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名無しと勇者 〜転生先で「勇者」と呼ばれた俺と、「名無し」と呼ばれる少女〜  作者: 猫間じん


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34/36

遅い

昼を過ぎると、サヨはいつもの前掛けに戻っていた。


紺の上衣は脱いで、朝までの茶色い上着に着替えている。帯も解いてあった。撫でつけた髪だけが、そのまま小さくまとまっていて、額の広さが朝と同じに目立った。サヨは土間の荷の山の前にしゃがみ、札を弾いて、行き先を読み上げはじめた。


「坂の上が二つ。井戸の向かいが一つ。……いや、二つ」


弾いた札を、もう一度弾く。読み上げた数を、指で前掛けに書き、書いたそばから線を一本消した。いつもなら、陽が背負い板を下ろすより先に次の荷が載っている。今日は、陽が板を下ろして待っているあいだに、サヨは同じ札を三度弾いた。


「坂の上が二つ。井戸の向かいが二つ。旅の人、坂のは重いよ」


「はい」


陽は坂を上った。荷はたしかに重く、背負い板の縄が肩に食いこむ。坂の上の年寄りの家では、年寄りが戸口の縁台に座っていて、陽の顔を見ると、何も言わずに荷の置き場所を顎で示した。陽はそのとおりに置いて頭を下げ、坂を下りかけたところで、後ろから声を掛けられた。


「サヨは、戻ったかい」


「あ、はい。昼過ぎに」


年寄りは、そうかい、と言って、縁台の上で膝を撫でた。それ以上は何も訊かなかったし、陽も何も足さなかった。坂を下りながら、陽は、朝の二人の服のことを考えた。弔いか、縁談か。どちらにしても、戻ってきたサヨの顔は、朝と違っていた。


戻ると、裏の通り口の脇の台に、括り直された荷が二つ置いてあった。朝は無かったものだ。陽が裏を覗くと、ノキは塀の下にしゃがんで、荷の縄を締めていた。締め終えると、結び目を指でほどき、もう一度締め直す。ほどいて、また締める。陽が次の荷を取りに土間へ戻るまで、同じ荷の前から動かなかった。


二度目は井戸の向かいで、戸口には昨日の男の子が出てきて、陽の背負い板を見上げている。陽が手を振ると、男の子は今日は引っこまずに、小さく手を振り返した。荷を受け取った若い女は、今日は「サヨは?」とは訊かなかった。


午後は、それが続いた。サヨが数え、数え直し、陽が担いで戻り、ノキが同じ縄を締め直す。母親は上がり口に座って、札を揃えている。朝の読み上げはもうサヨに戻っていて、母親の手には、昼に括った札の束が、紐に括られたまま載っていた。


---


日が傾いて、最後の荷を置いて戻ってくると、土間にサヨの姿は無かった。


裏から、数を数える声がする。陽が裏口から覗くと、サヨは裏庭の、通り口の脇の台の前に立って、台に積まれた荷を指で差しながら数えていた。


「……四つ、五つ、六つ」


指が止まった。サヨは首を傾げ、また一つ目から数えはじめた。


「一つ、二つ、三つ、四つ、五つ」


五つで止まった。台の上の荷は、陽の目にも六つあった。サヨはもう一度、一つ目に指を戻した。棚卸しで数が合わないときの、あの感じだ、と陽は思った。何度数えても一つだけ足りなくて、数えるたびに自分の指のほうが信用できなくなっていく。


塀の下では、ノキがしゃがんだまま縄を持っている。締めてもいないし、ほどいてもいない。縄の端を握ったまま、サヨの背中のほうへ顔を半分だけ向けていた。


「……どうしたんですか」


陽が言うと、サヨの指が止まった。サヨは荷を見たまま、少しのあいだ黙っていた。


「遅い、って」


「遅い?」


陽は、朝の二人を思い出した。改まった服で、神殿のほうへ。昼までに戻る、と言って、昼過ぎに戻ってきた。受付か何かに間に合わなかったのだろうか。役所の窓口は五時で閉まる。


「あ、時間に間に合わなかったんですか。じゃあ、また行けば」


サヨは答えなかった。


台の上の荷に、指を戻した。


「一つ」


声がさっきより大きかった。


「二つ。三つ。四つ」


指が一つずつ荷を叩き、そのたびに、荷の縄がわずかに鳴った。


「五つ。六つ」


六つで止まった。合った。サヨはそれでも指を下ろさず、六つ目の荷の上に置いたまま、しばらく動かなかった。陽は、数が合ったのならよかった、と思った。何か言おうとして、サヨの肩がいつもより高いところにあるのに気づき、言わずに待った。


「……時のうちに受けなかった者に、女神の手を貸してはならない」


サヨは荷を見たまま言った。読み上げの声とは違う、平たい声だった。


「そう言われた。大神官さまに」


陽はその言葉を、頭の中でもう一度、区切りながら並べ直した。時のうちに、受けなかった者に、女神の手を、貸してはならない。どこかに書いてあることを、そのまま読み上げたような言い方だった。


「遅い、って。それだけ。あとは、何を言っても、同じことしか言わなかった」


サヨは指を荷から下ろし、その手を前掛けで拭いた。拭いてから、塀の下のほうへ目をやった。


「あの子、門の外に出たことないんだよ。生まれてから、一度も」


陽は塀の下を見た。ノキは縄の端を握ったまま、今度は手元に目を落としていた。


門の外に、出たことがない。


門は、近づけば開く。陽が初めてこの街に来た日、誰も押さないのに内側へ動いて、人ひとり通れる幅で止まった。女神の手が届くようになります、と、ずっと前にアカリは言った。それと、街の門が開きます。受けた人は、と陽は訊いたのだ。受けたら、どうなるのかと。


初めてこの家の裏を覗いた日のことを、陽は思い出した。塀を背にしゃがんで縄を括っていた男の顔は、日に焼けていなかった。表で荷を担ぐ者の顔ではない、と陽はあのとき思ったのだ。思っただけで、それ以上は考えなかった。


通り口の手前で、荷を抱えて立ち止まっていた背中を、陽は思い出した。表の戸口の、その先の門を見ていた目も。三つ数えるくらいのあいだ立っていて、それから荷を台に置き、塀の下へ戻っていく。朝、裏の路地の、表から遠いほうの端を歩いていった背中も。


受けていない。だから、開かない。


母親と娘の二人だよ、と隣の女は言った。瓜を置いていったあの女は、それから裏へ回って、塀の下の男の手に、瓜を一つ置いた。


「弟、なんですか」


口に出してから、陽は、訊かなくてもよかったことを訊いたと思った。サヨは頷きもせず、首も振らなかった。


「……分かってたよ」


サヨは台の上の荷を見ていた。


「分かってて、連れてったんだ」


陽は口を開いた。


言えることが一つあった。ずっと前から、陽の手の中にあった。穴の底で、布のすぐ上まで伸ばして、引いた手だ。祝福を授けることができます、とアカリは言った。手を触れて、授けます。神殿の外でも。


陽の口は開いたまま、何の音も出さなかった。


サヨは陽を見ていない。ノキも見ていない。陽は塀の下の男に、自分の手のことを話したことがないし、何かを頼まれたこともない。塀の外の火のそばで、言い終える前に首を振られたときの、宙に残った自分の指を、陽は覚えていた。


陽は口を閉じた。閉じた口の中に、言わなかった言葉の形だけが残っていて、陽はそれを飲みこむように、喉の奥で一度息を止めた。


サヨは台の上の荷を一つ取り、肩に担ぐと、陽の横を通って土間へ入っていった。通るときに、陽のほうは見なかった。裏庭には陽とノキだけが残った。日の落ちかけた塀の影が、裏庭の半分を覆っていて、ノキのしゃがんでいるところは、もうその影の中にあった。ノキは陽のほうを見なかった。見ないまま、縄の端を指に一度巻きつけて、ほどいた。塀の下で、縄を締める音がした。一度締めて、ほどいて、また締める音だった。陽はしばらく敷居の上に立っていて、それから土間のほうへ戻った。


---


表の戸口へ回ると、上がり口の母親が陽を一度だけ見て、また札に目を戻した。サヨは戸口の柱の脇に立っていた。


「今日の分」


サヨは銭を四枚、陽の手のひらに一枚ずつ置いた。置く手は速かった。いつもの速さだった。


「明日も、朝から」


「……はい」


陽は銭を腰の紐に通し、戸口を出た。表通りは夕餉の煙で薄く霞んでいて、門まではほんの十歩ほどだった。陽が近づくと、門の扉が内側から動いた。重たい音を立てて、人ひとりが通れる幅まで開いて、止まる。石の台の門衛は、陽を見て、何も言わなかった。


扉の手前で、陽は一度だけ振り返った。担ぎの家の戸口はもう半分まで閉めてあって、その脇の、裏へ抜ける細い通り口は、夕方の影で奥まで見えなかった。十歩ほどの距離だった。朝、陽が歩いてくるのと同じ十歩で、夕方、陽が出ていくのと同じ十歩だった。


陽は扉の隙間を通った。通りながら、扉の縁の、鉄の帯の鋲を一つ、目で数えた。数えてから、何のために数えたのか分からなくなって、やめた。


石のそばに、ツグミがいた。


陽が石を指して手のひらを下げると、ツグミも同じ仕草を返した。夕、ここ。ツグミはそれから塀の外の木のほうへ歩きだし、陽はその少し後ろを歩いた。


火はもう熾してあった。ツグミが枝を一本足し、火が少し高くなる。陽は火の向こうに腰を下ろして、膝を抱えた。


今日のことを、話そうと思った。


サヨの紺の服のことや、神殿のほうへ行ったこと、遅い、ということ、それから、塀の下の男が門の外に一度も出たことがないこと。どの身振りから始めればいいのか。手のひらを見せて、門を指して。陽は膝の上で、手のひらを上に向けかけた。それは、この火の前で一度やった身振りだった。


陽は手のひらを、膝の上に伏せた。


ツグミは火を見ていた。陽の手が上を向きかけて戻ったのを、見ていたのかいないのか、陽には分からない。ツグミは枝で熾を一度崩し、崩したところに、袋から出した根を二本埋めた。


「それ、焼くやつ? あの、芋っぽいやつだ」


陽は言った。ツグミは灰を寄せていて、顔を上げない。


「好きなんだよな、あれ。皮のとこが、ちょっと焦げてるのがいい」


返事は無かった。ツグミは焼けた一本を灰から掘り出し、皮を剥いて半分に割ると、片方を陽のほうへ差し出した。陽は受け取った。熱く、中はほくほくとしていて、少し甘い。


「うまい。やっぱ芋だよ、これ。……芋じゃないのか」


ツグミは自分の半分を齧っていた。陽はもう一口齧って、塀のほうへ顎を向けた。


「あ、点いた。きょうは、門の上のが先だ」


言いながら、陽は門のほうを見ていた。塀の上に灯りが一つずつ点いていき、その下で、門の扉はもう閉じている。あの扉は、陽が近づけば開く。サヨが近づいても、荷を持ってくる男が近づいても開く。


ツグミは自分の分を食べ終えると、皮を火に放り、袋を木の根に寄せて横になった。陽は膝を抱えたまま、塀の上の灯りを数えた。門の上にも一つあった。


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