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名無しと勇者 〜転生先で「勇者」と呼ばれた俺と、「名無し」と呼ばれる少女〜  作者: 猫間じん


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35/36

痕

夜明け前に、陽は目を開けた。


眠っていたのかどうか、よく分からなかった。火はほとんど落ちていて、熾の赤が灰の下に二つ三つ残っているだけだった。木の根もとでは、ツグミが袋に頭を載せて、膝を少し曲げて眠っている。塀の上の灯りは、もう半分ほど消えていた。門の上の一つは、まだ点いている。


陽は膝を抱え直した。昨日のことが、頭の中で順番を変えながら何度も戻ってきていた。紺の上衣。遅い、って。門の外に出たことない。口を開いて、閉じた自分。サヨの数える声も、まだ耳のどこかに残っていた。一つ、二つ、三つ。指が荷を叩くたびに縄が鳴って、六つで止まって、止まったまま指が動かなかった。あれは何だったんだろう、と陽は思う。数が合ったのに、なぜ指を下ろさなかったのか。考えているうちに、右手の指が、いつものように左の膝の皿の下へ行った。


考えごとをすると、そこをなぞる癖があった。膝の皿のすぐ下に、細い、少し盛り上がった白い線がある。十の夏、坂道で自転車ごと転んで、砂利で裂いた傷の痕だ。指の腹でその盛り上がりを端から端までなぞると、なんとなく考えがまとまる気がした。


指が、何にも引っかからなかった。


陽は指を止めて、もう一度、膝の皿の下を横になぞった。皮膚はなめらかで、どこにも段が無い。暗くて目では見えなかったが、指は四十何年ぶんの癖で、線のあるはずの場所をちゃんと知っていた。そこに、線が無かった。


「……ああ」


陽は小さく声を出して、それから、少しだけ笑った。若返ったんだから、そりゃそうか。


十の夏より前の膝なのかもしれないし、そもそも転ばなかった膝なのかもしれない。どちらにしても、十八かそこらの体に、四十四の古傷がついているほうがおかしい。陽は膝から手を離して、その手を見た。見ても暗くて何も分からなかったので、膝の上に戻した。指はまたすぐに、線の無いところをなぞりはじめていた。


空の端が、少しずつ白くなってきた。塀の上の灯りが一つ、また一つと消えていく。川のほうで鳥が一羽、短く鳴いて、それに応えるように別の鳥が鳴いた。ツグミが寝返りを打ち、袋の紐の輪が袋に当たって小さく鳴った。陽は膝をなぞる指を止めずに、その音を聞いていた。


---


朝になって、ツグミは火の跡に土をかけた。


かけ終えると、陽のほうを向いた。いつもなら、そのまま袋を木の根に寄せて門のほうへ歩きだす。今朝は立ったまま、腕を上げた。


まだ日の出ていない東の空を指し、その指を、頭の上を越えてゆっくり反対側の空まで動かした。弧を一つ描くように。それから、もう一度東の空を指した。


「ケト」


初めて聞く音だった。セムやウルと同じように、ほかの何にも似ていない、ぽつんとした音だった。陽が首を傾げると、ツグミは同じ弧をもう一度描いて、東の空で指を止め、それから、塀とは反対へ延びる道の先を指した。


「ケト。トヌ」


トヌは知っている。あっちか、行くか。陽は弧を描いた指の跡を、頭の上の空に目で追った。日が出て、沈んで、また出る。


「……明日? 明日、行くってこと?」


陽は自分でも同じ弧を描いて、東の空を指し、道の先を指した。


「ケト、トヌ」


ツグミは頷いた。それで済んだという顔で、袋を木の根に寄せ、紐に結んだ葉の包みの結び目を指で一度締め直した。


明日、と陽は思った。セム、と言われたのは何日前だったか。まだ、が、明日になった。決めたのはツグミで、陽は訊いただけだった。


「了解。明日ね」


門の十歩手前で、ツグミはいつものように止まった。陽が石を指して手のひらを下げると、同じ仕草が返ってきた。ツグミは川のほうへ下りていき、陽は門をくぐった。


---


担ぎの家の土間で、サヨは荷を数えていた。


数える声はいつもの速さに戻っていて、一度で数が合う。髪は、いつものように後ろで一つにきつく縛り直してあった。陽が背負い板を下ろすと、サヨは札を弾いて「坂の上が二つ、水路が一つ」と言い、もう荷を載せていた。昨日の夕方のことは、何も言わなかった。陽も何も言わなかった。


昼まで、陽は坂と水路を往復した。水路沿いの女たちは今日も縁にしゃがんで布を洗っていて、陽が通ると、一人が顔を上げずに顎で道を示した。もう示されなくても分かる道だったが、陽は頭を下げて通った。担ぎの家に戻るたびに、裏の台には括り直された荷がいつもの数だけ並んでいる。ノキは塀の下にしゃがんで、手を止めずに縄を括っていた。昨日、同じ縄を何度も締め直していた手が、今日は一度で結び目を作って、次の荷へ移っていく。


昼に、サヨが干した肉を一切れずつ配った。黒っぽく、板のように硬い。陽は裏口の敷居に腰を下ろして、それを奥歯で噛んだ。何度も噛んで、ようやく繊維がほどけて、塩の味が出てくる。飲みこんだあと、舌が勝手に奥歯のほうへ行った。


噛んだあとは、いつもそうする。左の下の、奥から二番目。舌の先でそこを探ると、角の一つが小さく平らになっていて、その平らなところを舌でなでると落ち着く。四年、そうしてきた。


舌が、平らな面を見つけられなかった。


陽は口を閉じたまま、もう一度舌をそこへやった。左の下の、奥から二番目。平らなところがあるはずの場所に、丸い角が立っていた。舌の先で押すと、角はちゃんと角の形をしていて、すべすべしている。形は、入れた日の被せ物の形そのままなのに、歯と歯ぐきのあいだの継ぎ目の、舌に引っかかるあの小さな段差が無い。継ぎ目の無い、一本の自分の歯になっていた。


舌が角をなぞり、また平らな面を探して、見つけられずに、また角をなぞった。


入れた日のことが、そこで戻ってきた。椅子を起こされて、噛んでみてください、と言われて噛んだら、その角だけがかちりと当たった。歯医者は、ああ、ここですね、と言って、その場で削った。細い音がして、削ったあと、もう一度噛むと、もう当たらなかった。


それから、舌はその平らなところを触るようになった。


陽は干し肉の残りを手に持ったまま、舌を角に当てていた。笑う気にはならなかった。削ったはずだ、と陽は思った。あの日、あの椅子の上で、たしかに削った。削ったんだから、ここは平らなはずで、四年間、舌はその平らなところしか知らなかった。


「……削ったろ、ここ」


口の中で、そう言いかけたときだった。


「旅の人。坂の上の、残り」


サヨの声だった。陽は返事をして立ち上がり、干し肉を口に押しこんで、土間へ戻った。背負い板を担いで坂を上りはじめるころには、舌は荷の重さに気を取られて、角のことを忘れていた。


坂の上で荷を置いて振り返ると、塀の内側の屋根が下のほうに重なって見えた。門の上の灯りは、昼なので点いていない。塀の向こうには川が光っていて、その手前の岸のどこかに、たぶんツグミがいる。明日、と陽は思った。明日はもう、あの門をくぐらない。そう思っても、まだあまり実感は無かった。荷が一つ減って軽くなった背負い板を担ぎ直して、陽は坂を下りた。


---


夕方、最後の荷を置いて戻ってくると、陽は土間で背負い板を下ろした。


言うなら今だった。陽はしばらく、背負い板の縄を指でいじっていた。六日、この土間で荷を受け取って、坂を上って、下りてきた。言い出し方が、いくつも頭に浮かんでは消えた。結局、いちばん短いのにした。


「あの、サヨさん」


サヨは前掛けに線を引きながら顔を上げた。


「明日、発ちます。連れが、明日行くって言うんで」


サヨの手が、一瞬だけ止まった。線の続きを引いてから、サヨは前掛けの袋に手を入れた。


「そう。明日ね」


銭を出して、陽の手のひらに置いた。四枚。それから、袋の中をもう一度探って、もう二枚置いた。


「多いですよ」


「多くないよ。五日分の、端数」


サヨはそれだけ言って、袋の口を締めた。陽は銭を握ったまま、裏口のほうを見た。


塀の下で、ノキの手が止まっていた。縄を括りかけたまま、指が縄の上で動かなくなっていた。顔はこちらを向いていない。手だけが止まっていて、しばらくしてから、また縄を引きはじめた。


「食っていきな」


サヨがそう言ったときにはもう、上がり口の脇に椀が一つ置いてあった。湯気が上がっている。豆と、刻んだ青い葉の入った粥だった。


陽は上がり口に腰を下ろして、それを食べた。母親が奥から出てきて、陽の向かいに座り、札を揃えはじめた。サヨは土間で荷の縄を締め直している。誰も喋らなかった。陽は粥を食べ終えて、椀を置いた。


舌が、また角へ行った。


左の下の、奥から二番目。丸い角が、昼と同じように、そこに立っている。舌がなぞる。平らな面を探して、無くて、角に戻る。


削ったあとで、歯医者が何か言ったのを、陽は思い出した。手袋を外しながら、画面のほうを見ていた。


「削ったところは、写し直さなくていいでしょう。データは最初のまま取っておきます」


それだけだった。陽はそれを聞いて、はい、と言って、それきり歯医者には行かなかった。


陽は空になった椀を見ていた。土間の隅で、竈の火が小さく鳴った。サヨが縄を締める音と、母親が札を揃える音が、交互に聞こえていた。陽はその火を見て、舌を角から離した。


「ごちそうさまでした」


母親が札から顔を上げて、頷いた。


---


戸口を出ると、表通りはもう暗くなりかけていた。夕餉の煙が低く流れていて、どこかの家で戸を閉める音がした。門まで十歩。明日の朝は、もうこの十歩を歩かない。陽が近づくと、扉が内側から動いて、人ひとりが通れる幅で止まった。


扉の手前で、陽は振り返った。


担ぎの家の横の、裏へ抜ける路地の角に、ノキが立っていた。表通りに出る、ほんの手前だった。手には何も持っていない。目は陽の背中の向こうの、開いた扉の隙間に向いていた。


ノキはそこから動かなかった。表通りへは一歩も出ず、角の影の中に立ったまま、門を見ていた。


陽が扉の隙間に足を入れたときも、ノキはまだそこにいた。陽は扉の隙間を通った。外の石のそばに、ツグミの姿が見えた。


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