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名無しと勇者 〜転生先で「勇者」と呼ばれた俺と、「名無し」と呼ばれる少女〜  作者: 猫間じん


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最弱の管理者

目を開けると空だった。背中の下に草があり、陽は仰向けのまま何度か瞬きをして、上にあるのが青いことを確かめてから肘をついた。身体を支えた腕の袖が、くすんだ緑をしていた。飾りの一つもない上下で、布はどこも擦れておらず、折り目がまだ立っている。初期装備か、と陽は思い、思っただけで少し笑った。斜面の途中に寝ていたらしく、足のほうへ向かって草が下っていき、その先に屋根がいくつか寄り集まっている。風が首筋を撫でていって、草の匂いが遅れて鼻に届いた。


「アカリさん」


呼びながら首を回したが、草と空と、斜面の下の屋根のほかには、誰も立っていなかった。


「はい」


声だけが返ってきた。白いところで向かい合っていた姿は、見回してもどこにも無い。声だけなのかと陽は受け取り、いるならそれでいいと息を吐いて、吐いたぶんだけ笑ってから斜面の上を振り返った。背後の斜面に、石で組んだ口が開いていた。人の背丈より少し高い四角い入口で、奥は下へ向かって暗く落ちている。その入口の上の石の面に、走る人の形が刻まれていた。片足を大きく踏み出し、腕を振って、四角い戸口のほうへ駆けこんでいく形だった。


これ、非常口マークじゃないか。


陽は口の中でそう言いかけて、首を振った。似ているだけだろう。逃げる人間を描けば誰が描いてもだいたいこうなるし、異世界にだって逃げる人はいる。そういう紋様なのだと自分に言い聞かせているうちに、下のほうで高い声がした。


斜面の裾、屋根の手前に崩れた石の土台がいくつも並んでいて、その縁を子どもが四、五人、跳び移っていた。土台と土台のあいだは陽の脚でも二歩はありそうなのに、子どもたちは助走もつけずに跳んで渡り、足を踏み外した一人は笑いながら列の後ろへ回る。その一人が陽に気づいて指を差し、何か叫んだと思うと、全員が土台から飛び降りて屋根のほうへ散っていった。誰も斜面を登ってこなかった。走っていく道筋が穴の口を避けて大きく曲がっていて、口のまわりの草だけが、踏まれないまま丸く残っている。


大人は三人来た。屋根のあいだから出てきた影が三つ、斜面の下で縦に並んで、こちらへ上がってくる。まだ顔の見分けもつかない遠さで、真ん中の一つの輪郭だけが妙だった。頭の両脇から何かが斜め上へ伸びていて、先が、頭の天辺と同じ高さで尖っている。


「え、待って、耳。耳とがってません? ……エルフ?」


半分は声になっていたが、斜面の下までは届かない。陽は口を押さえて、上がってくる三つの影を見ていた。


先頭の一人は陽より頭一つ高く、肩に渡した棒の両端に水の入った桶を下げたまま斜面を上がってきて、息も乱していなかった。その後ろに、頭の上まで届く尖った耳をした年寄りと、片手を布で縛った男が続いた。布には赤い染みが滲んでいる。三人とも、くすんだ赤土色の服を着ていた。洗いざらして色の抜けた肘や膝に、別の布が当ててある。陽は自分の袖を見下ろした。色が違う。新しいのは、ここで自分のだけだった。三人は陽から数歩のところで止まり、陽の顔と、背後の穴の口とを見比べた。


「穴の前に寝てたってのは、これか」


「ヨリの者じゃないね」


「寝てただけかね。怪我は無さそうだ」


何を言っているかは分かった。女神の言っていた言葉の魔法だろうと陽はありがたく受け取り、それでも、ヨリ、という一語だけが、ほかの言葉と同じ並びに収まらずにぽつんと耳に残った。村の名前なのだろう。異世界の地名なのだから、耳に馴染まなくて当たり前だった。


陽は立ち上がって、両手を胸の前で広げて見せた。「どうもどうも、怪しい者じゃないです。いや、この状況だと十分怪しいか。すいません。えっと、勇者です、一応。クサカベイっていいます。一応っていうのは、さっきそう言われたばっかりで、まだ実績がゼロだからなんですけど」


三人は顔を見合わせた。桶の男は棒を肩から下ろしもせず、目だけを動かして年寄りを見る。年寄りはその目を一度受けてから、陽の顔へ戻し、背後の穴の口へ、穴の口から陽の足もとへと目を下ろしていき、耳の先を指で掻いた。手を縛った男は二人の顔を順に見て、それから陽の手へ目を落とし、縛った手をもう片方の手で押さえ直した。押さえた布の赤いところが、さっきより広がっている。三人とも、止まった場所から前へは出てこなかった。陽と三人のあいだには、大人の歩幅で四歩ぶんほどの草が、踏まれないまま残っている。


「それ、切ったんですか」


「鎌で」男は短く言った。「刈ってて、滑った」


「見せてもらっていいです?」


男は年寄りの顔を見た。年寄りは何も言わなかった。男は少し迷ってから一歩だけ前へ出て、縛った手を陽のほうへ差し出した。残りの三歩は、陽のほうから詰める。布の結び目をほどき、巻きを一つずつ外していく。途中で顔を上げると、男の目がすぐそこにあった。虹彩が二重の輪になっていて、外の輪と内の輪とで色が違う。陽はそれを見て、すぐ手に目を戻した。手のひらの小指側から手首のほうへ、鎌の刃の形のままに裂けていて、布が離れたとたんに血が盛り上がってきた。陽の口は、いつのまにか止まっていた。


「塞がれ」


男の手のひらが、陽の指の下で熱くなった。盛り上がっていた血がそれ以上盛り上がらなくなり、裂けた縁と縁が、見ているうちに寄っていく。


男が手を引いた。


その手を胸に抱えるようにして男は二歩下がり、年寄りも一歩下がって、桶の男は棒を肩から外し、桶を地面に置いた。置く音が、陽の耳にやけに大きく聞こえた。いつのまにか戻ってきていた子どもたちが、大人の脚のあいだから顔を出していて、誰も喋らなかった。男は抱えていた手をそっと開いて、赤い線だけになった手のひらを見下ろし、閉じて、また開いた。


「女神の手だ」


年寄りが言った。言いながら両手を胸の前で合わせていて、その手が小さく震えていた。


陽は笑っていて、止めようとも思わなかった。白いところで塞いだ親指とは、わけが違う。人の手が、自分の一言で、目の前で閉じたのだ。


「いや、そんな大したもんじゃ……いや、大したもんか。大したもんですよね、今の。見ました? 見ましたよね、全員」


誰も頷かなかったが、誰も目を逸らさなかった。女神の手、という言葉を、陽は褒め言葉として受け取った。


「よくできました、勇者クサカベイ」


「でしょ」


陽は声に出して答えていた。年寄りも男も桶の男も、陽の顔を見たまま何も応えず、聞き返しもしなかった。


「あ、その桶、俺持ちますよ。お礼っていうか、勇者の最初の仕事ってことで」


置かれた桶の縁に手を掛けると、指先がどこか鈍かった。縁の木の角が、あるのは分かるのに、どこから角なのかがはっきりしない。陽は握り直して持ち上げようとし、桶は地面から離れなかった。両手で掛けても、底の片側が浮いただけで水が揺れた。桶の男が黙って横から手を出し、同じ桶を片手で提げて、もう一つの桶と一緒に棒に掛け直すと、そのまま斜面を下りはじめた。


「待って、待ってください、勇者置いてかないで」


追いかけて走ると、十歩もしないうちに息が上がった。子どもたちが陽の前に回り、後ろに回り、横を抜けては振り返って、陽の顔を見上げてからまた先へ走っていく。桶の男の背中はずっと同じ距離にあり、陽が屋根のところまで下りきったときには、とっくに桶を下ろして戻ってくるところだった。陽は膝に手をついて、肩で息をした。顔を上げると、さっきの子どもの一人が家の軒へ手を掛け、足を壁に一度当てただけで屋根の上へ上がって、そこから陽を見下ろしていた。


「勇者、遅い」


「知ってる。……知ってます。いま勇者、人生でいちばん知ってる」


屋根の上で子どもが笑い、下にいた子どもも笑った。陽も笑ったが、笑うとまた息が足りなくなって、途中で咳になった。


飯は外で出た。屋根の並ぶ真ん中の空き地に火が焚かれ、鍋が掛けられ、人がどこからともなく集まってきた。集まってきた人たちは、まず手を塞がれた男のところへ行った。男は手のひらを開いて見せ、見せられた者は赤い線に顔を近づけ、それから火の向こうの陽を見た。見る者の数が増えるたびに、陽のまわりだけ地面が少しずつ広く空いていった。誰かが火にいちばん近い丸太を空けて、陽をそこへ座らせた。子どもが一人、陽の手を取って裏返し、何も無い手のひらを見て、自分の手と並べてから走って逃げた。その先で、枝を持った別の子どもが仲間の腕に枝の先を当てて、ふさがれ、と言い、言われた子が大げさに腕を押さえて転がり、それを見ていた大人の何人かが、笑いかけた顔をすぐに引っ込めた。鍋の番をしている者が、陽の椀に粥をよそうたびに、杓子の柄で鍋の縁を一度ずつ叩いた。一杯目で一度、二杯目で二度目を叩き、三杯目をよそうとき、叩く前に一度だけ陽の顔を見た。


「食いますね、俺。すいません。なんか、すごい腹減ってて」


鍋の番は何も言わずに三度目を叩いた。


干した川魚を裂いたのが回ってきた。回してきた者は、自分の分から大きいほうを選んで陽の椀に載せ、小さいほうを持って下がっていった。粥に載せると塩の味がした。陽はよく喋った。喋ればそのぶん笑いが返ってきて、返ってくるのが嬉しくて、また喋った。粥がうまいと言い、魚がうまいと言い、子どもに石の土台を渡る遊びの決まりを訊いて、落ちたら負けで、渡り切った者が次の順番を決めるのだと教わると、勇者なのでたぶん一発で渡れると言って笑わせた。村人は笑った。どこから来たのかを訊く者は、一人もいなかった。陽は訊かれないことにほっとしていて、ほっとしていることには気づかないまま、次の話を探していた。


「そういえば、あの上の穴。俺が寝てたとこ。あれ、なんて呼んでるんです?」


尖った耳の年寄りが、椀を置いてから答えた。


「ホカンの穴」


ホカン、という音も、ヨリと同じように、ほかの言葉の並びから一つだけ浮いて耳に残った。陽はその音を口の中で一度転がし、転がしただけで飲みこんだ。


「ホカンの穴。へえ。子どもたち、あっちのほう全然行かないですよね。昼に見てたら、ぐるっと避けて走ってて」


「行かない」


年寄りはそれだけ言って、椀を取り直した。隣の者も、その隣の者も、同じように椀を口へ運んでいる。陽は「なるほど、行かない」と繰り返し、繰り返したことで何か分かったような顔をして、魚の残りに指を戻した。


手を塞がれた男は火のそばで、何度も手のひらを開いては見ている。見るたびに、もう片方の手の指で赤い線をなぞり、なぞってはまた握る。巻いていた布は膝から滑って地面に落ちていて、男はそれを拾わなかった。陽は帰りぎわにそれを拾い、たたんで腰に挟んだ。桶の縁のぼやけた感じは、粥の二杯目を食べているあいだに指から消えていた。疲れたのだろうと陽は思い、三杯目を食べた。


寝床を決める者が、空き地の端に立って家々を見回した。穴の口のある斜面のほうを一度見て、それから反対の端の、いちばん遠い家を指した。


戸口に筵の垂れた家で、中は土の匂いがして、隅の炉にまだ燠が赤く残っている。陽は筵の上に横になり、しばらく目を開けていた。頬の下の筵は乾いた草の匂いがして、そこに燠の煙の匂いと、湿った土の匂いが混じる。どれも嫌ではないのに、一つも覚えがなかった。外で誰かが咳をして、それが止むと、何も聞こえなくなった。遠くの車の音も、壁の向こうで唸る機械の音も、夜のいちばん底でいつも鳴っていたはずのものが、ここには初めから無かった。


陽は起き上がった。炉の燠に細い薪の先を押しつけ、火が移るまで息を吹きかけて、それを持って外へ出た。村は寝ていて、空き地の火も消えている。手の火が照らす範囲だけ地面が見え、その輪の外は、塗りつぶしたように何も無かった。陽はその輪を少しずつ前へずらしながら歩いた。どこへ行くつもりなのか自分でも分からないまま、足は昼に下りてきた斜面のほうへ向かっている。この世界で知っている場所は、まだそこしか無かった。


夜の土は昼より冷たく、足の裏がそれを拾った。村の外れまで来ると、斜面の上に穴の口の形が黒く見えた。昼に子どもたちが避けて曲がった道筋を、陽はまっすぐ登った。火を少し持ち上げたとき、その口の脇の暗がりで、何かが光った。


二つ、並んでいた。陽の手の火を映して、低い位置に、動かずに光っていた。


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