裏の道
五日目の朝も、ツグミは門の十歩手前で止まった。陽が石を指して手のひらを下げると、同じ仕草が返ってきて、ツグミは川のほうへ下りていった。石の台の門衛は、槍を膝に寝かせたまま、それをいつもの朝の景色のように見送っている。
担ぎの家の戸口をくぐると、土間の荷はまだ少なかった。代わりに、土間の奥の上がり口に、サヨが立っていた。
いつもの前掛けをしていない。紺の上衣に、同じ色の帯を胸の下できっちり締めていて、裾には折り目がまっすぐ通っている。髪も、いつもの後ろで一つにきつく縛った形ではなく、水で撫でつけて小さくまとめてあった。額の広さが、そのぶん目立った。
「おはようございます。……あれ、今日、何かあるんですか」
「今日は表を頼む」サヨは上がり口から土間へ下りて、陽の前に立った。「昼までに戻る。荷はおっかさんが札を読むから、言われたとおりに回して」
「はい。どこか行くんですか」
「神殿のほう」
サヨはそれだけ言って、土間の隅の瓶から柄杓で水を一口飲み、柄杓を戻した。戻す手が、瓶の縁に一度当たって、小さな音がした。
「本人が行くって言うから」
本人、と陽は思った。誰の本人なのかを訊こうとしたときには、サヨはもう裏口のほうへ歩いていて、陽は開きかけた口を閉じた。
裏口の外には、ノキが立っている。
ノキも、いつもの袖をまくった茶色の上着ではなかった。洗って日に干したらしい生成りの上衣を着ていて、袖は手首まで下ろしてある。短い髪は濡れて、櫛の目が残っていた。手には何も持っていない。塀の下の、括りかけの荷の縄も、今朝は手つかずのまま地面に伸びている。
サヨがノキの横に並び、一度だけノキの上衣の襟を指で直した。ノキはされるままに顎を上げて、襟が直ると、顎を戻した。二人は何も言わずに、裏庭の、塀とは反対側の戸から出ていった。
陽は表の戸口へ回った。裏の戸から出た路地は、担ぎの家の横を回って、表通りのすぐ手前まで来てから、神殿のあるほうへ折れている。戸口の柱の陰から、二人の背中が見えた。サヨが半歩前を歩き、ノキがその後ろを歩いている。表通りまでは、ほんの十歩ほどしかない。ノキは表通りのほうを一度も見ずに、路地の、表から遠いほうの端を歩いていった。
路地の角で、隣の女が軒下の籠から顔を上げ、豆を剥く手を止めて、二人が角を曲がるまで見ていた。
陽は柱に手を掛けたまま、しばらく二人が消えた角を見ていた。紺の上衣と帯と撫でつけた髪、洗った上衣と濡れた髪、それに、神殿のほう。
弔いかな、と陽は思った。改まった服で神殿へ行くなら、まず思いつくのはそれだった。けれど、サヨの顔は泣いた後の顔ではなかったし、ノキは手ぶらだった。花も供え物も持っていない。
じゃあ、縁談か。
縁談なら、サヨの服の念の入れ方には説明がつく。ただ、縁談に雇いの手伝いを連れていく理由が分からない。付き添いか、荷物持ちか。荷物持ちなら何か持っているはずで、ノキの手は空だった。
陽はそこで考えるのをやめた。どちらにしても、日雇いの担ぎが首を突っこむ話でもないだろう。コンビニのバイトだって、店長の家の法事の段取りまでは訊かない。訊いたら、たぶん気まずくなるのはバイトのほうだ。
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「そっちは、代官所の裏」
土間の奥の上がり口に、母親が座っていた。昨日の夕方に戸口で見た、背の低い、肩の丸い女だった。前掛けの上に荷の札を並べ、指で刻み目を一つずつ弾いては、行き先を読み上げていく。読み上げる声は、サヨより低く、サヨより遅い。
「次は井戸の向かい。その次は、北の水路。昨日行ったろう」
「はい、行きました」
母親は陽の返事を聞いているのかいないのか、次の札に指を移した。陽は背負い板に荷を載せ、戸口を出た。
一人で回るのは、思っていたより忙しかった。いつもならサヨが荷の山の前で順番を決め、陽はその順に運べばよかった。今日は、読み上げられた順に背負って出ていくと、戻ってきたときには土間にまた新しい荷が届いていて、それを母親が読み上げる前に、陽が札を覗きこむことになる。坂の上と井戸の向かいの刻み目は、もう見れば分かった。水路沿いは、昨日一度通った道なので、札を見なくても足が勝手に橋のほうへ向いた。代官所の裏へ抜ける路地も、二度目は迷わなかった。
井戸の向かいの家では、戸口に小さな男の子が出てきて、陽の背負い板をじっと見上げた。陽が荷を下ろすと、男の子は荷の縄の結び目を指でつついて、奥へ向かって何か叫んだ。出てきたのは若い女で、荷を受け取ると、陽の顔を見て「サヨは?」と訊いた。今日は用があって出ています、と陽が言うと、女は「ああ」とだけ言って、それ以上は訊かなかった。男の子は、陽が坂を下りはじめても、戸口から背負い板を見送っていた。陽が手を振ると、男の子は慌てたように戸の陰へ引っこんで、そこから目だけを出した。
昼前、三度目に戻ってきたとき、陽は土間の荷を見て、背負い板に自分で積んだ。坂の上、代官所の裏、井戸の向かい。昨日ノキが並べ替えた順の真似だった。水路沿いが無いぶん、簡単だった。上がり口の母親は、陽の積んだ荷を一度見て、何も言わずに札を前掛けの上に戻した。
通り口の脇の台には、今日は何も置かれていなかった。いつもならそこに、括り直された荷が戻るたびに増えている。表に届いた荷の中には、縄が緩んで籠の口の開きかけたものが一つあって、陽はそれを背負う前に括り直そうとした。縄を一度ほどいて、籠の胴に回し、端を引いて結ぶ。草を撚るのとは勝手が違い、結び目は籠の横に妙な形で盛り上がった。陽がそれを背負い板に載せかけると、母親が上がり口から下りてきて、黙って結び目をほどき、縄を籠の底へ一度くぐらせてから、平たく結び直した。結び目は、裏の台にいつも並んでいる荷と同じ形になった。
「……ありがとうございます」
陽が言うと、母親は何も言わずに上がり口へ戻り、また札を指で弾きはじめた。
陽は少しだけ得意になった。四日前は、坂の上と坂の下も区別がつかなかったのだ。レベルが一つ上がった、とまでは言えないにしても、経験値のバーがちょっとだけ伸びた感じはした。
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四度目の荷を背負って戸口を出たところで、声を掛けられた。
「サヨは出たのか」
門衛だった。石の台の上ではなく、戸口の脇の、日の当たらない壁際に立っている。槍は持っていない。いつも膝の上に置いている手を、今は腰の後ろで組んでいて、そうして立っていると、石の台に座っているときより背が高く見えた。
「あ、はい。朝から。昼までには戻るって」
「そうか」門衛は戸口の中を覗いた。「おかみ一人じゃ、荷が回らんだろう」
「俺が回してます」
門衛は陽を見て、背負い板の荷を見て、それから少しだけ口の端を上げた。石の台の上で陽を見るときの顔とは、違う顔だった。
「毎朝、石に手をやってるやつだな」
「あ、見てました? あれ、合図なんです。夕方、ここ、って」
「ふうん」
門衛は、塀の外の木のほうへ一度目をやった。
「夜は、外か」
「はい。木の下で。慣れると悪くないですよ。星とか、めちゃくちゃ見えるし」
「このごろは、夜が冷える」
門衛はそれだけ言って、それ以上は訊かなかった。上がり口の母親のほうへ顎を上げて、「おかみ、腰の具合はどうだ」と言った。母親は札から目を上げずに「変わらないよ」と答えた。門衛は「そうか」ともう一度言い、陽に向かって、坂のほうへ行けと言うように顎を振った。
陽は坂を上りながら、門衛の顔を思い出していた。サヨの名前も、おかみという呼び方も、慣れた口ぶりだった。門のすぐ内側の家なのだから、毎日顔を合わせているのだろう。担ぎの家のことなら、あの門衛はたぶん何でも知っている。
坂の上の荷を置いて振り返ると、門の石の台に、門衛がまた座っているのが小さく見えた。
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二人が戻ってきたのは、昼を少し過ぎたころだった。
陽は土間の隅で、母親が分けてくれた平たいものを齧っていた。母親は上がり口に座ったまま、自分の分には手をつけずに、札を前掛けの上で揃えては崩し、また揃えていた。荷はもう無い。揃えている札は、午前中に回した荷の札だった。
「サヨさん、今日の服、似合ってましたね」
陽が言うと、母親は札を揃える手を止めずに、「そうかい」と言った。
「帯も、新品みたいでしたし」
「年に何度も締めないからね」
母親はそれだけ言って、揃えた札を紐で括った。括り終えても、その束を膝の上から下ろさなかった。陽は平たいものの残りを口に入れ、それ以上は言わなかった。裏庭のほうで戸の開く音がして、陽が裏口から覗くと、ノキが先に入ってきたところだった。
ノキは裏庭を横切り、まっすぐ塀の下へ行った。朝のまま地面に伸びていた縄を拾い、括りかけの荷の前にしゃがんで、縄の端を指に掛けた。洗った上衣の袖を、肘までまくった。それから、括りはじめた。陽のほうは見なかった。
サヨは、裏の戸を閉めたところで立ち止まっていた。
戸に背を預けて、帯の結び目に片手を当てている。撫でつけた髪は朝のままで、紺の上衣の裾の折り目も崩れていない。顔だけが、朝と違っていた。唇を内側へ巻きこむように閉じていて、目はノキの背中に向いたまま、動かなかった。
陽は平たいものを持ったまま、裏口の敷居の上で止まっていた。朝に見たときより、サヨの肩が少し前へ出ているように見えた。何か言おうとして、何を言えばいいのか分からなかった。
サヨが陽に気づいた。唇がほどけて、いつもの荷の読み上げのときの口の形に戻った。
「……荷、回った?」
「あ、はい。全部。今ので最後です」
「そう」
サヨは戸から背を離して、帯に当てていた手を下ろした。それから土間へ上がっていき、上がり口の母親の横を通るとき、母親の肩に一度だけ手を置いた。母親は札から目を上げずに、その手の上に自分の手を重ねて、すぐに離した。
裏庭では、ノキが縄を引く音が、いつもの間隔で続いていた。




