そこにいない少女
目は動かなかった。陽の手の火が揺れるたびに光り方が少しずつ変わるだけで、二つとも同じ高さに並んだまま、こちらを向いている。人の目の高さよりずっと低く、地面に伏せた獣ならちょうどそのくらいだろうと陽は思い、思ったときには、白いところで聞いた並びが頭の中にあった。傷を塞ぐこと、毒を分解すること、魔物を一瞬惑わせること。
「惑え」
目は止まらず、逸れもせず、さっきまでと同じように火を映して光り、それから、少しずつ近づいてきた。陽の指先に、昼に桶の縁で覚えたのと同じ鈍さが戻ってきていて、薪を握る手の、どこまでが自分の指なのかが曖昧になった。
「待って、待って、効いてない、アカリさん、これ効いて」言い終える前に、目が火の届くところまで来た。
人だった。低く見えたのは、斜面の上で膝をついていたからで、火の前で立ち上がると、陽より頭ひとつ小さかった。細いが、肩が張っていて、立ち上がる動きに無駄の無い、少女だった。火を映していた目は、まともに光の中へ入ってくると、もう光らなかった。その目が、陽の顔から火へ、火を持つ手へ、手から足もとへと下りていき、また顔へ戻った。値踏みされていると陽は思い、その結果があまり良くないことも、なんとなく分かった。
「……人か。人ですよね。うわ、ごめん、ごめんなさい、今なんか変なこと言ったけど、あれは違くて」
少女は何か言った。陽の耳にはそれが音として入ってきて、音のまま、どこにも着かなかった。村の人たちの言葉は、聞いた端から何を言っているか分かったのに、いまの声からは何も分からない。
「え、ごめん、もう一回。……何語?」
少女は首を傾げ、陽が何か言うたびに同じ角度で傾げて、三度目にはもう傾げずに陽の顔をただ見ていた。陽は手ぶりを足そうとして、火を持っていないほうの手を宙で泳がせ、何を示すつもりだったのか自分でも分からなくなってやめた。
少女が陽の口の前に指を一本立てた。その指の向こうで、彼女の顔が斜面の上を向いている。陽がつられて見上げると、穴の口の上、草の切れたあたりの尾根を、黒い背中がゆっくり動いている。大きさは牛ほどもあり、頭を低く下げて、地面の匂いを嗅ぎながら歩いている。少女は陽の手首を掴み、火ごと陽を引き寄せて、脇の大きな石の陰へ押しこんだ。押しこまれたときにはもう、薪は彼女の手に移っていて、火のついた先が石と彼女の身体のあいだに低く抱えこまれていた。
黒い背中が止まった。鼻先が一度こちらを向き、しばらくそのまま動かず、それから尾根の向こうへ下りていった。
少女は背中が見えなくなってからも少し待ち、薪を石の陰に低く置いたまま、自分だけ外へ出た。火の届かないほうへ顔を向け、足もとを見ずに石の上を一歩ずつ移っていって、尾根の見える位置まで出ると、しばらくそこで動かずにいた。暗がりの中で、彼女は一度もつまずかなかった。戻ってくると薪を拾い上げて陽に返し、返すときには、火のほうではなく持つほうを差し出していた。
「……すげえ」陽は小声で言った。声を戻すのが遅れていた。「なに今の。いや今のあれも何なんだけど、あなたも何。なんで分かったの、あれが来るの」
少女は太めの眉の下から陽の顔を見ただけで、何も返さなかった。答えられないのだろうと陽は思い、思ったぶん、自分の声が少し大きくなっていたことに気づいて、また小さくした。
彼女の手が、火の中にあった。石の陰へ陽を押しこんだときに、どこかで擦ったのだろう。手の甲の、指の付け根のあたりに新しい擦り傷があって、薄く血が滲んでいた。けれど陽の目が止まったのはそこではなかった。人差し指と中指が、途中で少しずつ違う方向へ曲がっていて、曲がったところの節が太い。小指は一度折れたまま、斜めに固まっていた。爪は短く、どれも縁が割れている。掌を返すと、指の腹が硬く光っていた。古い怪我が、治ったあとではなく、曲がったままそこに付いている。顔を見て少女だと思ったのに、この手は、年下の者の手ではなかった。
少女が、陽の腰を指さした。昼に拾った布が、たたんだまま挟んである。彼女は布を指した指で、今度は自分の手の甲の擦り傷を示し、それから掌を上にして、その手を陽のほうへ差し出した。
鎌で手を切った男も、昼にこうやって手を出した、と陽は思った。
「任せて」
陽は差し出された手を握り、擦り傷の上に自分の指を置き、曲がった指の節の硬さが掌に当たるのを感じながら、滲んだ血を見ていた。
「塞がれ」
何も起きなかった。
握った手は熱くならず、擦り傷は擦り傷のまま、滲んだ血も滲んだまま、火の揺れにつれて影を変えるだけだった。そのかわりに、陽の指の鈍さが重くなった。握っているはずの彼女の手が、もう一枚、厚い布の向こうへ遠ざかったようになり、自分がどのくらいの強さで握っているのかが分からなかった。
「あれ。……ちょっと待って、もう一回」
言い終わる前に、握っていた手が動いた。鈍くなった陽の指の中で硬い節がねじれ、握っていたはずの力ごと、指のあいだから引き抜かれていく。追うつもりで指を閉じたときには、そこにはもう何もなく、陽の手は、握った形のまま宙に残った。
少女は振り払ったその手を伸ばして、陽の腰から布を抜き取った。速かった。陽から一歩離れて、自分で擦り傷の上に巻きはじめる。片手と歯で端を押さえ、慣れた手つきで二巻きして、結び目を作る。巻き終えるまで陽のほうを一度も見ず、巻き終えると、火から一歩ぶん遠いところへ下がって、そこに立った。
陽は、その手をまだ下ろせずにいた。彼女が指さしたのは布で、見せたのは擦り傷で、差し出したのは、布をくれという手か、巻いてくれという手だった。陽はそこへ、頼まれてもいないことをした。昼の男は、何をされるか分かって手を出していた。
「ごめん」
言っても届かないのは分かっていたので、陽は頭を下げた。膝に手を置いて、腰から折る、二十年やってきた角度で下げた。顔を上げると、少女は巻き終えた布の結び目を歯で締めながら、陽の下げた頭のあったあたりを、何をしているのか分からないという顔で見ていた。陽はもう一度下げかけて、やめた。
効かなかったことのほうも、陽は考えようとした。今日はもう出ないのかもしれないし、クールタイムみたいなのがあって、一日に二回までとか、そういう決まりがあるのかもしれない。それとも、握った瞬間に、彼女のほうでは嫌だったからか。どちらとも決められないまま、陽は自分の指先を擦り合わせ、擦り合わせた感触がまだ遠いのを確かめて、手を膝に置いた。
「アカリさん」陽は小さく言った。「この子、何なんだ」
少し間があった。「……申し訳ありません。今、何のお話でしたか」
「いや、だから、この子。いま目の前にいる」
女神は何も言わなかった。陽はもう一度言いかけて、布を巻き終えた少女が火の向こうで袋を下ろすのを見て、言うのをやめた。女神にも分からないことがあるのだろう、とだけ思って、それ以上は追わなかった。
少女は穴の口の脇の、石と斜面のあいだの窪みに袋を置き、その横に腰を下ろした。それから火のほうへは来ずに、暗がりの草の中へ手を入れて、何かを摘んでは鼻に近づけている。一つは匂いを嗅いだだけで投げ捨て、一つは葉をちぎって噛み、噛んだ葉も吐き出して、三つ目の細い根を土から抜くと、土を指で落として袋の上に置いた。袋からも干からびた根のようなものを出して、端から噛みはじめた。村へ戻る気配は無く、陽も、村の家へ戻る気にはならなかった。戻る道は分かっていたが、筵の上であの静けさの中にもう一度寝るより、ここにいるほうがましな気がした。
陽は火を地面に立て、少女から少し離れたところに座った。「えっと。今日はほんと、ごめん。いきなり掴んで。俺ね、今日この辺に来たばっかりで、まだ勝手が分かってなくて、いや言い訳なんだけど、あの、村の人は優しくてさ、飯とかもらって、粥が」
少女は根を噛みながら、陽の声を聞いていないわけではなく、耳はこちらへ向いていたが、何も返ってこなかった。笑いも、相槌も、首を傾げることさえ、もう無かった。陽は次の話を探し、探したものを口に出しかけて、それが誰にも届かないことに、喋っている途中で気づいた。
陽は黙った。
火の爆ぜる音と、少女が根を噛む音だけが残った。陽は膝を抱え、黙ったまま火を見ていた。指先はまだ遠く、膝を抱えた手が自分の脛に触れている感じが薄い。少女が根を噛む音は、規則正しく、急がない。噛むたびに、日に焼けた頬が火の色を受けて動く。噛み終えると次の一本を出し、途中で一度だけ袋の口を締め直して、また根に戻る。陽はそれを見ていたが、何かを訊く言葉を持っていなかったし、持っていても訊かなかったような気がした。黙っていることが、思っていたより怖くなかった。怖くないことのほうに少し驚いて、驚いたことも口に出さずにいるうちに、火が小さくなり、少女が一度だけこちらを見て、また根に戻った。やがて少女は根を袋にしまい、窪みの石を背にして、斜面の上と下の両方が見える向きに身体を丸めた。
朝、陽は草の上で目を覚まし、いつ眠ったのかは覚えていなかった。跳ね起きて窪みのほうを見ると、袋も少女もいなかった。窪みのそばの土に、根を抜いた跡の小さな穴が一つ、そのまま残っているだけだった。陽は立ち上がって斜面の上下を見回し、見回しているあいだに、自分がなぜこんなに慌てているのかが分からなくなって、少し立ち止まった。薪は燃え尽きて黒い棒になっていて、それを拾った指先は、もう普通に棒の手触りを拾っていた。
斜面の下に、昼に桶を担いでいた男が立っていた。水を汲みに行く途中らしく、肩の棒に空の桶を下げている。陽が片手を上げて「おはようございます」と言いかけると、男は陽の顔を一度見て、それから陽の後ろのほうを見た。
「名無し」
陽に言ったのか独り言なのか分からない声でそれだけ言うと、男はそれ以上何も言わずに、穴の口を避けて大きく曲がる道を下りていった。
陽は後ろを振り返った。少女は穴の口の中にいた。口を入ってすぐ、地面がゆるく下った先に平たい扉があって、その前に立ち、拳で叩いている。一度、二度、少し間を置いてもう一度叩いても扉は開かず、叩いた音だけが奥へ吸われていった。
少女は叩くのをやめ、振り返って、陽を見た。




