受けない
朝、木の下で目を覚ますと、ツグミはもう火の跡に土をかけていた。袋を背負っていない。セム、と陽は口の中で言ってみた。まだ、だ。今日もこの塀の下にいる。陽は腰の紐の石と銭を確かめて立ち上がり、ツグミと並んで門のほうへ歩いた。門の十歩手前でツグミが止まり、陽が石を指して手のひらを下げると、ツグミも同じ仕草を返して、それから川のほうへ下りていった。石の台の門衛は、もう二人のほうを見もしない。三日も続けば、見慣れた朝なのだろう。陽は門をくぐりながら、今夜のことを考えていた。今夜、訊こう。昨日の川原で笑ったあとから、ずっとそう思っていた。
三日目の荷は、坂の上が三つと、井戸の向かいが二つだった。
井戸の向かいの家は、もう札を見なくても分かる。坂の上の家の年寄りは、今日は陽が戸を叩く前に、もう戸口に立っていた。担ぎの家の戸口で背負い、坂を上って置き、下りてまた背負う。毎日同じ道を同じ数だけ往復していると、これはもうデイリーだな、と陽は思った。こなせば銭が四枚で、報酬は渋いが、失敗しても何も減らない。
昼前、戸口に荷車が三台続けて着いて、土間が荷で埋まった。サヨは荷の山の前にしゃがみこんで、札を弾いては前掛けに線を引き、線を引いてはまた札を弾いた。途中で手が止まり、指で線をなぞり直して、首を傾げる。
「……一つ足りない」
「え、俺、何か落としました?」
「旅の人のせいじゃない。数えたのがあたしだから」サヨは立ち上がって、荷の山をぐるりと回り、裏口のほうを一度覗いて、戻ってきた。「ああ、あった。裏に一つ回ってた」
言いながら、もう前掛けの線を一本消している。陽はその手の速さに感心しながら、坂の上へ向かう荷を背負った。
坂の途中で、陽は荷を背負ったまま一度立ち止まり、左の腕の内側を出して、右手の人差し指で線を一本引いてみた。それから、その線を指先でなぞって閉じる。これで伝わるだろうか、と思った。切った、塞がった。門を指して、開いた。手のひらを見せて、あげる。順番を変えてもう一度やってみて、やっているうちに、坂の上から降りてきた男が陽の腕をじろじろ見て通り過ぎたので、陽は慌てて腕を下ろした。ジェスチャーゲームの練習にしては、観客の反応が冷たすぎる。
昼に、裏庭の男がまた通り口の手前で足を止めた。陽は焼いた平たいものを齧りながらそれを見て、それから目を逸らした。手伝いの人には手伝いの人の持ち場があるのだろうし、あまりじろじろ見るものでもない。
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夕方、門を出ると、石のそばにツグミがいた。陽が石を指して手のひらを下げると、ツグミは同じ仕草を返して、塀の外の木のほうへ先に歩きだした。
火はもう焚いてあった。枝に刺した魚が二本、火の周りに斜めに立ててある。ツグミは火のそばにしゃがんで、一本の向きを変える。陽は火の向こうに腰を下ろして、塀の上に灯りが一つずつ点いていくのを眺めた。塀の内側から、夕餉の煙が何本も上がっている。陽は昼にあの中で平たいものを齧り、瓜を齧り、夕方になると門をくぐってここへ戻ってくる。ツグミがあの煙の下で飯を食うところを、陽は一度も見ていない。
訊こうと思っていた。
昼のあいだ、坂を上り下りしながら、陽はずっとそのことを考えていた。
ヨリの穴の底で、水の出る壁の前に並んでしゃがんだとき、陽はツグミの手の甲の布を見ていた。女神の手を触れれば、祝福を授けられる。授けたら、次の怪我には女神の手が届くし、街の門も開く。陽は手を伸ばして、布のすぐ上で止めて、引いた。伝える言葉を一つも持っていなかったからだ。伝えられないまま、戻せないことをするのは違う、と思った。
あれは、ずいぶん前のことのような気がする。今はセムが通じるし、夕、ここ、も通じる。もちろん全部が通じるわけではないが、何ひとつ通じなかったあの夜とは違う。
それに、この塀だ。陽は毎朝、門をくぐって中へ入り、毎夕、門をくぐって外へ出てくる。ツグミは毎朝、門の十歩手前で止まり、夕方には石のそばにいて、夜は塀の外の木の下で眠る。祝福を受ければ、門が開く。陽が知っているのは、アカリに聞いたその二つだけだった。けれど、二つあれば十分だと思った。
訊くだけなら、決めることにはならない、と陽は思った。決めるのはツグミだ。
「ツグミ」
ツグミが顔を上げた。陽がツグミを名で呼ぶことは、あまりない。ツグミは魚の枝から手を離して、陽を見る。
陽は右手を、手のひらを上に向けて、火の上に差し出した。ツグミの目がそこに落ちるのを待ってから、その手で、背後の塀の、門のあるほうを指した。それから左の腕の内側を出して、右手の人差し指で、そこに短い線を一本引く真似をした。切り傷のつもりだった。その線を、指先でなぞって閉じる。塞がる。
祝福を受けたら、門が開く。次に怪我をしても、女神の手が届く。
陽はもう一度、手のひらをツグミのほうへ向けた。その手で最後にツグミを指そうとして——
ツグミが首を振った。
陽の手が、まだ宙にあるうちだった。ツグミは火の向こうで陽の手のひらを見たまま、ゆっくり一度、首を横に振った。
最後にツグミを指すはずだった人差し指が、火の上に残っていた。坂の途中で何度も並べ直した順番の、最後の一つだった。指す先を失った指は少しだけ曲がったまま、下りも上がりもしない。火の熱が、指の腹にじかに当たっていた。
ツグミには分かったのだ、と陽は思った。陽が何を言おうとしているのかが、手のひらと門と塞がる傷だけで、言い終える前に分かって、分かったうえで首を振った。
「……まだ、ぜんぶ言ってないんだけど」
ツグミは答えずに、腕を上げた。
人差し指で上を指す。火の粉が上っていく先の、暗い空だった。その指を自分の目もとへ下ろして、目のすぐ横を指し、それから自分の胸を指した。
指は、胸から離れなかった。
ツグミは自分の胸を指したまま、陽を見ていた。火が一度はぜて、魚の脂が落ちる音がしても、指は動かなかった。
上から、目が、自分を。離れない。陽はそれを頭の中で並べ直し、並べ直したものを、自分の手でなぞってみた。空を指して、自分の目を指して、ツグミを指して、指したまま止める。
「……上から、見られる。ずっと」
ツグミが頷いた。
陽は指を下ろした。祝福を受けると、女神に見られ続ける。ツグミが言ったのはそれで、陽の言い直しに、ツグミは頷いた。本当にそう言ったのか、陽がそう受け取っただけなのか、その境目は陽にはよく分からなかった。
白いところで向かい合った人の顔が、浮かびかけた。見られ続ける、と言われても、それが悪いことなのかどうかさえ、陽には分からない。陽は、自分がいま見られているのかどうかを考えかけて、考えるのをやめた。
「……なんで」陽は言った。「なんで、受けないんだ」
日本語は通じない。けれど、顔で分かったのかもしれない。ツグミは少し火を見て、それから肩を小さく持ち上げて、落とした。
「ウル」
知らない、という顔だった。
陽は一瞬、それを自分に向けられたものだと思った。お前は分かってない、何も知らないくせに、と言われた気がして、胸の奥が冷たくなりかけた。けれど、ツグミの顔は陽を責めていなかった。肩を落としたまま、火を見ている。知らないのはツグミ自身のほうなのだ、と陽は受け取った。なぜ受けないのかを、ツグミも知らない。そういう顔に見えた。
ツグミは右手で、自分の胸のあたりに小さく円を描いた。それから、その手を後ろへ、塀とは反対の遠いほうへ軽く振った。
「ヤト」
円を描いた手が、もう一度、同じところに同じ円を描いた。何度も。うち、と陽は受け取った。うちは、そうしてきた。
ツグミはそれ以上、何も足さなかった。誰がそう決めたのか、いつからなのか、陽は訊かなかった。訊けば、身振りの続きが返ってきたかもしれない。けれど陽はそれを訊く身振りを持っていなかったし、持っていたとしても、たぶん訊かなかった。
ツグミは、受けない。それが、陽の手のひらと門と塞がる傷への答えだった。
陽は火の上に出していた右手を、膝に戻した。
あの夜と同じだ、と思った。穴の底で手を伸ばして、引いた。今度も手を引いた。違うのは、今度は訊いたことで、訊いて、答えを聞いて、それで引いた。同じ引き方なのに、膝に戻した手の重さが、あの夜とは違っていた。
ツグミは魚の刺さった枝を一本抜いて、皮を指でつまんで焼け具合を見ると、火越しに腕を伸ばして、陽の膝の少し先にある平たい石の上に置いた。陽が話しはじめる前から、陽の側へ寄せて焼いていた一本だった。置き終えると、ツグミの手はすぐに火の向こうへ戻っていった。
陽は石の上から枝を取った。熱い。
「……ありがと」
ツグミは自分の分を抜いて、何事もなかったように齧りはじめた。陽も齧った。皮が香ばしく、身は柔らかく、塩の味がする。今朝ツグミが川で捕ってきたのだろう。いつもと何も変わらない魚だった。
二人とも、しばらく黙って食べた。ツグミは身をほぐしながら、骨の細いところを指でよけて、よけた骨を火の縁に並べていく。並べる順番に何か決まりがあるのかどうか、陽には分からない。陽は自分の魚の骨を、ツグミの並べた骨の隣に置いた。ツグミはそれを見て、陽の骨を一本だけ、並びの端へ移した。塀の上の灯りが、火の向こうの暗がりに点々と続いている。門の上にも一つ。陽は毎晩あの灯りを見ながら眠ってきたのに、今夜は、その一つだけが妙に目についた。
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食べ終えると、ツグミは骨を火に放り、袋を木の根に寄せてそこに頭を載せ、横になった。陽が火に枝をくべているうちに、寝息が聞こえてきた。今夜は、陽より先に眠った。
陽は火を見ていた。それから右手を膝の上で開いて、手のひらを上に向け、火の明かりにかざした。
木の根もとで、ツグミは袋に頭を載せて、膝を少し曲げて眠っている。袋の紐には輪と、何の葉なのか陽には分からない葉が結んである。寝返りを打つと、紐の先の輪が袋に当たって、小さく鳴った。陽はそれを聞きながら、火の中の枝を一本、奥へ押しやった。
何も起きていない手だった。熱も出ていないし、誰にも触れていない。今夜この手がしたことは、腕に傷の真似を描いて、門を指して、石の上の魚を取ったことだけだ。
陽はその手を閉じて、また開いた。何度開いても、同じ手だった。




