の魚の切れ端と、皿に残った一切れを袋から出した大きな葉に載せ、葉の端を折って包み、袋の紐をほどいて、その端で包みを結わえる。それを袋の脇に置き、陽のほうは見ずに、紐をまた袋の口に戻した。陽は見ていたが、何も言わなかった。言うことを思いつく前に、ツグミはもう次の、皿の縁に残った粥の筋を指で拭い取っている。


暗くなる前に、ツグミは村の外れの、道の脇の大きな木の根もとへ袋を持っていき、根と根のあいだの窪みを手で均して袋を置いた。そこが今夜の寝床らしかった。陽は家の筵を勧められ、その筵を借りて外へ出て、木の根もとから少し離れたところに敷いた。筵を貸してくれた家の者は、陽がそれを抱えて外へ出ていくのを戸口から見送り、何も言わずに戸口の筵を下ろした。


腹がいっぱいだった。


陽は筵の上に座り、ツグミは根もとで袋にもたれて座っている。日が山の端に落ちて、村の屋根の上に煙が細く上がり、それもやがて見えなくなる。どちらも何も言わない。陽は撚りかけの縄を指に巻いては外し、ツグミは膝の上で輪を回している。ときどき、どちらかが腹をさする。黙っているのは三晩前の夜と同じなのに、今夜はどこも居心地が悪くなく、陽はそれがなぜなのかを考えないまま、暗くなっていく道の先を見ていた。木の枝の隙間に星が一つ出て、二つ出て、数えるのをやめたころには、ツグミの寝息が聞こえていた。


朝、陽が起きると、ツグミはもう立っていた。袋を背負い、輪は紐に通してある。袋の脇に、昨日の葉の包みが、紐に結わえられたまま下がっていた。


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