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名無しと勇者 〜転生先で「勇者」と呼ばれた俺と、「名無し」と呼ばれる少女〜  作者: 猫間じん


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開く者と開かない者

振り返った少女の顔は何も頼んでいなかった。扉が開かないことを、陽に見せているだけの顔で、陽が見返しても表情は変わらず、少女はそのまま扉のほうへ向き直った。陽は黒い棒になった薪を草の上に置き、斜面を穴の口まで上がった。上がりながら「おはよう」と言ってみたが、口に出してから、それも届かないのだと思い出した。腹が鳴った。粥を三杯食べたのは昨日の夕方で、そのあと何も口に入れていない。


口を入ると、足もとがゆるく下って、その先に扉があった。近くで見ると継ぎ目の無い一枚の面で、取っ手も、鍵穴らしいものも無い。縁は石の枠にぴったり嵌まっていて、爪を差しこむ隙間も見つからなかった。少女は陽が来るのを待たずに、もう一度その面を両手で押した。肩を入れ、足を踏ん張り、身体ごと押しているのに、扉はわずかにも動かない。押すのをやめると、少女は一歩下がって扉の上から下までを眺め、眺め終えると、また押した。同じことを何度もやってきた手順のように見えた。


「ちょっと、代わって。こういうのはね、たぶん押す場所があるんだよ。ダンジョンの扉って、だいたいそうなの」


陽は少女の横に並んで、同じように両手を当てた。面はひんやりしていて、押すと、押したぶんだけ自分の腕が縮むだけだった。真ん中を押し、右の端を押し、左の端を押して、しゃがんで下のほうも押してみた。体重をかけ、もう一度かけ、最後に肩で当たってみて、跳ね返されてから陽は手を離した。肩がじんと痛み、少女はそれを横で見ている。


「開かないね。……これ、壊れてるんじゃない? ずっと誰も使ってなくて、中で何か詰まってるとか。錆びるのかな、こういうのって。錆びなさそうな顔してるけど」


少女は答えなかった。答えられないことは夜のうちに分かっていたのに、陽の口はそれでも止まらなかった。村の人たちもここを開けたことがあるのか、と訊こうとして、訊く相手がいないことに気づき、代わりに扉の面を拳で軽く叩いてみた。叩いた音は、少女が叩いたときと同じように、奥へ吸われていった。


陽は面の真ん中あたりを見ている。何も書かれていない、何の印も無い面を見ているうちに、さっきまで口の中にあった冗談の続きが、どこかへ行っていた。


「開け」


扉が、内側へ退いた。


陽の両手は、面から肘ひとつぶん離れたところで、下がったままだった。その手の先で、さっき肩で当たって跳ね返された面が、奥へ退いていく。少女が全身で押しても、陽が体重をかけても、わずかにも動かなかった面だった。いまは誰の手も触れていない。陽の手からも、少女の手からも離れたまま、面だけが遠ざかっていった。


向こうに暗い四角が口を開けていた。冷えた空気がそこから流れ出してきて、陽の足首のあたりを撫でていった。奥は何も見えない。開けたのは自分なのに、陽は暗がりの手前で足が前へ出ず、出ないまま、開いた扉の縁と暗がりとを交互に見ていた。


少女が一歩下がった。扉があった場所と陽の顔とを見比べ、それから陽の顔だけを見た。夜に火の前で陽を値踏みしたときの目とは違っていた。得体の知れない生き物に、どこまで近づいていいかを測る目つきで、その目のまま、少女はもう半歩、陽から離れた。


「……いや、今のはね」陽は両手を広げて見せた。「押し方が良かったんだと思う。さっきのでだいぶ緩んでて、最後のひと押しがね。コツがあるの、こういうのは。長年の勘っていうか」


少女は陽の手を見た。何も押していない、広げただけの両手をしばらく見て、それから暗い四角のほうへ顔を向けた。陽の冗談は今度も何も連れてこなかった。


「……アカリさん。今の見た? 開いた」


「はい。お見事です、勇者クサカベイ」


「でしょ。いや、押し方なんだけどね、たぶん」


言いながら、陽は自分が「開け」と言ったときの声を思い出そうとした。どんな調子で言ったのか、大きかったのか小さかったのか、それが出てこない。冗談を言う前の、何も考えていなかったところから出た声で、思い出そうとすると、そこだけ手触りが無かった。陽は思い出すのをやめて、口の端を上げ直した。


陽がそうしているあいだに、少女が先に入っていった。入ってすぐのところで振り返り、陽に向かって、掌を下にした手を二度、自分のほうへ掻いた。来いということらしく、陽は同じ手つきを自分の手でやってみせてから後に続いた。少女はそれを見て、何も返さなかったが、さっき離れた半歩ぶんを詰めもしなかった。


中は階段だった。石の段が下へまっすぐ続いている。入口から差しこむ朝の光は三段目あたりで薄くなり、その先は暗い。空気は冷たく乾いていて、埃の匂いがかすかにした。陽は一度だけ振り返った。扉のあった四角の向こうに、朝の草と空が小さく切り取られていて、斜面の下の村はもう見えない。それから片手を壁につき、一段ずつ足を下ろしていった。


足が、段の高さに合った。


一段下りるたびに、次の段がちょうど足の来るところにあった。高すぎも低すぎもせず、目で確かめなくても、膝が勝手に次の段の分だけ曲がる。慣れた高さだった。陽は三段、四段と下りるうちに確かめる気もなくし、段のことを考えなくなった。


壁についた手のほうは、そうはいかなかった。石と石の継ぎ目を伝っていけば暗がりでも迷わないと思っていたのに、指の下をいつ継ぎ目が過ぎたのかが分からない。溝があったはずのところで指が滑り、滑ったことにも少し遅れて気づく。陽は手を壁から離して握り直し、もう一度当てても拾えないので、今度は足で段の縁を探りながら下りた。膝の曲がり方は正しいのに、足の裏が縁を探し当てるまでの一瞬が、段ごとに長くなっていった。段の数を数えようとして、壁の継ぎ目で区切りをつけるつもりだったのが、継ぎ目が拾えないので途中で分からなくなり、二十を過ぎたあたりで数えるのをやめた。


先を行く少女の背中は、暗がりの中にほとんど溶けている。壁に手もつかず、足もとも見ずに下りていく。踊り場のようなところで一度止まって陽を振り返り、今度は掌を陽のほうへ向け、押しとどめるように突き出した。待てということらしかった。


陽は止まり、止まったまま同じように掌を突き出してみた。少女は陽の掌を見もせずに、踊り場の端へ寄っていった。


「俺の待ては効かないのね。了解」


陽はついでにほかの手ぶりも試してみた。自分の腹を押さえてから、口もとへ何かを運ぶ手つきをしてみせる。腹が減った、のつもりだった。少女は陽の手つきを一度だけ見て、見ただけで、踊り場の端へ顔を戻した。陽は運ぶ手つきのまま止まった自分の手を見て、ひとりで少し笑い、手を下ろした。


踊り場の先で階段が何段ぶんか崩れている。石の塊が斜めに重なっていて、その下が暗い。少女は塊の縁に手をかけ、足先で一つ下の塊を確かめ、確かめたと思ったときにはもう下の段に降りていた。降りたところで振り返り、また手を掻く。来い。


「いや無理でしょ、それ。急に難易度上がりすぎ」


陽は崩れた縁まで行って下を覗いた。塊と塊のあいだが暗く、どこまで深いのか分からない。尻をついて塊の一つに足を伸ばし、踵が触れたのを確かめてから体重を移すと、塊がわずかに傾いた。陽は声を上げかけて飲みこみ、傾いたまま止まった塊の上で、しばらく動けなかった。下で少女がこちらを見上げている。扉の前で陽から離れた、あの半歩ぶんの距離を、少女は測り直すように一度だけ目で見て、それから手を伸ばしてきて陽の足首を掴み、次の塊の上へ置き直した。足首に巻きついた指は硬く、曲がって付いたところの節の当たり方まで、そのまま足首に分かった。置かれたところはびくともしなかった。少女は続けて、次に足を置く塊を指で一つずつ差していった。ここ、ここ、それからここ。陽は差されたとおりに足を運び、運ぶたびに少女の指を見て、三つ目で下の段に降り立った。


「……ありがと。いや、ほんとに。ありがとうございます」


少女は陽の足首から手を離し、また先へ下りていった。手を離す前に一度だけ、掴んだ足首を確かめるように見ていた。


そのとき、陽の頭の上が明るくなった。


壁の高いところがぼうっと白く光っている。陽が段を一つ下りるとその先の壁も光り、もう一つ下りるとまた光る。光は陽が下りるのに合わせて点いていき、通り過ぎた後ろでも消えずに残って、振り返ると、階段の上のほうまでが薄明るい一本の筋になっていた。陽は試しに一段上へ戻ってみたが、光はどこも消えず、戻った段の上でも同じように点いたままだった。消えないんだ、と陽は少し感心し、感心したまま、また下りはじめた。


「おお。勝手に点く。親切だなあ、異世界。アカリさん、これもしかして勇者向けのサービス?」


女神は答えなかった。陽は光った壁を見上げ、見上げたまま一段踏み外しかけて、慌てて壁に手をつき、その手の下で、また継ぎ目がどこにあるのか分からなかった。陽は壁から手を離して、手のひらを腿で拭くふりをした。


一度、少女が下の暗がりで振り返った。陽の頭の上の光る壁を見上げ、それから陽の顔を見て、また光る壁を見た。扉の前で見せたのと同じ目つきが、一瞬だけ戻っていた。


光は陽のまわりだけを照らしている。先を行く少女の背中は、光の届く一歩先の暗がりにずっとあって、陽が追いつくと少女のいたあたりが光り、そのときには少女はもう一段下の暗がりにいた。陽は光る壁の筋を数えるのに気を取られていて、自分の足もとより少女の背中のほうが暗いことには、目を向けなかった。


「ねえ、これ、ずっと下まで続いてるのかな。下に何があるか知ってる? 知らないか。知ってたら、あんなに叩かないもんね、扉」


階段は思っていたより長かった。光る壁の筋は陽の後ろで伸び続け、入口の四角はとうに見えなくなっている。陽の息が上がってきて、下りるだけなのに膝が笑いはじめたころ、少女が止まった。


顔を少し上げ、耳を下のほうへ向けている。陽も止まって、自分の息の音を抑えてみると、下のほうから細く絶えない音が上がってきている。石の上を、何かがずっと流れていく音だった。水だ、と陽が思ったとたん、喉が、昨日の粥のあとから何も通していないことを急に思い出して、ひりついた。


陽が何か言うより先に、少女が段を蹴った。


暗がりの中を、少女は壁にも触れずに駆け下りていき、その背中はすぐに光の届かないところへ消えて、足音だけが下へ遠ざかっていった。


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