水と灯り
足音を追って下りきると、階段の下は広い場所になっていた。陽が最後の段から足を下ろしたとたん、頭の上がまた白く光って、そこが天井の低い、奥へ長い部屋だと分かった。音はその奥から来ている。陽は光の点いていくほうへ歩き、歩いたぶんだけ光が先へ伸びていって、突き当たりの壁の前に少女がしゃがんでいるのが見えた。
壁から水が出ていた。腰の高さのあたりから細く一筋、途切れずに落ちて、下の窪みに溜まり、溜まった分が床の溝を伝って、どこかへ流れていく。少女は両手を椀にしてその一筋を受け、受けた水を顔ごと沈めるようにして飲んでいた。一度飲んで息をつき、もう一度受けて、また飲んだ。
陽も隣にしゃがんだ。少女は陽を見て、見ただけで、場所を半分空けた。陽は一筋の下に両手を差し入れた。
冷たかった。手のひらに溜まる端から指の隙間を抜けていく冷たさで、陽は零れる前に口をつけ、喉の奥まで一息に流しこんだ。昨日の夕方から何も通していなかった喉が、水の通ったところから順にほどけていった。もう一度受けて飲み、三度目は顔にかけた。顔にかけた水が首を伝って襟の中まで入り、陽は声を上げて笑った。
「うまっ。なにこれ、うまい。水ってこんなうまかった?」
少女は四度目を飲んでいた。飲み終えると濡れた手で口を拭い、陽の濡れた襟もとを見て、口の端をわずかに動かした。
それから少女は、手の甲に巻いていた布をほどき、擦り傷を一筋の下に差し出した。水が傷の上を流れていくあいだ、少女は顔もしかめずにそれを見ていて、流し終えると布を絞り、同じ手つきで二巻きして、また歯で結んだ。陽はそれを横で見ながら、自分がゆうべ何をしようとしたのかを思い出して、目を水のほうへ戻した。
指はまだ鈍かった。水の冷たさはちゃんと分かるのに、手のひらの縁から水が零れていくところが、いつ零れたのかが分からない。陽は受けた水を半分ほど床にこぼし、こぼしたことに少し遅れて気づいて、残った半分を飲んだ。
腹が水で膨れてきたころに少女が立ち上がった。部屋の奥はまだ続いていて、少女はそちらへ歩きだした。陽は窪みの水をもう一口だけすすってから顔を上げ、少女の背中を探した。
少女の行った先は暗かった。陽の立っている突き当たりのあたりだけが白く明るく、その明るさの縁から一歩向こうで、少女の背中が暗がりに半分溶けていた。少女は暗いまま平気で奥へ進み、途中で一度だけ振り返った。陽が明るいところから歩きだすと、陽の頭の上から順に壁が光っていき、少女のいるあたりまで光が届いた。陽が少女に並ぶと、二人のまわりが明るかった。少女が一歩先へ出ると、その先はまた暗かった。陽がもう一歩出ると、そこも光った。
「いやー、便利。どこまで行っても点くね、これ」
陽は面白くなって三歩ほど駆けてみた。駆けた先の壁が、駆けるのと同じ速さで次々に光った。光るたびに、暗かったところが前へ前へと開けていく。低い天井の下で、左右の壁は思っていたより遠くまで続いていて、その壁に沿って何か段になったものの影が並んでいるのが、光に追いつかれるたびに一つずつ見えてきた。地面の下に、これだけの奥行きがあった。止まると光も止まり、戻ると、戻った先はもう光っている。陽はもう一度駆けて、止まって、振り返り、光った壁の筋を指で端から端までなぞるように示した。
「見た? 追っかけてくる。俺のこと好きなのかな、この壁」
少女は光った壁を見上げて、陽を見て、何も言わずに歩きだした。陽は光を連れて、その横に並んだ。
部屋の両側には壁に沿って棚が並んでいた。石とも木ともつかない板が何段にも渡してあり、ほとんどの段は空で、ところどころに何かが置かれたまま埃をかぶっている。少女は棚の前で足を止め、一段ずつ覗きこんでいった。覗きこむ頭が光の真下に来て、陽はそこで初めて、少女の髪をはっきり見た。短い髪は煤けたような栗色で、日に焼けた毛先のほうだけが明るく、切り口はどこも揃っていなかった。覗いては手を伸ばし、持ち上げ、裏を返して眺め、置き直す。陽には何が何だか分からない物ばかりで、少女にもたぶん分からないはずなのに、少女は選んでいた。一つは持ち上げたとたんに重さで手首が下がり、少女はすぐに置き直した。一つは指でつまんだところから崩れて粉になり、少女は顔をしかめて、粉のついた指を陽の袖で拭いた。
「ちょっと。俺の袖で拭かない」
少女の袖のほうは継ぎだらけで、拭く場所ならそっちにいくらでもありそうだった。少女は拭き終えた指を眺めて次の段へ移った。陽は袖の粉をはたきながら、並んで棚を覗いてみる。自分にも何か一つくらい分かる物があるかと思ったが、どれも埃の形をしているだけで、手に取る気にはならなかった。少女のほうは三つ目の棚の、目の高さの段で手を止めている。持ち上げたのは輪だった。指で作った輪を両手で合わせたくらいの大きさで、厚みがあり、埃を払うと、濁った白い色をしている。少女はそれを片手で持ったまま、光にかざした。輪の向こうで、少女の横顔が白い光を受けている。頬骨と顎の線に、もう子どもの丸さは無い。背丈だけなら、陽が前にいた場所で制服を着て歩いていた子らと変わらないのに、顔のほうは、その子らより先にいた。かといって、大人の顔だと言い切れるところまでは来ていない。少女は輪の裏を返し、内側に指を入れて一周なぞった。なぞり終えると、少女は肩の袋を下ろして、袋の口を縛っている紐をほどき、紐の端を輪に通した。
輪は紐の先に、重たそうにぶら下がった。少女はそれを少し揺らして眺め、それから紐を抜いて、掌に載せてまた眺め、もう一度紐に通して、今度は袋に結び直そうとし、結ぶ前にまた抜いた。袋の口に輪を押しこもうとしてみたが、輪のほうが大きく、口の縁にひっかかって入らない。少女は袋を肩にかけ直し、輪を片手に持ったまま棚を離れた。
陽はずっとそれを見ていた。「……それ、持って帰るの?」
少女は輪を持った手を、少しだけ胸に寄せた。
「いや、取らないって。取らない。いいと思うよ、それ。うん。何に使うか知らないけど」
少女は輪を寄せたまま陽を横目で見て、また前を向き、歩きながら一度だけ、輪を光る壁のほうへかざした。
部屋の突き当たりには、もう一枚扉があった。上の扉と同じ、継ぎ目の無い一枚の面で、少女は輪を持っていないほうの手で一度押し、動かないのを確かめると、陽のほうを見た。陽は扉の前に立った。
「開け」
扉はそのままだった。退きもせず、音もせず、陽が言う前と同じ面を見せていた。そのかわりに、陽の指の鈍さが重くなった。握った拳の中で、自分の指がどこで曲がっているのかが分からない。
「……こっちは鍵が要るのかな。上のは要らなかったのに」
少女は扉から離れていた。陽の言葉の続きを待たずに、輪を両手で持ち直し、陽の前へ突き出した。見ろ、というように、輪を陽の手のほうへ押しつけてくる。
陽は受け取ろうとして両手を出し、輪の冷たさが指の腹に触れたのは分かったのに、縁がどこにあるのかが掴めず、握ったつもりの指のあいだを、輪がすべっていった。
床に落ちた輪が、一度跳ねて転がった。
陽は、出したままの自分の両手を見た。冷たさだけがまだ指の腹に残っている。一拍、そのまま手を見てから、陽はしゃがんで、転がっていく輪に追いついて拾い上げた。拾うときは、手のひら全体で押さえるようにした。
「……ごめん。落とした。いや、すべるね、これ。つるつる。ほら、つるつる」
輪を差し出すと、少女は受け取らずに、陽の顔を見ていた。見ているうちに、少女の口の端が、さっき濡れた襟もとを見たときより大きく動いた。それから少女は声を出して笑った。低くはない声が、短く切れるだけの笑いだったが、笑っていた。陽の、しゃがんだまま輪を掲げている格好を見て、笑っていた。
陽も笑った。何がおかしいのか説明できないまま、つられて笑って、笑いながら立ち上がって、輪を少女の手に返した。少女は受け取った輪を片手に、まだ肩を揺らしていた。
二人は水の出ている突き当たりまで戻って、並んで座った。少女は袋から干した根を出して噛み、噛みながら、膝に載せた輪を指で回している。陽はもう一度水を飲み、飲み終えると冷たい床に仰向けになった。天井の低いところが白く光っていて、その光が自分のためだけに点いているような気がして、陽はそれをしばらく眺めていた。水の落ちる音と、根を噛む音と、輪が指の下で回る小さな音がする。誰も喋っていなかった。喋らなくても、誰も困っていなかった。
帰りの階段は長かった。陽が上るたびに壁はもう一度光ったが、光はとっくに点いたままで、上のほうまで一本の筋が続いている。崩れた段の前で、少女は輪を持ったまま塊に手をかけた。片手が塞がっているぶん、下りてきたときほど身軽ではなく、塊の縁を掴み直す手が一度だけ滑ったが、輪は放さずに、少女は膝と肘で塊を押さえて、上の段へ身体を引き上げた。引き上げてから振り返り、空いたほうの手で陽に、来い、と掻いた。
陽は塊に手をかけた。石の角が手のひらにはっきり当たった。指の腹にも、ざらついた継ぎ目の粗さが戻ってきていて、陽は掴んだ石の感触を、今度は確かめもせずに頼って、自分の身体を上へ引き上げた。息が切れて、上の段に尻をついて、少女の顔を見上げると、少女はもう先に行きかけている。
扉を抜けて穴の口から外へ出ると、日は傾いていた。斜面の草が長い影を引いていて、空の端が赤い。一日じゅう地下にいたのだと、陽はそこで初めて気づいた。水しか入っていない腹が、斜面の風に当たって鳴った。
少女は穴の口の脇の窪みに腰を下ろし、輪を膝の上に載せて、夕日にかざした。濁った白が日の色を透かして薄赤くなった。少女はそれを陽のほうへ向けた。見ろ、とまた言っているようだった。
陽は親指を立てた。少女は陽の親指を見て、首を傾げた。陽は親指を立てたまま大きく頷いてみせた。いい、それ、いい。少女は輪を膝に置いて、自分の片手を見下ろし、親指を少しだけ持ち上げかけて、そのまま下ろした。その手で輪を取り直し、もう一度かざして、今度は陽のほうを見ずに、ひとりで眺めていた。陽は親指を下ろさないまま、しばらくそれを見ていた。
斜面を下りて村の外れまで来ると、家の前に何人か出ていた。夕の飯の支度をしているらしく、どこかで火が焚かれている。家の軒下で、昨日屋根に上がって陽を見下ろした子どもが、陽を見つけて何か言いかけ、横の大人に袖を引かれて黙った。陽が手を上げると、昨日手を塞いだ男がこちらを見て、それから陽の後ろの斜面を見上げた。穴の口の脇に少女の影が小さく座っていた。
「穴に入ったのか」
男が言った。陽が頷くより先に、男は続けた。
「名無しを、穴に入れたのか」
陽は答えなかった。




