お久しぶりです
目を開けると白かった。まぶしさに一度つぶり、開け直しても白いままで、そのあいだに陽は自分が座っていることに気づいた。背を丸めて両手を膝に置いた、読み込みの長いゲームで画面が明けるのを待っているときの格好だった。
「お久しぶりです」
前のほうから声がして、顔を上げると若い女がひとり立っていた。淡い色の、上から下まで一続きの服を着ていて、飾りは何もつけていない。こちらを見て返事を待っている顔だった。最初の一言で場が決まる、ということを陽は身体で覚えていて、覚えている身体のほうが先に動いた。
「あ、どうもどうも、ご無沙汰してます」腰を浮かせかけ、座ったままのほうが相手は話しやすいと見てやめて、そのぶん笑った。「すいません、寝起きで。顔とお名前がまだつながってなくて、失礼ですけど、前にどちらで」
声が思っていたより上から出た。喉の奥で鳴るはずの低いところが無く、四十四年つきあってきた声よりずいぶん軽い。陽は咳払いを一つ挟んで、細いままの声で最後まで言い切った。久しぶり、というのはこの人の挨拶なのだろうと陽は受け取っていた。話しかければ誰にでも同じ一言を返す村人なら、ゲームの中にいくらでもいた。
「よく眠れましたか、勇者クサカベイ」
聞き慣れない音だった。途中で舌がつまずき、最後が長く伸びる。自分に向けられた呼び名らしいと分かるまでに少しかかり、分かったときには口のほうが先に拾っていた。
「クサカベイ。勇者の。……俺が?」
「はい」
「なるほど」陽は深く頷き、頷きながら、昔遊んだゲームにこういう語尾の伸びる勇者がいたのを思い出していた。「なるほど、勇者。いい響きですね、強そうで。それで、ちょっと確認させてもらっていいですか。いまどういう状況で、俺は何をすればいいのか。そこだけ押さえておけば、あとは合わせますんで」
女はすぐには答えなかった。陽は口を閉じて待った。相手に喋らせたいときはこちらが先に黙る。そうやって二十年、いくつもの会議を回してきたのに、一秒待ち、二秒待ち、三秒目に入る前に「あ、いや、急がないんで」と言っていたのは陽のほうだった。
「まず、立てますか」
陽は膝に手をついた。左の膝をかばって体重を右へ逃がし、息を止めて痛みを待ったが、痛みは来ないまま身体がまっすぐ伸びきってしまい、止めた息のやり場に困っているうちに、足の裏の硬さと、女の目がほとんど自分と同じ高さにあることが一緒に分かった。屈伸しかけて、人前でやることではないと思い直し、両手を擦り合わせてごまかす。その手の甲に寄る皺が知っている形と違っていて、陽はすぐに目を上げた。
「立ちました。次は」
「あなたは一度、亡くなりました」女は、それを悪い知らせの声では言わなかった。「そのあとで、ここで目を覚まされたんです。いまのあなたの身体で」
陽は笑った。「亡くなった。俺が。……うわ、お約束のやつだ」
「お約束」
「いや、こっちの話です。そういう話の始まり方があって」どういう始まり方かまで言いかけて、陽はそこでやめた。「……冗談です。はい」陽は指を一本立てた。「いったん整理させてください。俺は一回死んだ。で、ここで起きた。体はこれ。合ってます?」
「合っています」
「了解です。じゃあ、あれですね。生まれ変わり。転生ってやつ。違う世界の」
「呑み込みが早いですね」
「よく言われます。早いだけで、合ってるかは別なんですけど」
女が笑ったので、陽は少し肩の力を抜き、抜いたことに気づかないまま次の手に移った。「すいません、順番が逆になっちゃって。お名前、伺ってもいいですか。ずっと『あの』って呼ぶのも失礼なんで」
「アカリ、と呼んでください」
「アカリさん。アカリさん。ちなみにアカリさんから見て、どうです、俺。勇者っぽさで言ったら、何点くらい」
「点は付けられません。それより、あなたのお話を聞かせてください」
逆に振られて、陽の口は一瞬行き先を失った。
「俺の話ですか。いやいや、四十四のおっさんの話なんか、十秒で終わりますよ。面白いとこ一個も無いんで」
「聞きたいです」
女はそう言って、待った。自分の話をさせようとしてくる相手は、たいていこちらの自虐一つで満足して、自分の話に戻っていく。戻っていかない相手に何を出せばいいのかを、陽は知らなかった。
「じゃあ、それはまた今度、ゆっくり。先に実務的なところから」陽の中で、彼女はもう女神ということになっていた。女神相手に実務も何もないと思いながら、口は勝手に続けた。「向こうって、言葉はどうなってます? 着いた瞬間に道も聞けないと、勇者として格好つかないじゃないですか」
「この世界の言葉は、わたしがお手伝いします」
「助かります。言葉の魔法ってやつですね。いや、アカリさん、説明うまいですね。要点だけで、無駄がない」
「ありがとうございます。あなたも、聞くのがお上手です」
褒め返されて、陽は首の後ろを掻いた。褒めるのはいつもこちらの仕事で、返ってくることはあまりない。掻いていた右手がいつのまにか左手のほうへ下りていて、人差し指の爪が、親指の爪の際をしきりに引っかいていた。
「で、あらためて。アカリさん的には、俺に何をしてほしいです? たとえばラスボス的な悪いやつを倒すとか、困ってる人を助けるとか、あとは、そうだな、とりあえず世界を見て回るとか。選んでもらえたら、そっちに合わせるんで」
「何をしてほしいか、ではなくて、何ができるかでしたら、お伝えできます」
質問を答えられる形に直して返された。会議にたまにいる、いちばん手強い種類の相手だと陽は思い、思ったぶんだけ笑顔を足した。
「じゃあ、それで。見せてもらえます?」
「読み上げます」
「あ、読み上げ形式なんだ。目の前にステータス画面みたいなのがぱっと出るのかと思ってました」
女神はそれには何も足さずに、一つずつ区切って言った。「原初権限」
「げんしょ、けんげん」
「傷を塞ぐこと。毒を分解すること。草木を伸ばすこと。魔物を、一瞬惑わせること」
陽は指を折っていき、四本目の小指を折ったところで「魔物、いるんですね」と言った。女神は頷いただけで、それ以上を足さなかった。
「ちなみに、どのくらいの範囲まで効くんです? 草木とか、山ひとつ分とか」
「近いものほど、よく届きます」
「近いほど。了解です」陽は左の手のひらに右の人差し指で書き留める仕草をして、書く先も無いことに気づき、指の先で手のひらを二度叩いてごまかした。
「それから、祝福を授けること」
「祝福」
「本来は神官が行うことを、あなたは手で触れて行えます」
「神官さんがいて、その人たちの仕事を、俺が。……それ、揉めません? ギルドとかあったら」
「そのときに、お話しします」
そのときがいつなのかを聞こうとして、陽は五本目まで折った指を見下ろした。いちばん気になるのは一本目だった。
「傷を塞ぐって、試せます? 試したいです、いま」
「どうぞ」
「何に。ここ、何も無いですよね」
女神の目が、陽の手元へ落ちた。「ご自分の手に」
「いや、傷とか無いですって、ほら」両手を広げて見せると、左の親指の爪の際の皮が細く剥けていて、その根元に赤い玉が一つふくらんでいた。いつ剥いたのかは覚えていない。陽は額に手をやった。近くの物を見るときに眼鏡を下ろす手つきで、指は額の上で何もつかまなかったが、目はささくれの一本一本まで、ちゃんと拾っていた。
「……ありました。じゃあ、これで。どうやるんです」
「短くていいんです。そうなってほしいことを、言ってください」
「よし。じゃあ、いきます。こういうのは宣言したほうがいいですよね、盛り上がるし。三、二」
陽は親指を顔の前に立て、赤い玉を見ていた。数えるのをどこかで忘れていた。
「塞がれ」
口から出た声は小さくて、ふざけた調子がどこにも付いていなかった。
熱かった。
親指の、剥けたところだけが湯に浸けたように熱を持ち、赤い玉が平たくなって、剥けた縁どうしが寄っていき、閉じた。
陽は、息を止めていた。
止めていたことに、閉じてから気づいた。親指を立てた手は顔の前から動かず、目は、いま縁が寄っていった一点から離れなかった。さっきまで赤い玉があったところに、何も無い。熱だけが、まだそこにある。言ったのは自分だった。あの小さい声が、この指に届いた。そこまで分かったところで、ようやく胸が動いた。
吐いた息と一緒に「……うわ」が出て、その先は止まらなかった。「うわ、うわ、今の。見ました? 見ましたよね、アカリさん。え、俺? 俺がやった? すごくない? いやすごいでしょ、これ、ねえ。あと今すごい熱かったんですけど、あれ普通ですか。火傷とかじゃなくて」
「治っているしるしです」女神はそう答えてから言った。「お見事です、勇者クサカベイ」
「しるし。熱いのが」陽は閉じた親指を頬に当ててみた。まだ少し温かかった。「治るときは熱いんだ。分かりやすくていいな、それ」
指に残っていた血を腿にこすりつけると、その感触が一瞬、厚手の手袋を一枚はさんだように遠かった。二度目にこすったときには腿の感じがもう指に戻っていて、陽はそれを疲れとも思わず、閉じた親指をもう一度目の前にかざした。
「もう一回やっていいです?」
「傷が、もうありませんね」
「作ればいいんですよ。ほら、ここの皮、まだ剥けそう」右の人差し指の爪が、また親指の際に掛かった。
「やめてください」女神の声が、そこで初めて少し急いだ。「痛いでしょう」
「痛くないですよ、こんなの。……いや、やめます。やめました」陽は爪を離し、両手を背中へ回した。怒られた子どもの格好だと自分でも思ってそう言うと、女神はほっとしたように笑い、陽も笑ったまま顔を上げた。
女神の肩の向こうには、遠くまで何も無かった。その白の奥、目の端のほうで、壁と壁が合わさる線を見た。
「勇者クサカベイ」呼ばれて、陽は目を女神に戻した。「そろそろ、地上へ降りましょう」
「え、もう? 俺まだ、何をすればいいか聞いてないんですけど。倒すのか守るのか、せめてどっちかだけでも」
「降りてから、一緒に考えましょう」女神は言った。「大丈夫です。あなたなら、できます」
「それ、いちばん信用しちゃいけない言葉ですよ。言う側が何も決めてないときのやつ」
言ってから陽は自分で笑い、女神も笑った。何がおかしいのかは分かっていない顔だったが、分かっていない人が一緒に笑ってくれるのは嫌ではなかった。親指の腹を人差し指でなぞると、閉じたところの温かさはもう引いていた。
「目を閉じてください」
陽は閉じかけた瞼を半分のところで止めた。白が細くなり、その細い白の中に女神が立っていた。
「閉じたら、アカリさん、いますよね。向こうでも」
「います」
「ならいいです。いや、よくないけど。いいです」
陽は目を閉じた。瞼の裏にさっきまでの白がまだ残っていて、最初に目を開けたときと同じ色をしていた。それを見ているうちに、最初に聞いた言葉が喉のところまで上がってきた。
「そういや、お久しぶりって——」




