門を叩く
その朝、陽はいつもより早く目を覚ました。
空はまだ白みはじめたばかりで、塀の上の灯りが、最後の一つだけ残っていた。火のそばでは、ツグミが膝を抱えて眠っている。袋の紐の葉が、朝の風で少しだけ揺れていた。陽は起こさないように立ち上がって、腰の紐に挟んだ平たい石と銭を、指で一度確かめた。石は谷の村の子どもがくれたもので、銭はゆうべツグミが投げてよこしたものだ。どちらも、陽が自分で手に入れたものではなかった。
門は、陽が近づくといつものように開いた。石の台の槍の男は、欠伸を噛み殺しながら陽を見て、何も言わない。
塀の内側の道は、まだ人が少なかった。戸口を開けている家もまばらで、軒先の茶色の服も、まだ干されていない。井戸の縁で、女が一人、桶を下ろしていた。陽が通り過ぎると、女は顔を上げて、またすぐに桶の縄を手繰りはじめた。鍛冶場への道を、陽は少しだけ急いだ。急ぐ理由は、自分でもよく分からなかった。
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鍛冶場の戸口は開いていた。中はまだ暗く、炉の前にしゃがんだ鍛冶の男の背中が、火の明かりで赤く縁取られている。男は灰をかき分けてゆうべの熾を掘り起こし、その上に細い炭を一本ずつ積んでいるところだった。息を吹きかけると熾が赤く膨らんで、炭の端に火が移る。鞴は、まだ押していない。
コウは、壁際に立っていた。
革の前掛けを、もう着けている。いつもと同じように。けれど手には何も持っておらず、炭の籠も火箸も、台の脇に並べてはいなかった。壁際の釘の前に立って、炉の前の男の背中を見ている。陽は戸口のところで止まった。中へ入っていいのか、分からなかった。いつもなら頭を下げて、壁際へ行く。今朝は、その数歩がどうしてか踏み出せない。炉の中で、炭がはぜる音だけが鳴っていた。
コウが、前掛けの紐に手をかけた。
背中で結んだ紐をほどいて、首から外す。革の前掛けは、コウの手の中で重そうに垂れた。焦げ跡と、擦れた跡と、炭の粉。コウはそれをしばらく持っていて、それから、いつも夕方に掛ける釘に、掛けた。前掛けの向きを、指で一度だけ直す。
男は、炭を積んでいた。
コウは男の背中に向かって、何か言いかけたように見えた。口が少しだけ開いて、閉じる。それから戸口のほうへ歩いてきて、陽の横を通り過ぎるとき、陽を見た。
「ヨウ」
それだけ言って、コウは戸口を出て、通りへ歩きだした。
陽は、炉の前の男を見た。男は振り返らなかった。炭を積み終えると立ち上がって鞴の柄を握り、押す。ふう、と長い息が出て、火が明るくなった。男は炉の中の鉄を火箸で動かし、それから台の前に立って、鎚を取った。
冷たいな、と陽は思った。息子が出ていくのに、顔も上げない。行ってこいとも、行くなとも言わない。ゆうべ、捕れたての魚を一緒に食べたはずの二人なのに。
鎚が、落ちた。
一つ打って、間があって、また一つ。硬いものを硬いもので打つ、高い音だった。陽が初めてここへ来た日から、毎朝聞いてきた間だ。その音は、コウが戸口を出ていっても、陽が戸口に立ったままでいても、少しも変わらなかった。途切れない。速くもならないし、遅くもならない。
陽は、冷たい、と思いかけたのを、やめた。
戸口を出ると、通りの先に、コウの背中が小さく見えた。陽はその後を追った。
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コウは、市の広場のほうへは行かなかった。道を一つ曲がって、塀の内側でも一段高くなっているほうへ、坂を上っていく。代官所へ金具を運んだ日と同じ方角だった。
陽はコウの三歩後ろを歩いた。朝の道には、少しずつ人が出はじめている。戸板を外している男が、コウを見て手を止めた。何か言おうとしたのか、口を開きかけて、コウの顔を見て、そのまま戸板を壁に立て掛けた。子どもが二人、コウの横を走り抜けていって、坂の途中で振り返る。コウは誰の顔も見ずに、同じ速さで坂を上り続けた。
何を言っても、コウの足を止めるか、速めるかのどちらかにしかならない気がする。それでも一つだけ、陽の口から出た。
「……今日、いい天気だな」
「うん」
コウは振り返らずに、短く返した。足は止まらず、速くもならなかった。陽はそれ以上、何も言わなかった。
代官所の建物の前を、コウは通り過ぎた。その先に、もう一つ、広い石段がある。石段の上に、大きな屋根があった。代官所の窓から見えた屋根だ。近くで見ると思っていたよりずっと大きく、ほかの家々の屋根とは形が違っていて、その下に、太い柱に挟まれた門がある。扉は閉まっていた。扉の前の石畳はきれいに掃かれていて、石段は、上のほうほど縁が丸く擦り減っている。
神殿なのだろう、と陽は思った。鐘は、ここから鳴るのだ。
コウは石段を上りきって、扉の前に立った。陽は石段の下で止まり、そこから先へは行かなかった。コウは扉を見上げている。背中しか見えない。前掛けを外した背中は、鍛冶場の中で見るよりも細く見えた。
コウが、右手を上げた。
拳を握って、扉に当てる。
叩いた。
乾いた、木の音がした。
陽は、それを見た。見てから、背を向けた。
石段を離れて、来た道を戻りはじめる。背中で、もう一つ、木の音がした。それから、もう一つ。陽は振り返らなかった。扉が開いたのか、開かなかったのか。誰かが出てきたのか、出てこなかったのか。陽はそれを見ないまま、坂を下りた。
三つ目の音のあとは、何も聞こえなくなった。聞こえなくなったのが、陽が遠ざかったからなのか、音がやんだからなのかは、分からない。坂を下りきると、市の広場のほうから、屋台を組む木槌の音と、人の声が上がってきていた。いつもの朝の音だった。陽はその中を、鍛冶場のほうへ歩いた。
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鍛冶場の鎚の音は、陽が戻っても同じ間で鳴っていた。
陽は戸口で頭を下げて、中へ入った。男は顔を上げなかった。陽は壁際の自分の場所へは行かずに、戸口の内側の、壁際の土間の前でしゃがんだ。
甕があった。陽が谷の村から背負ってきた甕だ。中はもう、ほとんど空になっている。男が布に含ませて、黒い塊を拭くのに使ってきた水だった。底のほうに、指一本分ほど残っているだけだった。顔を近づけると、冷たい水の匂いがした。谷の村の、上から汲んだ水の匂いなのかどうかは、陽には分からなかった。
陽は甕を抱えて戸口の外へ出て、脇の水桶で中を濯いだ。残っていた水を捨て、桶の水を汲んで、回して、捨てる。三度繰り返してから、外側の土と炭の粉も、手で擦って落とす。甕に掛けた縄の網は、谷の村でタツが掛けたときのままで、結び目の一つが少し緩んでいた。陽はそれを締め直し、締め直した結び目を、指で一度引いて確かめた。
甕を抱えて中へ戻ると、男が、鎚を振り上げたところで陽を見た。
「あんた」
陽は甕を抱えたまま止まった。男に「あんた」と呼ばれたのは、初めてだった。いつも、おい、だった。
「甕は、そこでいい」
男は顎で、甕が置いてあった壁際の土間を示した。それだけ言って、鎚を落とす。陽は甕を元の場所に置いて、手を離し、それからもう一度、向きを直した。
陽は立ち上がって、台の前の男のほうを向いた。
「あの」
男は打っている。
「今日で、ここに来るの、終わりにします。……ありがとう、ございました。いろいろ」
陽は頭を下げて、下げたまま、少し待った。男は鎚を止めない。一つ打って、間があって、次の一つを打つ前に、顎を一度だけ引いた。
それから、また打った。
陽が頭を上げると、男はもう鉄を見ていた。陽は壁際を見た。長さごとに並んだ棒の束と、布の上に並んだ磨いた道具。その端に、握りの細い小さな鎚が一つ、並んでいた。釘には、革の前掛けが一枚、掛かったままだった。
陽は、戸口を出た。
背中で、鎚の音が鳴っていた。一つ打って、間があって、また一つ。道の角を曲がって、音が家々の屋根の向こうに隠れるまで、その間は、一度も変わらなかった。
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昼のあいだ、陽は塀の内側をあてもなく歩いた。
市の広場を抜けると、塩の屋台の年寄りが、陽を見て顎を一度引く。炭の屋台の女は、陽の後ろに誰もいないのを見て、首を傾げた。陽は愛想笑いだけ返して、通り過ぎる。汁物の屋台の腰掛けでは、男たちが今日も椀を手に何か話していて、陽が通りかかっても、話は途切れなかった。代官所の前を通り、坂の上の石段の手前まで行きかけて、引き返した。鍛冶場のある通りにも入らない。鎚の音が聞こえる角まで行って、そこで少し立ち止まって、それから門へ戻った。
日が傾きかけたころ、陽は門の近くの塀の根もとに腰を下ろした。腰の紐から銭を抜いて、手のひらに載せる。くすんだ色の、小さな金属が一枚。これで塩がどれだけ買えるのかも、陽はまだ知らない。平たい石と並べて、また紐に挟んだ。
谷の村のことを思い出した。タツが甕に縄の網を掛けていた手つき。金床に要る、と言った声。あの甕は、もう空になって、鍛冶場の壁際に置いてある。届けたのだから、それでいいはずだった。それでも、背中が軽すぎる気がした。
甕は、もう届け終わった。鍛冶場には、もう行かない。明日の朝、自分がどこへ行くのか、陽には分からなかった。目的地のマーカーは、どこにも出ていない。
夕方、塀の外の木の下で、ツグミは火のそばに座っていた。
袋の紐を膝の上に広げて、葉の結び目をいじっている。ほどいて、結び直して、またほどく。陽が火の向こうに腰を下ろしても、ツグミは紐から目を上げなかった。火の端では、茎の太い草が二本、焼けている。
ツグミは焼けた一本を火から抜いて、何も言わずに陽のほうへ転がした。陽はそれを拾って、今度は最初から皮を剥いて齧った。少し甘くて、青臭い。ツグミは紐から目を上げないまま、鼻で短く笑った。
陽は火を見て、それからツグミを見た。今朝のことを、どう伝えればいいのか分からない。門を叩く真似をしようとして、おとといの夜と同じように、拳を途中で下ろした。代わりに、腕を上げた。塀とは反対のほうへ延びていく道を、指さす。
「トヌ?」
ツグミが、顔を上げた。
陽の指の先を見て、それから、陽の顔を見る。紐をつまんだ指が、止まっていた。




