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その夜も陽は村の家へは戻らず、村人の問いに答えないまま斜面を上がって、穴の口の脇で、少女から少し離れたところに座って夜を明かした。朝になると少女はもういなかった。窪みには袋だけが置いてあって、輪はその横の、少女が寝ていたあたりの草が丸く潰れた跡の真ん中に、きちんと載せてあった。袋を置いていったのだから戻ってくるのだろうと陽は思い、思ったことに少しほっとしていた。
少女を待つあいだ、陽は穴の口の前の石に座って、手の届くところの草を抜いては撚っている。長い葉を三本ずつ束ね、端を歯で押さえて撚り合わせ、撚れた先へ次の三本を継ぎ足していく。何に使うつもりもなかったが、手を動かしていると、継ぎ目が一つずつ増えていくのが目に見えて、それがよかった。陽の腕の長さほどの縄ができたころには日が高くなっていて、斜面の下の村からは、誰かが何かを叩く音が間を置いて続いていた。見下ろすと、崩れた土台の上を子どもたちが跳び移っていて、その脇の道を、桶の男が棒の両端に水を下げて通っていく。誰も斜面のほうを見上げなかった。見上げないように歩いているのか、見上げる用が無いだけなのか、上からは分からなかった。
腹が鳴った。粥を三杯食べたのは二晩前の夕方で、それからは水しか入れていない。陽は縄を石の上に置いて斜面を下り、村の空き地で、鍋の番をしていた者から椀を一つもらった。薄い粥に、刻んだ青い葉が浮いている。屋根に上がっていた子どもが一人、椀を持つ陽の横に来てしゃがみ、黙って陽の顔を見上げていた。
半分ほど食べたところで、陽の足もとに影がかかった。顔を上げると、昨日の夕方に問いをかけてきた男が立っていた。鎌で手を切った男だった。男はしゃがまず、立ったまま、手のひらを陽のほうへ向けて開いた。赤い線が一本、まだ残っている。
「あんたに、これを塞いでもらった」と男は言った。「だから言う」
陽は椀を膝の上に下ろした。
「名無しを、もう穴に入れるな」
それだけ言うと、男は手を下ろした。
「いやいや」陽は笑って、空いた手を顔の前で振った。「入れたっていうか、入っていったっていうか。俺、後ろからついてっただけですよ。どっちかっていうと、俺のほうが連れてってもらった側っていうか」
男は何も言わない。陽は続けた。「それにほら、あの子、止めて止まるタイプじゃないし。俺が止めたら、俺が置いてかれて終わりっていうか。……ですよね?」
陽は横の子どもの顔を見た。子どもは陽を見上げたまま、何も言わない。男の顔も動かなかった。陽の目は、男の下ろした手のほうへ落ちた。掌の赤い線が、指のあいだから少し覗いている。
「……その手で言われてもなあ」言ってから、陽はもう一度笑い、椀を持ち直す。
男は黙った。口が一度、何か言いかけたように動いて、動いただけで閉じた。男は下ろした手を一度握り、開く。それから陽に背を向け、土台の向こうの家のほうへ歩いていった。振り返りはしない。
鍋の番が、陽の椀に黙って杓子で一杯足した。陽は「あ、すみません」と言って、足された粥を食べた。子どもは陽が食べ終えるまで陽の顔を見上げていたが、食べ終えると何も言わずに土台のほうへ走っていった。椀を返して斜面を上がるときになって、少女の分のことを一度も考えなかったのに気づいたが、気づいたときにはもう窪みの前まで戻っていた。
少女はまだ戻っていない。陽は石に座り直して、縄の続きを撚りはじめ、撚りながら声を出した。
「アカリさん」
「はい」
「ちょっと聞いていい? 最初の日に読み上げてくれたやつ。祝福を授けるっていうの。あれ、俺にもほんとにできるの」
少し間があった。「できます。手を触れて、授けます」
「手を触れて。……神殿とかに行かなくても? 神官さんがいるところじゃなくても」
「はい。神殿の外でも」
「へえ。便利だね。どこでもバフかけ放題じゃん」
「ひとつだけ」と女神は言った。「授けたものは、戻せません」
撚っていた手が止まった。撚りかけの三本の葉が、指のあいだでほどけていった。戻せない、という言葉が、思っていたより長く耳に残り、陽は止まった手のまま、次のことを訊いていた。
「……受けたらさ。その、祝福を受けた人は、どうなるの」
「女神の手が届くようになります」
「女神の手。村の人が言ってたやつか。傷が治るの」
「はい。それと、街の門が開きます」
「門。街の」陽は繰り返した。「そっか。門ね」
それ以上は訊かなかった。女神も、訊かれていないことは足さなかった。
陽は縄を膝に置いて自分の右手を見た。掌を上に向けて開いてみる。鎌で手を切った男の手のひらを、この手が握っていて、熱が出た。あの夜、同じ手で少女の手を握って、何も起きなかった。陽は掌を閉じ、開き、また閉じて、何度開いても同じ手であることを確かめるみたいに、それを繰り返した。
受けていない、ということなんじゃないか。
口には出さず、確かめる方法も思いつかなかった。熱が出なかったのは自分の力が足りなかったせいかもしれないし、少女が嫌がったせいかもしれないし、どちらでもないのかもしれない。それでも閉じた掌の中には、その考えだけが残っていて、陽はそれを握ったまま膝の上に置いていた。
撚った縄を膝の上で輪にし、ほどき、また輪にしているうちに、日が傾きはじめた。少女が戻ってきたのはそのころだった。袋を持たずに出ていったぶん、両腕に根と葉をいっぱいに抱えていて、窪みにそれを下ろすと、輪を拾い上げて一度光にかざし、また草の上に戻した。それから葉を選り分けはじめたが、そのあいだ、左の手の甲をときどき身体のほうへ引き寄せている。あの夜、陽を石の陰へ押しこんだときにできた擦り傷の上に、布がまだ巻いてある。葉を掴むときも、根の土を払うときも、少女はその手の甲を物に当てないようにして、指先だけで扱っていた。
陽は膝の上の縄を持ったままそれを見ている。
選り分け終えると、少女は穴の口のほうへ顎をしゃくった。水だと陽にも分かった。少女は先に口へ入っていく。陽は立ち上がりかけて、斜面の下を見た。
村へ下りる道の脇に、男が一人立っていた。肩に柴の束を担いでいて、どこかへ行く途中で足を止めたところのように見えた。遠くて顔まではよく見えなかったが、昼の男だった。男はこちらを見上げていた。上がってくる様子は無く、声を出しても届かない遠さだった。
陽は立ち上がりかけた姿勢のまま、一拍止まった。
それから、少女の後について穴の口へ入った。開いたままの扉を抜けて、少女は昨日と同じように壁にも触れずに階段を下りていく。陽は少女の左手を見ていた。段を下りるたびに、少女は左の手の甲を身体に寄せ、右手だけで身体を支える場所を選んでいる。その背中の先の段は暗く、陽が段に足を下ろすと、陽の頭の上から壁が光って、光は少女の背中の半歩手前まで届いた。陽がもう一段下りると、少女のいた段が明るくなった。陽の目は少女の手の甲の布にあって、光の筋はその目の端を過ぎていくだけだった。
水の出る壁の前で、二人は昨日と同じように並んでしゃがんだ。陽は先に両手で水を受けて飲み、昨日ほど急がずに、喉を通る冷たさを一口ずつ数えた。少女は右手だけで水を受けて飲み、飲み終えると、布を巻いた左手を膝の上に置いた。布の端が少しほどけて、下の傷の縁が見えていた。塞がりかけてはいるが、端のほうがまだ赤く、少女が指を動かすたびに縁が引きつれる。その上の指はあの夜と同じに曲がっていた。人差し指と中指が途中で違う方を向き、小指は斜めに固まったままだった。
次に怪我をしたら、届く。陽は赤いところを見ながら、そう思った。この擦り傷はもう間に合わないかもしれないが、この先にできる傷は、村の男の手のように熱を持って閉じる。門も開く。曲がった指のほうは、たぶん曲がったままだろう。それでも、この先のぶんは届く。
手を触れて、授ける。
陽の右手が膝から離れた。水の落ちる音の中で、手は少女の左手のほうへ伸びていき、布の上の、赤いところのすぐ上で止まった。指の先と布とのあいだに、指一本ぶんの隙間しか無かった。布の毛羽立ちが一本ずつ見えるほど近かった。触れれば届く。触れるだけでいい。陽の肩は前へ傾いていて、傾いたぶんの重さが、伸ばした腕の先に溜まっていた。少女はまだ水を見ていて、陽の手がそこにあることに気づいていなかった。
止まった手の下に、少女の手がただ置かれていた。あの夜、少女が差し出したのは布のための手だった。今は何も差し出されていない。膝の上に置いた手を、置いているだけだった。陽がこれから何をしようとしているのかを、少女は知らない。知らせる言葉を陽は一つも持っていない。祝福というものが何で、戻せないということが何なのかを、この少女に伝える方法が無かった。伝えられないまま、戻せないことをする。あの夜、握った手を一度で振り払われたときの、振り払われた自分の手の軽さを、陽の手はまだ覚えていた。その手の形のまま、陽は動けなかった。
陽は手を引いた。
その手を膝に戻し、それでも収まらずに腿の下へ押しこむようにして挟みこみ、しばらく自分の指を見ずにいた。水の音だけが続いていて、少女が顔を上げて陽を見た。陽の顔に何かあったのか、少女は少しだけ首を傾げた。
陽は、引いた手で自分の胸を指した。それから少女を指して、指したまま首を傾げてみせた。お前は、と言うかわりの傾げ方だった。
少女は陽の指を見て、陽の顔を見た。何を訊かれているのかを考える間があって、それから少女は、右手の指を自分の胸に当てた。
「ツグミ」
音だった。村の名と同じように、ほかの言葉の並びには収まらない、ぽつんとした音で、陽の耳に残った。陽はそれを口の中でなぞり、なぞったまま声にした。
「ツグミ」
ツグミは頷いた。陽は自分の胸をもう一度指した。
「ヨウ」
ツグミは陽の胸を見て、陽の口もとを見た。
「ヨウ」
ツグミの口から、陽の名が返ってきた。陽は頷き、頷いたまま何か言おうとして、言うことが何も出てこなかった。ツグミは水のほうへ向き直り、もう一度右手で水を受けて飲んだ。
その夜、穴の口の脇で、陽は火を焚かなかった。ツグミは窪みで袋を枕にして横になり、輪を胸の上に載せていた。陽は少し離れた石に背を預け、膝の上で撚りかけの縄を指に巻きつけていた。手を引いたのは、勇気が無かったからじゃないのか。そういう言い方が頭に浮かびかけ、陽はそれを言葉にしないまま、暗い斜面を見ていた。
「よく眠れますか」
陽は答えなかった。
冗談を言う相手はいなかった。言えば女神は笑ってくれるだろうと分かっていて、それでも口は開かなかった。斜面の下の村からは、もう何の音もしない。ツグミの寝息と、自分の息と、どこかで草が擦れる音だけがあった。昼の自分の冗談が、また戻ってきた。何度目かのそれには、黙った男の顔がついていた。夜半に一度、ツグミが寝返りを打った。布を巻いた左手が、身体の下にならないように胸の前へ抱えこまれるのを、陽は見て、見たところから目を逸らした。ツグミの胸の上の輪が、寝息に合わせてわずかに上がっては下がるのが、星明かりの中にかすかに見えた。陽はそれを見たまま、指に巻いた縄をほどきもせずに、朝まで目を開けていた。
朝、陽が顔を上げると、ツグミは袋を背負っている。輪は袋の紐に通してあり、昨日抱えてきた根と葉は袋の中に詰めてある。ツグミは窪みの前に立って、一度斜面の下の村を見渡した。屋根と、崩れた土台と、朝の煙を順に見て、見終えると何も持たずに目を離し、それから腕を上げて、谷の下流のほうを指した。まっすぐな、迷いの無い指し方だった。
行き先があるのだ、と陽は思った。
陽は立ち上がった。持つものは、指に巻いたままの撚りかけの縄くらいしか無かった。陽はそれを手の中に握りこんで、自分の胸を指し、ツグミを指し、それから、ツグミが指した道の先を指した。
ツグミは陽の指の先を見て、陽の顔を見て、肩をすくめた。




