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名無しと勇者 〜転生先で「勇者」と呼ばれた俺と、「名無し」と呼ばれる少女〜  作者: 猫間じん


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モイッカイ

朝、門の十歩手前で、陽は脇の石を指して手のひらを下へ動かした。ツグミも同じ仕草を返した。昨日は三度かかった合図が、今朝は一度で済んだ。石の台の門衛は、今朝は首を傾けなかった。陽を一度見て、それから門のほうへ目をやっただけだった。


門をくぐると、担ぎの家の土間では、サヨがもう荷の前にしゃがんでいた。


「旅の人。坂の上が四つ。今日は井戸の向かいは無い」


挨拶の代わりに数が来た。陽は背負い用の板を取って、言われた荷を括った。


坂の上の家は、昨日二度間違えた家の二軒先で、今日は一度で当たった。戸口の年寄りは陽の顔を覚えていて、荷を受け取りながら「今日は迷わなかったね」と言った。陽は「二日目なんで」と答えて、答えてから、二日目で道を覚えたことを誰かに褒めてほしいと思っている自分に気づいて、少し可笑しくなった。帰りの坂を下りると、担ぎの家の戸口で、サヨが次の荷を数え直していた。前掛けの炭の線を指でなぞり、荷の札を弾き、もう一度線をなぞる。数が合ったらしく、サヨは顔を上げて、陽の背中の空の板を見た。


「次、坂の上。二つ」


「はい、坂の上、二つ」


陽が繰り返すと、サヨは何か言いたそうな顔をしたが、言わずに荷の縄を締めた。


---


昼の少し前、戸口に女が一人立った。


腰の曲がりはじめた年の女で、茶色の上着の袖を肘までたくし上げている。日に焼けた腕に、縄の擦れた古い跡がいくつも白く残っていた。片腕に浅い籠を抱えていて、籠の中には、陽の拳を二つ並べたくらいの大きさの、薄い緑に縦縞の入った実が、五つ六つ転がっている。女は籠を戸口の敷居に置くと、土間の奥のほうへ声を張った。


「サヨ。瓜だよ。今年のは甘いよ」


奥から、サヨの「はいよ」という声だけが返ってきた。女は戸口に立ったまま、陽を見上げた。上から下まで、ゆっくり見る。サヨが荷を見る速さとは違う、急がない見方だった。


「あんたが、門から来る新しいのかい」


「あ、はい。ヨウっていいます。昨日から、担がせてもらってます」


「そうかい」女は籠から瓜を一つ取って、掌で重さを量るように上下させた。「春に、うちの屋根の石を上げてもらってね。重いのを、只で。毎年、その礼に瓜を持ってくるんだよ」


「へえ。いいですね、そういうの」


陽は愛想よく頷いて、それから、裏庭のほうへ目をやった。朝、陽が荷を取りに裏口を覗いたとき、昨日の男はもう塀の下で縄を括っていた。陽を見て頷き、それきりだった。ここからは見えないが、今もたぶん、あそこにいるのだろう。


「あの、つかぬことを伺いますけど。裏の人も、この家の人なんですか」


女は瓜を持ったまま、陽を見た。少しのあいだ、何も言わなかった。


「担ぎの家は、母親と娘の二人だよ」


それだけ言うと、女は籠を敷居に置いたまま、瓜を一つだけ手に持って、戸口の脇から裏へ抜ける細い通り口のほうへ歩いていった。陽は背負いかけていた板を下ろして、通り口のほうを覗いた。


通り口の向こうの裏庭で、女は塀の下にしゃがんでいる男の前に立った。男が顔を上げる。女は何も言わずに、持ってきた瓜を、縄を持っていたほうの男の手に置いた。男は縄を膝に落として、両手で瓜を受けた。女はもう背を向けていて、男が何か言ったのかどうか、陽のいるところからは分からなかった。


女は通り口から戻ってくると、陽の横を通り過ぎて、敷居の籠を奥へ押しやり、「じゃあね」と誰にともなく言って帰っていった。


二人だよ、と陽は口の中で繰り返した。


母親と娘の二人。なら、裏の男はやっぱり、この家の人ではないのだ。昨日思ったとおり、雇われの手伝いで、瓜はたぶん、手伝いの人への気遣いなのだろう。近所づきあいというのは、そういうところまで目が届く。陽は板を背負い直して、坂の上の荷を取りに土間へ戻った。


土間の隅で、サヨが瓜の籠を覗き込んで、一つずつ数えていた。数え終わると、一つを取って、裏口のほうを一度見て、それから棚に置いた。


昼に、サヨは籠の瓜を一つ、土間の台の上で割った。刃物を当てて、両手で押し開けると、中は白っぽい黄色で、真ん中に種がびっしり並んでいる。甘い匂いが土間に広がった。サヨは割ったものをさらに四つに切って、一切れを陽に突き出した。


「今年のは甘いって、言ってたからね」


陽は齧った。水が多くて、甘さは思っていたより薄く、そのかわり冷たかった。井戸の水に浸けてあったのかもしれない。陽は二口目で汁を顎まで垂らして、慌てて袖で拭いた。


「うま。これ、めっちゃ水分ある」


サヨは自分の一切れを齧りながら、陽が袖を汚すのを見て、何も言わずに布を一枚放ってよこした。


---


夕方、門を出ると、石のそばにツグミが立っていた。


今日は魚を提げていない。陽が石を指して手のひらを下げると、ツグミは同じ仕草を返してから、顎で川のほうをしゃくった。


川原は、塀から少し下ったところにある。ツグミが魚を捕る浅瀬よりも下手で、流れがゆるく、広い淵になっていた。水面は夕日を受けて赤く、向こう岸の草の影が長く水に落ちている。ツグミは川原の石の上を歩きながら、ときどき屈んで、平たい石を拾っては手の中で転がし、気に入らないものは捨てた。三つ残した。


それから、水際に立って、腰を低く落とした。


腕が横に振られて、石が手を離れた。石は水面に落ちずに跳ねた。跳ねて、跳ねて、また跳ねて、跳ねるたびに間が短くなって、水面に小さな輪をいくつも並べながら、淵の真ん中あたりでようやく沈んだ。


「うそ」と陽は言った。「え、何回跳ねた、今の」


数えていなかった。ツグミは二つ目の石を、もう投げていた。今度も同じくらい跳ねた。輪が点々と並んで、夕日の赤の中で一つずつ消えていく。


陽は足もとの石を拾った。子どものころ、川でやったことはある。上手くはなかった。けれど、一回や二回なら跳ねた気がする。陽はツグミの真似をして腰を落とし、腕を横に振った。


石は、水面にまともに刺さって、ぼちゃん、と沈んだ。


ツグミが陽を見た。


「……もう一回」


陽はもう一つ拾った。今度はさっきより平たいのを選んで、腕の振りを低くした。石は水面を一度叩いて、跳ねずに、そのまま沈んだ。


ツグミが、川原の石を踏んでこちらへ来た。陽の手首を掴んで、腕を下へ押し下げる。もっと低く、ということらしい。それから自分の石を陽の手に載せて、陽の人差し指を石の縁に沿わせ、親指で平たい面を押さえさせた。ツグミの指は硬く、曲がって付いた節が、陽の指の背にごつごつと当たった。ツグミは陽の手を離して、自分の空の手で、腕を横に振ってみせる。低く、水面と同じ高さで、最後に手首だけを返す。


「いや、今の惜しかった。惜しかったでしょ。もう一回」


ツグミは三つ目の石を手の中で回しながら、陽の顔を見ていた。陽は三つ目を探して屈んだ。平たい石は、川原にいくらでも転がっているようで、手に取ると、どれもどこかが厚かった。一つ拾って、捨てて、もう一つ拾う。後ろでツグミが石を投げる音がして、水面を叩く軽い音が、たん、たん、たん、と遠ざかっていった。


陽は拾った石を持って水際に立ち、教わったとおりに指を縁へ沿わせて、腰を落として腕を振った。


石は跳ねた。一回だけで、二回目の前に水の中へ消えた。


「一回! 今の一回跳ねたよね。見た?」


振り返ると、ツグミは見ていた。見て、何も言わなかった。陽の足もとの、濡れた川原の石を見て、それから陽の手を見た。石の無い手だった。陽は屈んで、次の石を探しはじめた。


「よし。もう——」


「モイッカイ」


陽は屈んだまま顔を上げた。


ツグミが言ったのだった。陽より先に、陽が言いかけた言葉を、陽の声より少し高い声で、少しだけ平たい調子で、でも、はっきりと、陽の言葉の形で。


モイッカイ。


それは陽の日本語だった。三度繰り返した、陽の「もう一回」だった。陽の口から出て、川原に落ちて、ツグミが拾って、ツグミの口から戻ってきた。音は少し違っていて、けれど、陽にはそれが自分の言葉だと、聞いた瞬間に分かった。


陽は吹き出した。


屈んだまま笑って、笑って、膝をついた。ツグミは陽が笑うのを見て、片方の眉を上げて、それから自分も笑った。声を出して、肩を揺らして、もう一度「モイッカイ」と言って、また笑った。陽は川原に尻をついて、腹を押さえた。


「それ、俺の。俺のだから、それ」


ツグミは平たい石を一つ拾って、陽の手に押しつけた。顎で、水面をしゃくる。


「モイッカイ」


「……はい。もう一回」


陽は立ち上がって投げ、石は沈み、ツグミが笑って、陽も笑った。コンティニューは無限にあるらしかった。


---


日が沈むまで、陽は投げ続けた。


一回跳ねたのが、あと一度だけあった。二回跳ねたのは、一度も無かった。ツグミは途中で投げるのをやめて、川原の大きな石に腰を下ろし、陽が屈んで石を探すたびに、「モイッカイ」と言った。言うたびに少しずつ上手くなって、終わりのほうでは、陽の言い方とほとんど同じに聞こえた。


帰り道、塀の外の木の下へ戻る途中で、ツグミがふと立ち止まった。道端に、食べられる茎の太い草が生えている。ツグミはそれを一本抜いて齧り、陽のほうへ差し出しかけて、手を止めた。陽の顔を見て、もう一本抜いた。


「モイッカイ?」


陽は笑って、受け取った。もう一本、ということらしかった。


火のそばで茎を齧りながら、陽は指を折った。ネハ、ルヒ、エナ、トヌ、イゼ、ロイ、セム。七つ。それから、もう一本、指を折りかけてやめた。モイッカイは覚えた語とは違うし、陽が教えたわけでもない。けれど、ツグミの口から出て、陽に通じた。どこに数えればいいのか分からなかった。


陽は折りかけた指を戻して、茎の残りを齧った。


---


翌朝、担ぎの家の土間で荷を括っていると、裏のほうで足音がした。


顔を上げると、表へ抜ける通り口の手前に、裏の男が立っていた。両腕に、括り直した荷を二つ抱えている。男は通り口の向こうの表の戸口を見て、その先の門を見ていた。三つ数えるくらいのあいだ、そうしていた。


それから荷を脇の台に置いて、向きを変え、裏庭へ戻っていった。


陽がそれを見るのは、二度目だった。


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