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名無しと勇者 〜転生先で「勇者」と呼ばれた俺と、「名無し」と呼ばれる少女〜  作者: 猫間じん


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お一人

朝、ツグミは火の跡に土をかけ終えると、袋を木の根に寄せたまま、先に塀のほうへ歩きだした。陽は腰の紐の石と銭を確かめてから、その背中を追った。朝の草はまだ露を持っていて、塀の影になった道の端では、踏むたびに脛が冷たく濡れた。昨夜、骨を並べた火の縁は、土の下に埋まっている。ツグミの足取りはいつもと変わらず、陽が追いついても振り返らなかったが、陽が横に並ぶと、そのまま並んで歩いた。


塀の外の道には、もう人が出ていた。薪を背負った女が二人、門のほうへ向かっていて、そのずっと後ろから、荷車を引く男が一人、轍の深いところを避けながら上ってくる。門の上の灯りは消えていて、石の台の門衛はまだ槍を膝に寝かせたまま、欠伸を噛み殺している。塀の内側からは、もう朝の煙が何本か上がっていて、どこかの家で戸を開ける音が、塀越しに小さく聞こえてきた。この門をくぐるのは、今朝で四日目になる。


門の十歩手前で、ツグミが止まった。陽はそのまま二歩ほど進んでから、合図のために振り返ろうとした。そのとき、横から声がした。


「これ、担ぎの家へ」


荷車の男だった。いつのまにか陽のすぐ脇まで上ってきていて、荷台の上の、縄で括った籠を顎で示している。日に焼けた首に汗が光っていた。男は陽を、担ぎの家の者だと思っているらしかった。四日も同じ門を同じ時刻にくぐっていれば、そう見えるのかもしれないし、門のすぐ内側の家に毎朝入っていく顔を、誰かがそういうふうに話したのかもしれない。陽は少しだけ、くすぐったい気がした。


その声に重なって、背中のほうからも一つ、声がした。


短い音で、男の声の真ん中に落ちてきて、男の声と一緒に終わった。聞き取れなかった、と陽は思う。何かを言われたのは分かるのに、どんな音だったのかが、男の「担ぎの家へ」の下に潰れて残っていない。


「あ、はい。担ぎの家ですね。持っていきます」


陽は男に頷いてから振り返った。ツグミは十歩手前に立ったまま、陽を見ている。陽が石を指して手のひらを下げると、ツグミも同じ仕草を返した。夕、ここ。それはいつもどおりに通じた。ツグミはもう一度何かを言い直すこともなく、川のほうへ下りていった。


荷車の男が籠を下ろしはじめたので、陽はそれを受け取りながら、半分は冗談のつもりで、口の中で言った。


「アカリさん。今の、二人とも何て言った?」


「お話しになったのは、お一人です。『これ、担ぎの家へ』と」


女神の声は、いつもの調子だった。荷車の男は籠の縄を解きながら、陽の独り言には何も言わず、顔も上げなかった。


「いや、そっちじゃなくて。後ろのもう一人は」


「お話しになったのは、お一人です」


同じ言葉が、同じ調子で返ってきた。一度目より短くなっただけで、声の高さも、間の取り方も変わらない。


陽は籠を抱え直した。ツグミのことになると、女神はいつもこうなる。何の話だったか分からなくなったように途切れるか、今みたいに、訊いたことの半分だけに答えて、残りの半分はなかったことにする。はじめのうちは気味が悪かったが、今では、そういうものなのだと思うようにしている。


「そういうことにしとくのね。了解。運営からの回答は以上です、ってやつだ」


女神は何も足さない。荷車の男は空になった荷台の縄を巻き直し、陽に軽く手を上げて、坂を下っていった。陽は籠を抱えて門をくぐり、石の台の門衛は、陽の抱えた籠のほうを一度見て、また欠伸をした。


担ぎの家の戸口では、サヨがもう土間に荷を広げていた。陽が籠を下ろすと、サヨは札を弾いて刻み目を読み、それから顔を上げた。


「門の外で受けたの?」


「はい。車の人が、担ぎの家へって」


「朝から一つ多いね」サヨは前掛けに線を一本足した。「まあいいや。多いぶんには困らない」


---


四日目の荷は、朝のうちに土間の半分を埋めた。


サヨは荷の山の前にしゃがんで、札を弾きながら行き先を読み上げ、読み上げたそばから陽の背負い板に載せていく。坂の上が二つ、井戸の向かいが一つ、代官所の裏が一つ、それから陽のまだ行ったことのない、北の水路沿いの家が二つ。水路沿いは、サヨが道を二度説明した。二度目の説明は一度目より短く、手の振り方だけが大きくなる。


昼前までに、陽は坂の上と井戸の向かいを片づけた。坂の上の家の年寄りは、今日は戸口にいなかった。戸を叩くと中から声だけが返ってきて、荷は戸の内側に置いてくれと言う。陽はそのとおりにし、戸を閉めて坂を下りた。


昼は、裏へ回る戸口の敷居で食べた。サヨが包みを開けて分けてくれた平たいものは、今日は胡麻のような粒が表に散っていて、噛むと香ばしかった。陽は半分を齧りながら、裏庭を眺めた。


裏の男は、いつものように塀の下にしゃがんでいる。陽の背負い板は、午後の分を載せて、通り口の脇の台に立てかけてあった。北の水路沿いが二つと、代官所の裏と、坂の上の残りの一つ。サヨが載せた順番のままだ。


男が立ち上がって、台のほうへ来る。陽のほうへは目を向けず、何も言わずに、背負い板の荷の札を一つずつ指で起こして、刻み目を見た。刻み目は、陽が四日かけてやっと坂の上と井戸の向かいだけ見分けられるようになった、あの細い線の並びだった。男の指は、そのどれの上でも止まらなかった。見終えると、上に載っていた坂の上の荷を下ろし、水路沿いの二つを上へ積み直して、代官所の裏の荷をその間に挟んだ。坂の上の荷は、いちばん下になった。それから男は、札の刻み目を一度だけ指でなぞって、塀の下へ戻っていった。


陽は平たいものを持ったまま、並べ替えられた荷を見ていた。水路沿い、代官所の裏、水路沿い、坂の上。何の順番なのかは、陽には分からない。サヨが載せた順より、ずっと行ったり来たりしそうに見えた。


「ノキ」


土間の奥から、サヨの声がした。


「坂の上のは後で。あそこ、昼過ぎまで誰もいないから」


塀の下で、男が顔を上げずに片手を上げた。聞こえた、というだけの上げ方だった。


ノキ、と陽は口の中でなぞった。裏の男の名前らしい。雇われの手伝いを呼ぶにしては、サヨの声は近かった。荷の用件を言うのに、呼びかけから次の言葉までの間が無い。昼の粥の番を頼む相手や、土間の隅の瓜の籠のことを言う相手に使う声だった。陽はそれを少しだけ変だと思った。けれど、瓜を持ってきた隣の女は、担ぎの家は母親と娘の二人だと言っていた。だから、ノキはこの家の人ではない。長く通っている手伝いなら、呼び方くらい近くもなるだろう。陽はそこで考えるのをやめて、平たいものの残りを口に入れ、背負い板のほうへ立った。


午後、陽は並べ替えられた順番のとおりに回った。


北の水路沿いは、塀の内側でも陽の知らない側だった。門から見て右手の奥へ入り、家並みの切れたところまで行くと、石で縁を組んだ細い水路が通っていて、その縁で女たちがしゃがんで何かを洗っていた。水の音が、坂の上の井戸とは違う低さで続いている。陽が荷の札を掲げてみせると、女の一人が、洗っていた布を絞る手を止めずに、顎で水路の先を示した。陽は頭を下げて、示されたほうへ歩いた。背負い板の荷が、歩くたびに背中で小さく鳴った。


一つ目の水路沿いの家は、サヨの二度の説明のとおりに見つかった。そこから代官所の裏へ行くには、水路に架かった細い板の橋を渡ればよく、渡った先の路地を抜けると、もう代官所の塀の裏手だった。荷を置いて路地を戻る途中で、二つ目の水路沿いの家の戸口が、橋の向こう岸に見えた。サヨの説明では、一つ目と二つ目は別々の道から行くはずだった。陽は橋をもう一度渡った。


二つ目の荷を置いて門のほうへ戻りかけたときには、日はもう少し傾いていた。最後の荷は、坂の上でも年寄りの家より一つ上の家で、その戸口では女が一人外に出て、縁台に干したものを取りこんでいた。陽が荷を差し出すと、女は「昼はいなかったからね」と言って、荷を受け取った。


坂を下りながら、陽は指を折って数えた。担ぎの家に戻ったのは、昼からこれで一度だけだった。サヨの載せた順なら、少なくとも二度は戻っていたはずだ。


裏庭を覗くと、ノキは塀の下で次の荷の縄を括っていた。陽は通り口の手前から、親指を立ててみせた。ノキは陽の親指を見て、それから陽の顔を見て、何も返さずに縄に目を戻した。陽は親指を立てたまま、しばらくそこに立っていて、それから下ろした。


---


夕方、背負い板を土間の隅に戻して、銭を受け取りに表へ回ると、戸口の脇に、サヨともう一人、年の行った女が立っていた。


サヨより背が低く、肩が丸い。白いものの混じった髪を、サヨと同じように後ろで一つに縛っている。額の広さと、太い眉がサヨに似ていた。この家の母親なのだろう、と陽は思った。四日通って、顔を見るのは初めてだった。


二人は顔を寄せて、声を落として話していた。サヨは腕を組んで、戸口の柱に肩を預けている。母親のほうは両手を前掛けの下に入れたまま、ときどき、裏庭のほうへ顎を振った。話の中身は、陽のところまでは届かない。届いたのは、サヨの声がいつもの荷の読み上げよりずっと低いことと、母親が一度、首を横に振ったことだけだった。


陽が敷居をまたいで一歩近づくと、二人は黙った。


サヨが柱から肩を離して、陽を見た。母親のほうは陽を一度見て、それから何も言わずに、前掛けの下から手を出して、土間の奥へ入っていった。


「……銭ね」


サヨは前掛けの袋から銭を四枚出して、陽の手のひらに一枚ずつ置いた。置き方はいつもと同じで、数えるときの指の速さも同じだった。


「明日も、朝から頼むよ」


「はい。あの、今日、ノキさんが荷の順番を並べ替えてくれて。めちゃくちゃ早く回れました」


サヨは陽の顔を見て、それから裏庭のほうを一度見た。


「そう」


それだけ言って、サヨは戸口の内側へ入り、戸を半分まで閉めた。閉めきらなかった隙間から、土間の奥の、母親の低い声が一つだけ聞こえて、それきり何も聞こえなくなった。


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