まだ
朝になっても、ツグミは答えなかった。
ゆうべ、陽が塀とは反対へ延びる道を指して「トヌ?」と訊いたとき、ツグミは紐をつまんだまま陽の顔を見て、それきり何も言わずに紐へ目を戻した。陽もそれ以上は訊かなかった。訊いた言葉が一つしかないのだから、重ねようがない。火が落ちて、ツグミが先に眠り、陽はしばらく塀の上の灯りを数えてから眠った。
目を覚ますと、ツグミは火の跡の前にしゃがんで、灰の中から昨日の茎の焼け残りを掘り出していた。袋はまだ木の根に立て掛けてある。背負っていない。陽は起き上がって、腰の紐の石と銭を指で確かめ、それからもう一度、道のほうを指した。
「トヌ?」
ツグミは茎の灰を指で払いながら、陽の指の先を見た。見て、首を横に振った。それから陽の顔を見て、一語だけ言った。
「セム」
言いながら、手のひらを下に向けて、地面の少し上で一度、押さえるように動かす。
陽は、それで分かった。
どうして分かったのかは自分でも説明できない。セムという音を聞いたのは初めてで、手のひらを押さえる仕草も初めて見た。けれど、ツグミの顔と、背負っていない袋と、下へ押さえる手を一緒に見たら、それはもう「まだ」以外の意味にならなかった。行かないのではなく、まだ行かない。いつになったら行くのかは、ツグミが決める。
「セム」と陽は言って、同じように手のひらを下へ動かした。「まだ、ね。了解」
ツグミは頷いて、焼けた茎を半分に折り、片方を陽に寄越した。
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困ったのは、昼だった。
鍛冶場にはもう行かない。昨日そう決めて、鍛冶の男に頭を下げてきた。けれどツグミが「まだ」と言うなら、この塀の下にあと何日かいることになる。そのあいだ、昼をどこで過ごすのか。腰の紐の銭は一枚で、これで塩がどれだけ買えるのかもまだ知らない。
仕事を探そう、と陽は思った。最後に仕事を探したのがいつだったか、もう思い出せない。その自分が、若い身体で、知り合いもいない街で、次の職場を探す。履歴書も無いし、書けることも無い。転職活動にしては準備が足りなさすぎて、陽は茎を齧りながら少し笑った。
ツグミは門まで付いてきて、いつものように、門の十歩手前で止まった。陽は振り返って、夕方にはここへ戻る、と伝えたくなった。陽は門の脇の、槍の男が座っている石の台とは反対側にある、腰ほどの高さの石を指さした。それから空を指して、日が沈む方角へ腕を倒し、また石を指して、自分の胸を指した。夕方に、ここへ、俺が。自分でも長いと思う言い方で、ツグミは首を傾げた。陽はもう一度、空から石へ、石から胸へ指を動かした。ツグミの口から、短い音がいくつか出た。陽の言いたいことを、陽の知らない言葉で言い直したのかもしれない。
三度目は、胸を指すのを省いた。石を指して、手のひらを下へ。今朝ツグミがやった、押さえる仕草だ。
ツグミは石を見て、陽の手を見た。それから、自分も石を指して、手のひらを下へ動かした。
「夕、ここ」と陽は言った。日本語で。ツグミには音でしかないはずだったが、ツグミはもう一度、同じ仕草を返した。
石の台の上で、門衛がこちらを見ていた。石を指しては手のひらを下げる二人を、何の遊びだろうという顔で、首を少し傾けて見ている。陽が会釈すると、門衛は目を逸らして、槍の柄を立て直した。
門は、陽が近づくと開いた。
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門をくぐってすぐ、右手に、間口の広い家がある。
毎朝その前を通っていたのに、陽はちゃんと見たことがなかった。戸口が大きく開いていて、中の土間に、縄で括った荷がいくつも積んである。袋、籠、布で巻いた長いもの。戸口の脇には、背負い籠と、背負い用の板が何枚も立て掛けてあった。門の外から荷車を引いてきた男が、ちょうど荷を下ろしているところで、下ろした荷を土間に置くと、戸口の中の誰かに何か言い、空の荷車を引いて門へ戻っていった。
土間の中に、女が一人立っていた。
陽より少し年上に見える。日に焼けた丸い頬で、額が広く、太い眉の下の目が、荷の山の上をせわしなく行き来している。髪は後ろで一つにきつく縛ってあった。着ているのは、陽がこの街で見てきた服と同じ茶色の上着で、その上に、膝まである厚い布の前掛けをしている。前掛けの胸のあたりに、炭で引いたような線が何本も並んでいた。数えた跡らしい。女は荷車の男が置いていった荷の前にしゃがみ、括った縄の結び目を指で弾き、持ち上げずに、両手で荷の横腹を一度だけ押した。
「八つ。坂の上が二つ、井戸の向かいが三つ、残りは代官所の裏」
独り言だった。言いながら、前掛けの布に指で線を足している。
陽は戸口に立った。
「あの。すみません。ここ、荷物を運ぶお店ですか」
女が顔を上げた。陽の顔を見て、陽の肩を見て、腕を見て、脚を見た。上から下まで、荷を見るのと同じ速さだった。
「旅の人だね。毎朝、門から入ってくる」
「あ、はい。見られてました?」
「毎朝見てる。門の真ん前だもの」女は立ち上がって前掛けで手を拭いた。「で、何」
「仕事、探してて。荷物運ぶの、手が要るなら、使ってもらえないかなって。体力はあります。たぶん。力は、まあ、そこそこ」
言いながら、我ながら頼りない自己紹介だと思った。面接なら一次で落ちる。女は陽の腕をもう一度見て、それから土間の隅の荷を顎で指した。
「あれ、担いでみな」
布で巻いた長い荷だった。陽は背負い用の板を借りて、女に言われるまま荷を板に括り、膝を折ってしゃがんだ。担ぐ。立つ。そう思ったとき、身体が勝手に、左の膝をかばう形になった。体重を右へ逃がして、痛みが来るのを待つ。
来なかった。
膝は黙って伸びて、陽は荷を背負ったまま土間にまっすぐ立っていた。重い。けれど、重いだけだった。谷の村で甕を背負った朝と同じだ。陽は止めていた息を吐いた。
女は陽が立つのを見ていた。
「担げるね」女は言った。「日に銭四枚。昼は出す。担ぐのは塀の中だけ。印を読めなくても、あたしが言う家に置いてくればいい」
「え、雇ってもらえるんですか」
「担げるなら」
「担げます。担げました」陽は荷を背負ったまま頭を下げた。「ヨウっていいます。よろしくお願いします」
「サヨ」女は短く言って、もう次の荷の前にしゃがんでいた。「三つは井戸の向かい、一つは坂の上。旅の人、坂のは重いよ」
名乗ったのに、旅の人のままだった。勇者から担ぎ屋へ、ジョブチェンジだ、と陽は思い、思ったことは誰にも言わずに荷を背負い直して、戸口を出た。
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朝の塀の内側は、門の外よりずっと声が多い。戸板を外す音、水を撒く音、どこかの家で子どもを急かす声。軒先にはもう茶色の服が干されはじめていて、陽は背中の荷が誰かの服を引っかけないように、道の真ん中を選んで歩いた。井戸の向かいの家は、行ってみればすぐ分かった。坂の上の家は、二度訊いて、二度違う家の戸を叩いた。三度目に当たった家の年寄りは、陽の背中の荷を見て、「担ぎの家の新しいのかい」と言って受け取った。担ぎの家、というのがあの家の呼ばれ方らしい。陽は坂を下りながら、口の中で何度かそれを言ってみた。
昼までに、陽は五回往復した。二回、行き先を間違えて戻り、サヨに荷の印を指で叩かれた。印は荷に括りつけた小さな木の札で、刻み目がいくつか入っているが、陽にはどれも同じ刻み目に見える。
昼に、サヨが土間の隅で包みを開けて、焼いた平たいものと、干した豆を分けてくれた。陽はそれを受け取って、裏へ回る戸口の敷居に腰を下ろした。
裏は、狭い庭だった。
塀が近い。門の脇から続く、あの灰色の塀が、庭のすぐ向こうに、見上げるほどの高さで立っている。その塀を背にして、男が一人、しゃがんで荷の縄を括り直していた。
サヨより少し若く見える。痩せていて、肩が細く、茶色の上着の袖を肘までまくっている。髪は短く、顔は日に焼けていなかった。表で荷を担ぐ者の顔ではない。男は荷の札を指でなぞり、なぞってから縄をほどいて、別の荷と組み合わせ、また括る。括り終えると、結び目を一度引いて確かめ、次の荷へ移る。手が止まらない。
陽が見ていると、男は括り終えた荷を二つ抱えて立ち上がり、表のほうへ歩いてきた。陽の座っている敷居とは別の、表へ抜ける細い通り口のほうだ。その通り口の手前で、男は足を止めた。
通り口の向こうには、表の戸口が見える。戸口の向こうに、門が見える。
男は荷を抱えたまま、そこに立っていた。長くはない。三つ数えるくらいのあいだ。それから荷を通り口の脇の台に置いて、向きを変え、裏庭の、塀の下へ戻っていった。
陽は焼いた平たいものを齧りかけて、手を止めていた。
「あ、どうも」と陽は言った。「今日から、表で担いでます。ヨウです」
男は陽を見て、何も言わずに一度だけ頷き、しゃがみ、次の荷の縄に指を掛けた。
手伝いの人なんだな、と陽は思った。裏で括る係と、表で担ぐ係。自分と同じように、日に何枚かで雇われているのだろう。無口な同僚。表に出たがらないのは、たぶん、そういう持ち場なのだ。職場にもいた。裏方から絶対に出てこない、でも仕事は誰より早い人。
陽は平たいものを食べ終えて、表へ戻った。背中で、縄を締める小さな音がしていた。
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午後は坂の上へ三回行って、三回とも、ちゃんと当たった。戻るたびに、通り口の脇の台には、括り直された荷が増えている。誰が置いたのかは見ないでも分かった。サヨはそれを表へ運び込み、札を指で弾いて、行き先を声に出しながら土間に並べ直す。裏から表へ、表から坂の上へ。荷はそうやって、一度も止まらずに流れていく。途中の一か所だけ、通り口の手前で、人の手が替わる。四回目、サヨが荷の札を陽に見せて「これは」と訊いた。陽は刻み目を見て、首を傾げた。サヨは笑わずに、「井戸の向かい」と言った。
日が傾くと、サヨは土間の荷を数え直して、前掛けの線を指でなぞり、銭を四枚、陽の手のひらに載せた。
「明日も来るなら、来な」
「来ます」
陽は銭を腰の紐に挟んだ。朝の一枚と合わせて、五枚になった。
門は、陽が近づくと開いた。石の台の門衛が、今朝と同じ顔で陽を見た。
門を出ると、陽は脇の石を見た。
ツグミが、石のそばにしゃがんでいた。
片手に、草の茎で鰓を通した魚を三匹提げている。まだ濡れていて、尾の先から水が落ちていた。ツグミは陽を見ると、立ち上がって、石を指し、手のひらを下へ動かした。
夕、ここ。
「……通じてた」と陽は言った。
ツグミは魚を陽の顔の前に持ち上げて、揺らしてみせた。




